六章 排泄するだけの猿じゃないといえるかい 12
✳︎ ペニックスの最期
皆の眼前には異様な光景が広がっている。立ち上がったスダリアスは頭のない状態のまま辺りを睥睨している。ヤニックはそう見えた。スダリアスは次の瞬間体を震わせる。切断部の表面が波打ち脈動する。肉が蠕動運動を始める。
ヤニックの傍らに積まれていた回収した部位が入ったケースがガタゴトひとりでに揺れている。ヤニックは気になって青いラベルが貼られたそのケースを開けた。中に入っていたのは回収した四つの心臓だった。今それは生きているように脈動している。ヤニックはそれに触れる。手袋越しでも焼けるように熱い。
「こんなのは初めてだ」
タークが恐れるように言った。強面なタークが不安げな顔をしているのを傍らに立つ轍がもっと不安げな様子で見ている。
「我々の手には負えません。撤退しましょう」
轍はそうタークに言った。
「ああ、胴体班を全員集めてただちに撤収する」
器官再生はクリーチャーでは別段特別なことではないが、討伐直後それも死後すぐにしかおこらずここまで解体した後で動き出すことは初めてのケースといえた。
器官の再生は切断面にある細胞が集まって再生芽が形成されて起こる。再生芽細胞は分化細胞が脱分化した細胞で幹細胞と同様に高い増殖能と多分化能を持っており再生する組織の元となる。
スダリアスはうごめきながら首と胴体部の切断部にそれぞれ新しい肉塊の増殖が始まっている。それはこの場では不自然なほど鮮やかなピンク色をしていた。しかしすべてを覆うには巨大すぎた。また通常この行程は数日かかるところを一瞬でおこなったためか明らかに粗が目立つ。
「このまま復活すればみんな殺られるぞ!」
誰かが叫んだ。不安を伴った声が群衆の中を走る。それはすぐに伝播した。ヤニックはモルデカイとともにスダリアスを見遣った。知らず体が震える。
「みんな、逃げたほうがいいんじゃないか?」
「そうだそうだ、生き返る前に逃げよう」
皆が口々に話し出す。
「それはただの肉の塊だ。恐るるに足らん、なんの意志もない。私が保証する」
モルデカイが一歩前に出ると、皆を安心させるようにそう言った。モルデカイはスダリアスが復活するはずはないと高を括っているようだ。それほど驚異的なこととは思っていないのが余裕の表情からうかがうことができる。
「見てみろ、頭部の方は動きが止まっただろう」
モルデカイは言った。器官再生能力は人間にはもちろん備わってはいないが、トカゲ、イモリ、サンショウウオなどの両生類は手足や尻尾、脳や心臓までも再生することができる。しかし再生は二つに切って二匹に増殖するのではなく、どちらか生きて行く能力のある方をそうでない方が身を持ってかばう仕組みになっている。今回のスダリアスのケースでもモルデカイの言う通り頭部の肉の盛り上がりは止まり動きは途絶えた。脳と毒腺が除去された損傷は復元が困難なのか頭部を諦め胴体部を生かそうと本能で選択したのだろう。
頭部のない胴体部は身をもたげてしばらくその場でじっとしていたが、モルデカイの言葉に反応するかのように彼の方を向いた。それは明らかに意志を持っているように皆には見えた。再びざわざわと皆落ち着かない様子だ。
心臓を抜き取られ、背骨も取り出され内臓も残っていないのに動けるはずはないだろう。ヤニックは頭ではわかっているのだが、本能が危険を知らせて警告している。
「ボルゴンジ査察官、いかがなさいますか?」
取り巻きを含めグッケンハイムの者たちは査察官の指示を仰ぐ。皆、誰かの指示を必要としていた。
「想定外の事態だ。本部に連絡を取って確認しなくては…」
査察官は焦りながら早口で言った。
「我々の業務にこんなのは含まれていません! 危険手当をもらっても割に合いません」
取り巻きの一人がそう言うと走って逃げ出した。それを追うように取り巻きが次々と逃げて行く。
「ま、待て」
査察官はそう言いながら分厚い冊子を取り出してめくり始める。
「あ、あったぞ。緊急時の対処法についてだ。よ、読むぞ」
眼前に迫る恐怖でちらちらと目線をスダリアスに向けながら査察官は読み始める。
「緊急時の規定第一条、本規定は緊急な事件、事故発生時における対応の原則を定め、当社における緊急時の迅速かつ的確な対応を図ることを目的とするものである。復唱!」
そんなことを言われてもという表情で残っていた取り巻きたちは顔を見合わせくぐもった声で復唱する。査察官は舌打ちをするとさらに続けた。
「第二条、対策本部の設置。一、重大な緊急事態が発生した場合、早急に対策本部を設置し全ての指示対応を行うこととする。二、対策本部の設置の決定。緊急事態の規模、状況を考慮した上で以下の対策統括本部と現地対策本部を可及的に設置する。三、対策本部の組織構成と役割、名称をそれぞれつける。本部統括、本部長、本部員、事務局の人員を選定し任命を行う両対策本部でこれをそれぞれ行い…」
査察官が手元に持っていた分厚い手引書から顔を上げた時、目の前には誰もいなかった。査察官は手引書を投げ捨てた。
「モルデカイ様、なんとかしてください」
検案師の連中がモルデカイを取り囲みに詰め寄った。〈蚊の禿〉が懇願する声を出しモルデカイにすがる。〈婦人室〉〈拍節器〉もそれに追従する。口々にお願いしますと声をあげた。やがてそれは周りを巻き込み囃し立てるような波となる。中には膝まずき、手を合わせる者もいる。
「ほっとけほっとけ、すぐにくたばる。これは反射みたいなもんだ、気にするな。最後に蝋燭がわっと燃えるだろ、それと同じだ。なにもできやしない」
モルデカイはそう言うが声はおさまらない。「英雄! 英雄!」と大合唱が続く。モルデカイはあからさまにうんざりしたような表情を浮かべる。皆パニックに陥っている。冷静なものは誰一人いない。
その時、突然大きな爆発音とともに空気を引き裂くような光が空へ上がった。誰かが狼煙弾を空にあげたのだ。あたりは煙が流れ、視界が悪くなり焦げ臭い匂いがする。爆音と激しい光の明滅で皆の意識がそちらへ引き寄せられる。
「みんな、ぼやぼやするな、この場から逃げろ!」
叫んだのは〈去勢豚〉だった。唯一この場で冷静な男だった。狼煙をあげたのも彼の仕業だった。彼の言葉に皆は我に返る。
スダリアスは頭部もないままゆっくりと歩を進める。それは恐ろしい光景だった。切断部分は肉の膜ができているがなんだかわからない体液のようなものが溢れ出しているし、切断部の腹部は開いたままだ。残っていた臓物が裂いた腹からまろびおちる。それを自ら踏みつけ破裂し、足にまとわりついた。よたよたしたその姿は生まれたての小動物のようだ。首のない胴体部だけのスダリアスはひときわ異様だった。




