二章 高い塔 2
翌日から歩けるように歩行訓練を開始した。寝たきりだったのですっかり筋肉が落ちてしまい午前中は丸々歩行訓練に当てられた。足に力が入らないだけで筋力さえ戻れば前と変わらず歩けるようになると医師は言ったがやる気を失わせないための希望的観測であろう。皮膚感覚はまだ残っていて、歩行訓練はきつく終わる頃にはいつも汗びっしょりになった。しかし隣でヴィオが付き添ってくれるのでこちらとしても何の文句もなかった。
午後からは勉強の時間だった。初めヴィオとは病室で世間話をしていただけだったが、勉強をしたいとビジャンが提案しヴィオは快く引き受けてくれた。実際ビジャンほど優秀な生徒はいなかったのではないだろうか。学校へ行っていないビジャンにとって新しい知識を得ることは稀少であり素晴らしい体験だった。ビジャンは乾いた砂が水を吸うように知識を吸収していった。しかし最初のうちは自分の名前が読める程度でほとんど読み書きもできずヴィオが物語を読み聞かせることでビジャンは知らない言葉や表現を覚えていった。中でもビジャンは英雄譚を好んだ。特に琴線に触れたのはカジモドの物語だ。初めヴィオは初歩の歴史の教科書を読んで聞かせてたが、カジモドの項ばかり何度も読んでくれと言うのでその項だけ折り癖がついたほどだ。ビジャンにとってカジモドは初めて憧れる英雄だった。瘴気病で仮面をつけていたことも親近感が湧いた一因かもしれない。
「カジモドの名前の由来はなにかわかる?」
ヴィオは聞いた。ビジャンはカジモドに関しては今やヴィオより詳しくなっていた。こうして勉強前にクイズを出すのが毎日の日課になっていた。
「カジモドは捨て子だったけど拾われた時、ちなみに捨てられていたのはリンブルフの大聖堂なんだけど、ほとんど人間の形をしていなかったって。片目しかなくて瘤がいくつもあって背中は曲がっていて、瘴気病だったんだろうね。それで拾った人が不完全って意味の『カジモド』ってつけたそうだよ。でもこれにはもう一つ説があって、アオス教ではその日、アオステンプクトゥを讃える聖なる日だったからその日を意味する『カジモド』という名がつけられたっていうのが本当だって説もある。本人はどちらかと言えば前者の不完全な出来損ないを気に入っていたらしいけどね。植物型クリーチャーのスワンバナシアを討伐して二つ名をもらう時もあえて元のカジモドという名前をそのまま使う許しを王から得たというし。それからも仲間たちは愛情を込めて『不完全な出来損ない』を意味するカジモドの方のあだ名で呼んだっていう…」
放っておけばビジャンはいつまでもカジモドの話をしていた。その頃にはビジャンはある程度は字を読めるようになっていたのでカジモドに関する本がベッドの枕元に積み上げられている。ビジャンのためにヴィオが図書館に足を運び借りてきたものだ。
「ねえ、ビジャンって名前はどういう意味なの? この土地の言葉でしょ?」
「英雄」
ビジャンはそっけなく答えた。
「素敵な名前じゃない」
「そうでもないと思うけどな。名前負けな気がするしね。もし仮にだよ、僕が英雄になったら英雄英雄てなるでしょ、おかしくない? まぁそんなことはどうでもいいよ。そういうヴィオはどうなんだい?」
「名前の由来? スミレよ」
「あの、紫の花の?」
「そう、あまり好きではないけどね」
名前も花も、とヴィオは言った。華やかで高貴な絵画のように綺麗なヴィオにはぴったりな名前だとビジャンは思ったが言うと気持ち悪がられるかもしれないので言わなかった。
「誠実、謙虚、小さな幸せ」
「なにそれ? 家訓か何か?」
「スミレの花言葉よ。そういう人間に育つように願ったみたいだけれど、うまくはいかなかったみたいね」
そう言ってヴィオは苦笑した。
ヴィオの話を聞くのは好きだった。王都の話、この村の話や生まれ育った故郷の話などどの話もいつまで聞いても飽きなかった。
「王都からここへはどうやって来たの?」
知らない土地の話は面白く想像力をかき立てる。
「この村に来てから六年間一度も王都へは帰っていないから今は少し変わっているかもしれないけど」
ヴィオはそう前置きして続けた。
「王都から北へ半月ほど船で川を遡るとヘント・ヴェヘルヘムという街に着くわ。まずはそこを目指すの。レイテ川は海のように大きな川なんだけど海ほど危険ではないから定期船が出ているのよ。川には船に乗ったままサバニ船から新鮮なお魚を買うことができるし、露天舟と呼ばれる船が一箇所に集まっていて街のようになっているところがあるの。ちょっとしたお店があったりして流れの緩やかなところでは川の上で生活している人もいるわ。たまにガレー船が沢山の漕ぎ手を乗せてかけ声をあげながらものすごいスピードで水面を切り裂いて通るの」
サバニ船とは何か分からなかったがおそらく漁船のようなものだろう。
「定期船ではなくディンギーと呼ばれる自分の船を持っている人もいてずっと川を進んで放浪しながら生活している人もいるそうよ。お金持ちしかできないのでしょうけど」
世の中には想像すらしないような生き方をしている人がいるものなんだなとビジャンは思った。
「ヘント・ヴェヘルヘムは大きな町で、人も大勢住んでいてとても活気があるの。北に位置しているけれど気候は穏やかで過ごしやすいわ。年に一度大きなお祭りがあって私も何度か訪れたことがあるけれど露天がたくさん出ていてとても楽しいのよ。そこから北西へさらに遡って行くとコールスカンプへ。西に下って行くとロワール港へ着くわ」
ロワール港は聞いたことがある。村から最も近い港だ。ビジャンはもちろん行ったことはないし、海も見たことはない。父親は何度か木を輸出し王都に売るためにロワール港へ行ったことがあると聞いたことがあった。
「港から村までは歩いて一日か二日というところね。街道はあるけれど、途中結構な難所がいくつかあってこの村にたどり着くのは大変だと聞いたわ」
ヴィオの話を聞いて自分がいかに狭い世界で生きてきたかと思う。
「もっと早く行きたいのなら王都から川を下って海を回るルートもあるらしいのだけれど南の海は危険だから定期船もないし。あなた王都へ行きたいの?」
「どうかな、あまり想像できないし未来のことはまだわからないかな」
「私の未来は決まっているんだけどね」
ヴィオは少し寂しそうに言った。
ちょうど夕方の鐘が鳴った。村では正午と夕方の六時に鐘がなる。どこかに時計塔があるのだろうか。
「私には王都に許嫁がいるの。ハンサムな王子とか今想像したかもしれないけれど、私の父親より年上の禿げたじい様らしいわ。実際は会ったこともないのだけれど。まあ簡単に言えば政略結婚なんでしょうね。向こうは王都の人だから父親は早く王都に戻りたいんでしょう。私はこの村を離れたくないのだけど。未来は決まっているというのはそういうことよ」
そんなものに従う必要はないんじゃないのかとビジャンは言ったが、父親とはあまりうまくいってはいないが逆らうことはできないのだという。
「私の元にも英雄が来てくれればいいんだけれど」
ヴィオは小さな声で言った。
「じゃあ僕が英雄になるよ。英雄に逆らうことができる人間はいないのだから僕が君と結婚できるだろ、今はまだ名前だけだけれど」
「ふふっ、期待しないで待っているわ。今日の授業はおしまい。また明日ね」
体が回復してくると、文字を読むだけでなくヴィオから文字の書き方も習うようになった。うまく書けないビジャンをヴィオが手を添えてペンを走らせる。息を揃えて文字を綴る。
「これがビジャンの頭文字のv、私の名前の頭文字でもあるわ」
まだ始めたばかりだがとても誇らしかった。
「やはり英雄になるには王立騎士団に入る必要があるのかな?」
「そうね、英雄はクリーチャーを倒して功績を得てそれが評価されてまわりが英雄だと認めるわけだから自称英雄なんてきいたことがないものね。早道は王立騎士団に入ることかもね」
そう言ってヴィオは笑った。ビジャンはその時、王都へ行き王立騎士団に入り英雄となることを決めた。
二人の親密さは日毎に増していった。ビジャンが一人で空回りしている感は否めなかったがヴィオも異郷の地で一人孤独だっただろうし好意は持ってくれていたと思う。こんな辛い目にあっているんだ。一つぐらい希望があってもバチは当たらないだろう? とビジャンは思っていた。きっとカジモドにもそんな希望があったはずだ。そうじゃなければこの世はあまりに残酷すぎる。




