六章 排泄するだけの猿じゃないといえるかい 3
✳︎ 解体作業 一
スダリアスは四足類にあたる。四足類とは背骨がある生き物で、頭部と尾を持ち、肩帯と腰帯から一対の肢がそれぞれ伸びており通常は胸郭もあるものをいう。四足類は解剖構造が共通しており骨や筋肉がほとんど同じである。解剖の手順は系統的に分類されており新種の場合は近いタイプのクリーチャーから推測して進められる。マテルやゾッホも四足類の近隣種と考えられている。
スダリアスは四足歩行だが背骨はS字を描き、盛り上がった先状稜のラインがぐっと後頭部の方へ続いている。また肩甲骨も背中のラインより上に出ており、脂肪を蓄えさらに大きく見える。
横たわるスダリアスのまわりの瓦礫はあらかた撤去され水が打たれている。解体現場ではつきものの埃や虫もかなり抑えられているようだ。〈去勢豚〉はこの場ではタンクを替えて消毒薬を撒いていた。
「あまり近づくな、少し離れていろ。まだ散布が終わってないからな。しばらく息を止めてろ、咳と吐き気がとまらなくなるぞ」
ヤニックがペニックスに言った。〈去勢豚〉が散布用のタンクを背負い、霧状になった溶液であたりを消毒している。脱フロギストン海塩酸気を用い、消毒、殺菌を行う。海水から採取でき塩酸やクロロホルムの原料として使われていたが強い漂白、殺菌作用を持つことがわかり、解体現場で使われるようになった。常温では緑黄色の気体で特有の強い刺激臭がする。気体で取り扱うのは難しいため現場では水酸化ナトリウム水溶液と反応させて使用している。
死んだ大量の羽虫が流されてヤニックの足元を流れていき黒い水溜りを作っている。水たまりに足を踏み入れないように足元を気にしながらペニックスを後ろに従えヴィタの方へ向かった。ヴィタの他にも三人が既に作業に入っていて忙しそうに動きまわっている。彼等はクリーチャーの検案を担当しており他の解体班より先に現場に入る。〈蚊の禿〉と呼ばれる検案師が、近づいてきたヤニックたちに気がつくと手を挙げて挨拶をかわした。
「今日はおまえたち三人だけなのか?」
ヤニックが聞いた。三人でやるには胴体はあまりにも大きすぎるからだ。少なく見積もっても五人は必要だろう。
「ああ、どこも人手不足だからな。頭部と頸部をあんたらにやってもらえて助かるよ」
〈蚊の禿〉が言った。
「おまえが礼を言うなど珍しいな」
とヤニックが言うと〈蚊の禿〉は皮肉屋なので口角を上げて少し笑った。彼はすぐに人のやる気を削ぐような辛辣な毒をしょっちゅう吐くので皆に嫌われている。ヤニックはわりに似た部分があるので嫌いではないのだが、好きでもない。似た者同士というのは総じて仲が悪いものだ。彼も人と群れるのを極端に嫌うのでこうやって先んじて作業をするのは苦にならないらしい。だがヤニックとて彼のことをほとんど何も知らないと言っても過言ではない。
〈蚊の禿〉はグッケンハイムに入ったのはそれ程古くはないのだが、検案師としては歴が長くかなりのベテランだ。検案師の三人は胴体班に所属しているので、検案が終われば解体の作業の補助をすることになっている。〈蚊の禿〉はクリーチャーへの造詣も深い。検案ができる者はグッケンハイムの中でも希少なため、彼も他所から引き抜かれてこの会社にやってきた。
資格を得るにはクリーチャー学を履修後、筆記試験に合格する事と実務として解体作業を規定時間こなす事で資格免許を得ることができる。かなり狭き門で解体業の中でもこの資格を持つものはごく僅かである。ちなみにヴィタは資格を持っているがヤニックは持っていない。この資格を持つものが一人でもいれば検案を何人で行おうともかまわず、現場監督的な意味合いが強い。試験に際しては会社から受かった場合のみ補助が支給される。
検案師の主な役割はクリーチャーの死因を調べることだ。頭部も本来であれば彼等の担当だが、グッケンハイムでは頭部班が毒腺を除去する前に検案を行う決まりになっている。死因の特定を行った後、解体へ移るわけだがその前にどのように解体を進めていくのかその手順を考えるのも検案師の仕事である。検案は人間の場合だと医学的知識に基づくがクリーチャーの場合だと医学的知識に加えて専門の知識や経験を持っていなくてはならず、解体を行う者がやるのは理にかなっているだろう。人間と違って事件性の有無を調べる必要はなく、クリーチャーの場合必然的に死因は外傷性のものとなってくる。検案により今後の討伐に対して、そのクリーチャーの急所の特定や次回討伐時により効率化を図り損害を最小限にするためのデータの蓄積が主要と言っていいだろう。
〈婦人室〉と〈拍節器〉の二人はヤニックに軽く会釈をする。ヤニックは二人に目をやる。二人はスダリアスの四肢を見て骨折や皮下気腫がないかを調べている。クリーチャーは腐敗が早いため、死後早期の腐敗性変色を見ることで解体作業にどのぐらいの猶予があるのかを判断するのも彼らの仕事である。上下肢の損傷を見たり、もちろん死をもたらした原因も詳細に調べ上げる。
「〈黒い飛沫〉はどうした?」
ヤニックは〈蚊の禿〉聞いた。
「あいつは辞めたよ」
「〈旅鳥のディック〉は?」
ヤニックの言葉に〈蚊の禿〉は首を振る。
「飛沫より前に辞めた。お前が頭部班に異動になってすぐだったかな」
〈蚊の禿〉はヤニックの後ろのペニックスを見ると聞いた。
「そっちは新人か?」
「ああ、ペニックスだ」
ペニックスは〈蚊の禿〉に挨拶をする。
「〈浮かれ幽霊〉の後釜ってわけか」
「ああ、そうだ」
ヤニックは〈蚊の禿〉との会話を切り上げた。
「ウィシングウェル、邪魔なハイエナどもが来る前に、さっさと始めてくれ」
〈楽しき隠れ家〉がヤニックたちの背後から言った。彼は心臓部の担当なので、暗に頭部班のメンバーに早くしろと言っているのだ。早く作業に入りたいのか検案が終わるのを今か今かと待っている。頭部担当が毒腺を取り除かない限り他の班が作業することは許されていない。ヴィタに直接言わないのは敬意を払っているのか、もしくはビビっているのかのどちらかだろう。おそらく後者だ。ヤニックには言いやすいのだろう。また昨年までヤニックは胴体班に属していたので気心も知れている。
「検案が終わってからだ。ターク、それまでおとなしく待ってろ」
ヤニックが言った。
「先輩、そういや〈浮かれ幽霊〉ってなんなんです?」
後ろからペニックスが聞いた。
「おまえの前任者だよ。あだ名がつくまで続いたんだが突然来なくなってな、それっきりさ。辞めたやつのその後なんて誰もわかりやしない。強いインパクトを残したやつじゃないとな」
「先輩のあだ名〈願いの井戸〉って言うんですね。なかなかいいですね、イカしてます」
後ろ暗い者も多く本名を明かしたくないので、だいたいの隊員にはあだ名がつけられている。昔からの慣習だ。他にも、〈赤銅の轍〉〈眠たい犬〉〈贖罪の山羊〉などいるが、どれも幾つかの候補から欠員が出れば(つまり死ぬか辞めるか)他の奴が適当に選ばれる。そのため兄弟でもないのに〈二人兄弟〉なんて名前のやつもいる。
「そんないいもんじゃないよ。特に意味はないしな。まぁお前もあだ名をつけられるようにまで続けてくれよ、期待してるぜ」
ヴィタは消毒作業をしている〈去勢豚〉の隣ですでに検案を始めていた。ヴィタは何も言わないが、ヤニックは黙ってその作業を手伝う。作業の流れはある程度は決まっているのでいちいち指示されることはない。ペニックスも後ろについてくる。ペニックスの目はスダリアスの死骸に釘付けだ。当たり前か、とヤニックは思う。お金を払ってでも見たいと思う者もいるかもしれない。こんな間近で死んでいるとはいえスダリアスを見ることなど生きている間でなかなかないのだから。
ヤニックは今まで何度かスダリアスを解体したがこれ程大きな個体は初めてだった。現場には大量の布袋が持ち込まれ歯の一本、体についている寄生虫に至るまですべて回収しラベリングされ運びだされる。他の部位の担当者たちも雑用係が次々と解体道具を運搬している。頭部担当だけは雑用さえ誰もやりたがらないのが現状だ。たとえ雇ってもすぐに逃げられてしまう。
〈去勢豚〉は消毒を終え、片付けるとさっさとテントへ引き¬返していった。
検案はスダリアスの今の状態を記録する作業だ。状態によって解体の手順が変わる。ヴィタは目視で分かる部分はあらかた終えているようで手に持った用紙にはびっしりと文字が書き込まれている。損傷部分は脳と心臓部分らしい。見事に急所部分のみ穴があいている。どのような手段で討伐したのか知る由も無いが、こんな芸当ができるのは建設王だけだろう。何度か討伐後の現場に遭遇しているのだがヤニックは一度もその姿を見たことはない。
ヤニックは横倒しになっているスダリアスの死体に近づくと顎のあたりを両手で触れる。まだ体温は十分に高い。分厚い手袋越しにスダリアスの死後硬直を確かめる。
「顎関節の硬直はもうかなり進行してるようだ。全身にも広がっているんじゃないか。体の膨張はまだ確認できない」
ヤニックは要点だけを端的に答えていく。それを受けヴィタは手元の用紙に書きつけていく。
死後は顎関節から筋肉の硬直が始まり全身に至る。スダリアスも人間と同様だ。異なる点はそのスピードがかなり速いということ。温度や湿度などによるが、人間では通常数週間かかる腐敗の過程がクリーチャーでは数時間で進行する。
硬直したら即座に腐敗が始まる。死後に体の免疫機能が止まってしまうことで微生物が体を構成しているタンパク質などを分解する。スダリアスの場合は免疫機能が体内を循環する瘴気によって為されているのでこの循環が止まると即座に腐敗が始まると考えられている。腐敗は胃や腸などの消化器系から始まり体全体へ進行する。消化するための胃液等が胃や腸そのものを溶かし始めるためだ。その過程で腐敗ガスが発生し体が膨張する。肉や皮膚がその膨張に耐えきれなくなると体液が体外へ流れ出す。さらに時間がたつと細胞組織が破壊されて腕や足、胴回りなどの肉片が骨から削り落ちてしまう。
「ペニックス、よく見て覚えとけよ。これはだいたい新人がやる仕事だ。もう一人は解体の準備をする…」
後ろを振り返るとマスクの中でペニックスの顔は蒼白になっており、何度も空えずきを繰り返している。
「鼻をもぎとって捨てたい気分です」
ペニックスが言った。
「生まれてから嗅いだことのないひどい臭いです。何もかも死臭に汚¬染された気分です。しばらく何も食べられそうにありません」
フィルターでかなり軽減されているはずだが、それでもこの臭いは一度嗅いだら記憶から離れなくなるのは分かる。そこでペニックスの目の前に何かの塊がボトボトと落下して来た。ペニックスの頭上はスダリアスのちょうど眼球部分だ。
ほとんどの動物が逃げだす悪臭だがこの臭いが大好物な虫がいる。蝿だ。蝿が眼球にたかり、卵を産みつけている。大量に孵化し、眼球に居場所をなくした蛆が地面に落ちてきているのだ。地面ではうようよとうごめいている。ぺニックスはそれを見て限界がきたようで吐いた。マスクの中で吐いてしまうと中の活性炭が機能しなくなりマスクがダメになってしまう。マスクだけを着脱することはできないので着替えるしかなく、もしそのままの状態なら仕事の間中自分のゲロが濾過される空気を吸い続けなくてはならないことになる。
「テントに戻って着がえてこい、しばらく休憩してろ」
ヤニックは言ったが、まだ解体もしていないのにこのザマではいくら防護スーツがあってもたりないな、と思った。
スダリアスは体温が高く、あたりの湿度も高いため、腐敗の進行は早いようだ。死後は代謝がなくなり再生熱がなくなるので体温が下がるのだがスダリアスはそれでも体温は高い。
「水泡がいくつか確認できる」
ヤニックは検分を再開する。ヘモグロビンを含んだ液体と腐敗ガスによる腐敗性水泡が発¬生しはじめている。針金のように強い毛が密集し皮膚は確認しづらいのだが、何故かこのスダリアスは毛が燃えて一部が薄くなっている。戦闘の影響だろうか。背中部分は火傷の跡か皮膚がただれている部分も見受けられる。
触れずともすぐに水泡は破れ表皮が剥がれて皮下にある真皮が確認できる。腐敗ガスは死亡してから数時間は胃腸に留まっているが全身の皮下組織や臓器にも発生する。最後に肛門を調べて検分は終了する。
「まだ便は漏れ出ていないようだ」
ガスの圧に耐えきれなくなった肛門は徐々に開いていき便が漏れ出してくるのだ。
次の作業にすぐさま移りたかったが、ここからは一人ではきついので、ペニックスの様子を見にテントへ戻ることにする。
テントの中では着替え終わったペニックスはすっかり肩を落とし地面に座り込んでうなだれていた。ヤニックが声をかけると顔を上げたが、三日三晩寝ていないようなひどい顔になっていた。
ヤニックはポケットを弄りハッカ油の入った瓶をペニックスに投げてよこした。
「フィルターの上から塗りつけとけ。だいぶマシになるだろ」
ペニックスは言われた通りにした。鼻の下に塗るのが最も効果的だが、刺激が強すぎて肌が荒れてしまう。フィルターに塗るだけでも充分効果はあるだろう。ハッカ油により数時間は鼻が利かない状態になるがスダリアスの匂いは一度嗅いでしまうと記憶の中にこびりつき鼻が慣れることはない。ペニックスは何度も深呼吸を繰り返している。
「しかしあの死骸すさまじい臭いですね、慣れる気配すらないです」
ペニックスは思い出したのかまたえずく。
「もう吐くものは何もないんで大丈夫です」
全然大丈夫でないか細い声でペニックスはそう言った。
「おまえもそのうち何も感じなくなるよ、スダリアスはかなり臭い方だが目の前で飯を食っても平気になるさ」
ヤニックは答えた。「それがいいことかはわからないがな」ヤニックはつけたした。
ペニックスは吐き気はおさまったようだが目に染みるらしく、涙と鼻水が止まらないようだ。またしてもマスクの中がひどい状態になっている。
「動けるようになったか? 現場に戻るぞ」
ペニックスは無言でうなずくと膝に手を当て立ち上がった。




