二章 高い塔 1
今でも当時のことを思い出すことがある。きっと死ぬ間際も思い出すだろう。
その日、朝起きた時には両親の姿はすでになかった。昨晩、明日は壁の中の村へ行くと聞いた気もしたが適当に聞き流してしまったのではっきりしたことはわからない。家の前に乾燥させるために置いていた木材があらかたなくなっていたので村へ行ったのは間違いないだろう。ビジャンの住む集落は皆木こりで、木を売却し生活に必要な物資や食料などを購入し生計を立てている。幼少の頃は両親が持ち帰る集落では手に入らない布や糸などの生活必需品やバターや胡椒などといった珍しい物を楽しみにしていたものだが、今はなんだか気恥ずかしく関心を示さないようになっていた。生活は裕福ではなかったがビジャンは特に不満もなく日々を過ごしている。
木の売却は月に一度行われ、大抵は手伝いでついていったのだが、昨日家に残ると言ったので一人留守番をする。近隣の者と総出で出かけたので両親もビジャンを連れて行かなくても良いと判断したのだろう。暗くなるまでには戻ってくるはずだ。夕方までに近くの川へ水を汲みに行き、晩御飯の準備をし、今晩必要となる薪を集め終わったがそれでも両親が帰ってくる気配はなかった。
日が暮れても状況は変わらず、さすがに不安が募る。今までそんなことは一度もなかったので、何も手につかず何度も家の周りを歩き回り帰りを待った。村まで行こうかと思ったが慣れた道とはいえ辺りは既に真っ暗で、遠くかなり険しい道なので家でおとなしくしている方が賢明だろう。妙な胸騒ぎがしてなんだか怖い。見慣れた森がまるで別物のようで、いつもはうるさいぐらいの動物たちが今日に限って身を潜めているように静かだった。やけに羽虫が顔のまわりを飛び回り、手で追い払うのだがまたすぐに戻ってくる。風が葉を揺らす音さえ聞こえず、静寂が耳に痛い。耐えきれず家の中へ入った。
夕食はすっかり冷めてしまっているが食欲はなく時間だけがただ過ぎて行く。
集落の家は全て地下に作られている。これはクリーチャーに見つからないための措置だそうだが、生まれてこのかたクリーチャーなど出会ったことなどもちろんなく、そもそもそんなものが存在しているとは思えなかったので、大人が子供に言うことを聞かせるための作り話だと思っていた。ネズミかモグラの住処のような暗くじめじめした狭い家は好きにはなれず、人知れず何かから逃げ隠れて住んでいるようで気にくわない。じっとしていると嫌な想像ばかりしてしまうので道具を片付けたり、斧や鎌の手入れをしたり、薪ストーブに薪をくべ火の番をしたりと動き回るようにしていたが不安を紛らわすことはできなかった。
それは突然の出来事で地震かあるいは雷が落ちたのか、いずれにしてもなにか天災に見舞われたのだと思った。薪ストーブの炎が熾火になっていたので知らない間にウトウトとしていたらしい。轟音とともに屋根が崩れ何か黒い物体が目の前に落ちてきたのだ。前足で屋根を踏み抜いたのだろう。それは恐ろしく大きな生き物だった。なぜ生き物だとわかったのか、真っ暗で土埃や瓦礫で何も見えない中、何がなんだかわからなかったが見上げた先にある大きな目と目が合ったからだ。その生き物の目は大きく猫のように暗闇の中で明るく光っていた。まるで昼間の太陽のように眩しく光っている。あらゆる感情がストップしてしまい、片付けるのが大変だな、とか夕ご飯がひっくり返ったので作り直さなくてはいけないな、など全く関係ないことばかり頭に浮かんだ。生き物の目の周りには蛆が湧き肉食獣特有のひどい獣臭で目を開けていられないほどの臭いだった。その臭気の中には血の匂いが色濃く混ざっており顔や口の周りは血でべっとりと汚れ黒い毛がダマとなり固まっている。一目で分かった、森の奥に住むという伝説上の生き物スダリアスだと。
全身が総毛立った。大量の羽虫が耳や鼻、目、もちろん口に侵入してきた。唾を吐き出し、涙と鼻水がとめどなく流れ続ける。殺すなら早くしてくれ。そう思った。どうせ助かりはしない。心残りがあるとすれば一度でいいから村の壁の側に建つ一際高い塔の上に登ってみたかった。あとは村にある学校というところにも行ってみたかった。あとは王都へも行ってみたかった。あとは、あとは、臭気のせいだけではない涙が頬を伝った。周りに蒸気が上がって酷く蒸し暑い。スダリアスが口を開いた、自分の顔と同じぐらいの大きさの牙が目の前に現れる。牙は黄色く、ひどく嫌な匂いがする。
目をつぶった。そのまま気を失い、そのあとのことは記憶にない。
どのぐらい眠っていたのだろう。誰かの手が頬に触れて意識を取り戻した。しかし目を開けることはできない。目を開けようとするがひどく眩しい。頬に触れた手は最初、神かあるいは天使が頬に触れているのだと思った。それほど心地よかったのだ。次第に合点がいった、手はきっと母親のものであろうと。母親が駆けつけて救い出してくれて看病してくれているのだろう。手は慈愛に満ち、滑らかで、とても温かかった。ならば父があのスダリアスを撃退したのだろうか。ビジャンは心底安心して再び気を失ってしまった。
再び手の感触で目が覚めた。顔を向けようとするが動かすことができない。誰かが───きっと母に違いない───手を握っている。その手を握り返す。そっと握り返してくれる。安心し再び眠りに落ちる。
何度も何度も暗闇の中であの生き物の目に睨みつけられる夢を見た。身体を動かすことはおろか、指一本動かすことができない。全身汗びっしょりで目が覚める。冷たいタオルが額に乗せられていてとても気持ちが良い。母の手を探しおろおろと両手をさまよわせた。両手を包み込むようにして母の手は応えてくれる。次に目が覚めた時、あたりには誰もいなかった。清潔なシーツの肌触り、消毒薬の匂い、ベッドで寝かされているのでどうやら病院のようだが、他に患者はおらず静まり返っている。窓からは中庭が見える。かなり大きな邸宅のようだ。起きあがろうとしたが体を動かせず、再び眠りに落ちた。
身体を起こし、医師の話を聞けるようになるまで回復するのに一か月以上の時間を要した。ずっと意識が混濁していて夢の中にいるような感覚だった。ものものしい格好をした医師が目の前で病状を説明している。何故か仮面が手渡され、ビジャンはそれを握りしめる。病室には医師と二人きりだ。きっと人払いがされているのだろう。どうやら瘴気病という病いに罹患したらしい。あの生き物が発する瘴気を一気に吸い込み、体に毒が蓄積し全身を蝕み生死の境をさまよっていたそうだ。瘴気病は皮膚を侵すため仮面で醜い顔を隠せということなのだろう。心臓や肺などは侵されることはないらしく、治りはしないが死に至る心配はないようだ。皮膚以外に抹消神経に障害を引き起こし、白斑や紅斑が身体中に広がるそうだ。痛さや熱さを感じなくなる知覚麻痺により手足や顔などに運動障害や変形が今後はみられるだろうという。矢継ぎ早に説明されたが白斑? 末梢神経? なんの話をしているのかビジャンにはほとんど理解できなかった。第一に現実感がなく、それがどうしたのだという感覚だった。瘴気病は発症した瞬間にほとんど死んでしまうため、症例が少なすぎて治療法などはほとんど何もわかっていないらしい。だが今ビジャンは何の因果か生きている。
「病気の説明はもういいです。どうせ治らないんでしょ? 父や母は? 集落の他の大人たちは?」
医師は暗い表情になりうつむき首を振った。
「全員亡くなったそうだ」
あの生き物は予想した通りスダリアスだったそうだ。医師が言うには今ビジャンのいる壁の中の村へ向かった大人たち、壁の外の集落に残っていた老若男女問わず全て皆殺しだったそうだ。総勢二十五名、ビジャンが唯一助かったらしい。
「でも母が看病してくれたじゃないですか」
今も母の手の温もりは残っている。あの温もりがなければ死んでいたかもしれない。しかし医師は哀れむような表情を向けた。
「君のご両親は最初に襲撃を受けたそうだ。他の仲間を逃がすために勇敢に立ち向かったそうだよ。君の両親は立派だ。誇らしく思いなさい」
何が誇らしく思いなさいだ、実際その現場を見ていない医師が何を言ってやがる。腹が立ち医師に殺意さえ持った。体がもっと自由に動いたならもう少しで飛びかかる勢いだった。喪失感に襲われるほどその事実を受け入れることはできなかった。
ちょうどその時扉が開き彼女が入ってきた。美しい女性は怒りさえ消し去ってしまうらしい。
「ああ、紹介するよ、彼女が君の看護を担当してくれているヴィオレッタさんだ」
彼女は正式な看護師ではなかったが、王都で看護の経験があるということで善意でこの施設で働いているそうだ。ここは救済院といって個人の邸宅だが重病人や難病患者が利用する施設らしい。だがそんな説明はビジャンの耳には届いていなかった。ビジャンは言葉を失い固まってしまっていた。何より彼女は本当に美しく、この世の中でこんなにも美しい人と会ったのは初めてだった。瞳は透き通るようで肌は絹のように滑らかで白く、それでいて健康的で髪は艶があり光り輝いていた。その凜とした佇まいは気品に満ち尊く、どこか神々しくもあった。正反対なんだが、スダリアスと対峙した時に感じたどこか自分は不敬なことをしているような感覚は同じだった。自分の存在が足元から揺らぐ感覚。両親の死を聞かされた直後にそんなことはあり得ないとは思ったのだが、あとあと思い出してみると彼女に対しその時一瞬で恋をしてしまったのだ。
彼女の名はヴィオレッタ・フォン・オースティンといい、父親は馬の調教で財を成した人物であり、王都からこのライフェンに派遣されることとなり家族で移り住んできたそうだ。それがちょうど六年前の今の時期だったらしい。彼女の年齢は十八でビジャンより六歳年上だった。
「僕の名はビジャン、ビジャン・ロビンソンだ」
ビジャンは自己紹介をした。
「お体の具合はどう? ビジャンさん」
「ビジャンでいいよ。ヴィオレッタさん」
「ヴィオでいいわ。周りのみんなはそう呼ぶから」
そう言ってヴィオは手を差し出す。ビジャンは握手を交わす。その手はずっと寝ている間自分に触れて励ましてくれていたあの手の温もりだった。