五章 老人と死神 3 Be careful what you wish for
一日目。
森に入ると頭上をおおっていた厚い雲から堰を切ったように大粒の雨が落ちだした。タパとドゥラはフードを被る。たまに雨粒が落ちて来ることはあったが頭上の枝葉が雨を遮ってくれるのでそれほど影響はないようだ。地面にはそこかしこに水溜りができており、すぐに靴の中まで水が浸透して気持ちが悪かった。きっと皮膚がふやけて白くなっているだろう。一時間ほど歩くと変化のない景色で、前を行くタパは時折道に迷わないように枝を折ったり、木にナイフで印をつけたりしている。ドゥラはすでにどこをどう歩いているか見失っており、どの方向へ進んでいるかさえ把握していなかった。
森の中は雨の音だけに満たされており、静寂に包まれている。ドゥラがもっとも好きな時間帯だ。タパは森に入ると雰囲気が少し変わったように見える。少し緊張しているようにも見える。単に口数が減って静かになるからかもしれないけれど。タパは最近気負いすぎているようにドゥラは感じていた。もっと肩の力を抜いてバカなことを言ってくれたらいいのにと思う。今は父親を亡くしたタパに軽々しく言えないけれど。
今日はいつも向かう方向とは逆なため、ドゥラはほとんど歩いたことのない道だった。多少は踏み分け道があり、タパも歩き慣れているようで迷っている様子はない。タパの父親は行く先々で難所があり危険だとか少し先にシェルターがあるだとか、土砂崩れで通れないとか注意するべきところは木札が吊るされており教えてくれている。しかしもう新たに情報が書き加えられることはない。ドゥラはなんだか、突然寂しい感情に襲われた。
「親父さんが亡くなる予兆とかはあったのか?」
ドゥラは思い切って聞いた。
「予兆か…」
タパが重い口を開いた。
「ちょうど前に図書館で建設王の生家について話してたことがあったろ、あの後ぐらいからかな、父親が俺を森へ連れていってくれるようになったのは」
「ちょくちょく村にいなかったものな」
ドゥラが合いの手を入れた。タパは続ける。
「父親は墓守りの仕事とは別に王立騎士団に正式に依頼されて森の様子を定期的に調べるという仕事をしていたらしい。堂々と北門から森へ出入りしていたからびっくりしてしまったよ。それから森の地形だとかシェルターの場所だとかみっちり覚えさせられたんだ。俺は嬉しかったけどさ、あれは後を引き継ぐためのものだったんだろうな、何か予兆みたいなものを感じていたのかもしれない」
「この先、かなり険しいんだよ」
タパは沢に降りながら振り返って言った。ドゥラは沢の水を水筒に入れた。喉が思ったより乾いていたようで、一気に半分ほど飲み干しさらに補充しておいた。タパは木陰で地図を見ている。タパはかなり森に慣れている様子だ。タパが父親に建設王の生家について聞いた所、ドゥラたちの読みは完全に外れており、具体的な場所を教えてもらったが、もはや藪に飲み込まれ何の痕跡も残っていなかったそうだ。自分たちが見つけたのが見当違いの場所だったことはショックだったが、ドゥラはビジャンに今書いている途中の手紙では黙っていることにしようと心の中で決めた。
「目的地について詳しく教えてくれ」
小休憩のために石に座っていた時にドゥラは聞いた。火葬場はかなりわかりにくい場所にあるという。圏谷カールとよばれる急な谷壁で囲まれた秘匿された場所らしい。ライフェン川に沿って北上するのだがライフェン川は途中で途切れて地中に消えてしまう。そのまま進み尾根を越えると支流が現れ、イザルガ川とポロシリ川に別れる。左手のイザルガ川を越えるとサキダルの丘へ。ポロシリ川の奥はペテガリ岳に通じている。イザルガ川もポロシリ川もどちらも川筋を歩いて入ることはできない。目的地はペテガリ岳の麓にありつまりポロシリ川の詰まりにあるそうだ。
ポロシリ川の出合いはゼルブ川の山あいから入るしかないらしいが、ポロシリ川とイザルガ川の出合いはわかりにくい。ポロシリ川の北のV字谷に火葬場はあるが、南もかなりの難所でゴルジュになっており進むと扇状地になる。そこを登るとピラタスの尾根と呼ばれるやせ尾根にでる。いわゆる分水嶺だ。鞍部になっていて越えると湿原に入るそうだ。ポロシリ川の南側はここから向かうには近道なのだが、そのルートは取らず安全策をとりぐるっと回って行くらしい。
火葬場の先、ポロシリ川のさらに奥地はタパも足を踏み入れたことはなく踏み分け道がない有史以来人の手が一切入っていない原生林でかなり難所だと父親に教わった。今度春になったら父親と行く約束だったが、それは叶わなかった。
ライフェン川上流を目指し進んでいたがタパが言う通りすぐに地中深くに水の流れは消えてしまう。そのまま進みたかったが藪が濃く、原生林で踏み入ることができない。東に進路をとると木がまばらに生えるなだらかな緩斜面を進み、ゼルブ川の溪に降りる。崖になっていてかなりの急勾配なのでトラバースして行く。トラバースは尾根や難所を横切るように歩き直登を避けるやり方だ、とタパは言った。なるほど、時間はかかるがはるかに安全で楽だ。二人は川底に降り立った。ゼルブ川はかなり狭く水流も強い。水は膝下まできており、水流に身体をもっていかれそうになる。そして一番の問題は左右に河原がないことだ。文字通りのV字谷なのだ。
「もしかしてここを行くのか?」
タパは頷いてみせた。それはこの川の中を進むということだ。川の両側は切り立った崖でその上は木々が立ち並ぶ原生林だ。上を進むのは川底を行く何倍も大変なのはドゥラもわかっていた。川底を行く方が早く安全だ。
「水流が強すぎるところは左右の崖に張り付いてイモリみたいに進むんだが、まぁ基本的には川の中を行くが、どうする?」
タパは聞いたがドゥラに否定する権利はないだろう。
細くけわしいV字谷を進んでいく。
着替えが濡れないように荷物の中身を入れ替えた。雨や川に入る山行で最も重要なのは乾いた着替えを持っているかだとタパは言った。濡れたまま放置すると夏でも低体温症になってしまうらしい。
ゼルブ川中流は雨の影響もあってか水量が多く、できるだけ浅瀬を選ぶのだが、ところどころ深い淵があり、荷物を頭上にかかげながら肩までつかるような状態で、すっかりずぶ濡れになってしまった。浅瀬を行くときは水を蹴り跳ねて前を行くタパの背中やお尻を濡らさないように注意して歩いた。
「休憩しよう」
タパが言うとドゥラは声もなく大きな岩の上に座り込んだ。岩は雨と川の水で濡れていたがほんのり温かかった。体は思った以上に冷えていたので気持ちがよい。タパはまだ元気そうで川の先を見ている。川は右に支流が見える。そのまま本流を北上し続けるのだろうか?
「ここがポロシリ川とイザルガ川の出合いなのか?」
「いや、違う。ゼルブ川のままだ。ポロシリ川とイザルガ川の出合いがもっと手前あったはずなんだが、どこかで崖を登って西に行かないといけなかったところを進みすぎた。完全に間違えたな」
タパの様子を見るとそれ程焦ってはいないようだが。
「まぁよくあることなんだが、戻るのは億劫だな」
タパは言った。
「俺はおまえに任せるが、間違えたのはまずいのか?」
「まぁこの先は初見だからどのぐらい剣呑なルートなのか分らないのがちょっと心配だな。後、今日は野宿確定だな。出合いまで戻ることも考えたが一時間以上進んでしまったし、このまま進んでゼルブ川の上流を目指すことにするよ」
ゼルブ川を遡行し続けたことによりだいぶ東に逸れてしまったらしい。ゼルブ川上流からピパロイ岳へ入り、そこから尾根を伝い歩き西のペテガリ岳に至り、そこからポロシリ川に入るルートを取るらしい。どのみち火葬場のあるポロシリ川に直接入ることはできないそうなので、距離的に少し遠回りになるだけらしかった。森を熟知しているタパの親父さんに川の南側は難所なので、南からは入らずに上流から向かうように教えられたそうだ。本来は西のイザルガ川を遡上し、中流あたりから東へ抜けてポロシリ川中流へ行くつもりだったらしい。
正午までに火葬場まで行きたかったがどうもそれは難しいとのことだ。けれどドゥラは全然構わないと言った。なんだか新しい冒険にでるみたいでワクワクすると。冒険が日帰りじゃ、格好つかないしな、というと二人で笑いあった。この辺はこういう隠れた沢筋がいくつもあり、どの川の支流かわからないものも多いらしい。
そこから先はタパも初めて通る沢筋だ。次第に川の流れは細くなっていく。人が通れないほどの険路でもないものの沢は暗くじめじめしていて薄気味悪い。澱みは黒く濁っている。いくほどに沢が狭まり、沢の詰めに至る。その源流から山を越える。岩と岩の間から冷たい地下水がこんこんと湧き出ていた。小規模なガレ場を進む。
左右は急斜面だが登れないことはないので、何度も滑り足を取られながらも生えている草をつかみ登り切った。
見上げた前方に見えるのがペテガリ岳だろう。そこを目指すわけだが沢の上は背丈を越えるほどの草が生い茂る濃密な藪で、丈の高い柴に蔦が絡まり足や荷物が引っかかるし、少し進むだけで体力を大幅に削られた。おまけに頭上からは大粒の雨が降り続けている。体を横向きにしたり時には四つん這いになりながら藪を突き進んで行く。棘で手足は血が滲み、服も破れてしまった。あたりは静寂に包まれていたので葉音と二人の荒い息使いだけがやけに大きく聞こえる。密集して通れない場所はタパが手持ちの鉈で枝を払って進んでいたが荊の木は固く棘も大きく鋭い。大股で踏みつけて進むのが最も効率が良いことに気がついてからは二人はギクシャクとまるで壊れた機械のような動きで踏みつけながら進んでいった。額には汗が光り、雨と混ざり顔を伝う。
「雨がひどくならないうちにシェルターを作るよ」
本来はイザルガ川の最下流にシェルターがあり、泊まる羽目になった場合そこを利用するつもりだったらしい。
「最高級の宿屋に泊まりそびれたな」
ドゥラはそう冗談を言った。タパはそんな大したものじゃない、馬小屋以下だよ、と真面目に答えて藪を切り開き先へ行ってしまった。ドゥラは藪を抜け左手に進む。少し先からガサガサと草を分ける音がするのでタパを見失うことはない。時々待ってくれているようだ。タパは乾いた木を見つけては荷物に入れている。スプロースの樹脂も手に入れていた。森には役に立つものがたくさん落ちているんだよ、とタパは言っていた。
獣道のようなものは見当たらずかなり歩きにくいのだが、タパが切り開いた道を進み、根や石で躓きながらもなんとかタパに追いつくと、タパはすでに緩やかな斜面ばかりの中、シェルターにするのに最適な小さな平地を見つけていた。すぐ隣にはトネリコの大木が立っている。その幹を利用し木をしならせてフレームとし、そこに縦と横に、河原で大量に生えている葦を利用して屋根と壁を作っていた。もう大半ができていて仕上げに取り掛かっている。
「雨を凌ぐだけのシェルターだ。お世辞にも快適とはいい難いから我慢してくれよな」
タパはそう言ったが、短時間でこれほど立派なものを作るタパをドゥラは尊敬した。雨はその大半が隣の大木が遮ってくれるおかげかそれ程シェルターの中へは吹き込んでこないようだ。地面は根が張っていてかなりゴツゴツしている。タパは木の繊維をほぐし焚き付けにすると火を起こし焚き火を作る。道中で拾った薪をくべるが多少は湿っているため煙が大量にあがるが致し方ない。
「明日には燻されて俺たちが燻製になっちまうな」
タパは言った。ドゥラは咳こんでいた。雨風を凌げて暖をとれるだけラッキーだと思う事にする。
「腹が減っただろ」
朝から何も食べていなかった。タパは紙の包みをドゥラに手渡した。ドゥラはズシリと重いその包みを受け取り開けてみる。それはプレートフェンと呼ばれる小型のパンを半分に切り、ブルストと呼ばれる小ぶりなソーセージが挟まれた簡単な軽食だ。強力粉と塩とイーストだけで焼き上げたハードなパン、マスタードとケチャップが染み込んでいる。ケチャップをかけると途端に安い味になるのはなぜなのか? 嫌いじゃないけどね。薪でお茶を沸かしていたタパの静止を聞かずに我慢できず───我慢できるはずがあるだろうか?───ドゥラはかじりついた。ソーセージを噛み切ると羊腸の中から肉汁が溢れ出した。芳醇な香りが鼻を満たす。挟まれたレタスは水々しくシャキッとしておりブルストとの相性は抜群だった。至福の時間だ。収穫祭のときに村の広場の屋台で食べたプレートフェンを思い出させる。
雨が降ると気温がぐっと下がりひどく肌寒い。外はすでに闇に包まれ雨音のみが聞こえ、寒さと静けさが増したように感じた。焚き火はちらちらと明滅している。森はいつもなら騒々しいのだけれど、秋が終わりに近づくこの時期は不気味なほど静かで動物の気配は感じることができない。
横殴りの雨がシェルターの中に吹き込んでくる。細かい雨が頬にあたった。タパはシェルターを補強するといって出ていったが、なぜか服を脱いでいった。パンツ一枚だ。乾いた衣服がどれだけ大切かお前はわかってないな、と言う。ドゥラもその間に火が消えないように面倒を見ながらお湯を沸かしておく。火勢は安定し大きくなりすぎないように注意した。太い薪を入れる。これでかなりの時間は持つだろう。
風が強く炎が風に流されて他に引火しそうだ。結びつけた壁替わりの葦が風でせわしなく揺れている。轟々と地響きのような音が辺りを満たしている。タパにより屋根には立ち枯れの木から剥ぎ取った木の皮を敷き詰めたため、雨漏りの箇所もなく、屋根と壁により外と隔てられているだけで守られている感じがして心が少し安らいだ。
夜半過ぎ、疲れてはいたがどうにも眠れないでいたドゥラは眠っているタパを起こさないように気をつけながらシェルターを出た。煙たいので外の空気が吸いたかったというのが本当のところではあるが。服は煙の匂いが染み込んでしまった。外は濃い雨の匂いがする。辺りは漆黒の闇で目を開けているのか閉じているのか分らないぐらいだ。しばらく木の根に腰掛けてぼんやりとしていた。風が葉を揺らし不穏な音を立てている。まるで異世界に迷い込んだみたいだ。




