四章 彼女は私に空の飛び方を教えてくれた 2 She Taught Me How To Fly
ビジャンという名はもちろん現建設王の名ビジャン・ロビンソンから採られたものだ。もちろんあだ名は英雄、もしくは建設王である。しかしビジャンは痩せっぽちで、もともと視力が弱かったために眼鏡をかけなければ何も見えない。この村では眼鏡が珍しいのか学校ではビジャン一人だけであり、眼鏡をかけているものには必ず通るであろうあだ名、メガネや優等生などとからかわれ眼鏡王などとくだらないあだ名で呼ぶ者もいた。それだけが理由ではないのだけれど同年代の同性が苦手だった。ウンバロやシャキールなどもほとんど言葉を交わしたことはない。しかし村特有のシステムといおうか、村全体で子どもを育てるので当然個人の秘密など存在しないし、そういう概念さえ思いつきもしないだろう。昔からビジャンは一人で過ごすのが好きだった。納戸や物置き小屋、部屋の収納やクローゼットなど。狭ければ狭いほど心は安らいだ。今現在はいくらなんでも自制してそんな場所には入らないが狭い路地裏などは今でも惹かれる。
学校がはけた後は帰宅し家の手伝いをするのが決まりとなっている。皆仲の良い者通し、または近所の者が寄り合って帰路につく。ビジャンはそんな中でいつもひとりぼっちで帰っている。学校は商業区の北の端、最も北門の近くにあるので、ビジャンがいつも寄り道をする場所は近い。帰り道、顔を上げると嫌でも目に入る塔がある。高くそびえたち少し傾いている様は村を睥睨しているようだ。
まだビジャンがこの村へやってくる前の話だ。祖父が一人で塔に住んでおり、その広さを持て余すようになったので手放すことにしたらしい。その頃、塔に雷が落ち火災に見舞われたそうだ。上部が火災により崩れ、傾き塔内部に陥没している。再建はせずにそのまま放置された。塔は現在誰の所有物なのかはわからない。しかし誰も中に入ることはおろか近づくことさえ村では禁止されている。
ビジャンが現在住んでいる家は大聖堂の近くにある。使用人も沢山いて村で一番大きな建物だ。前は別宅だったらしいが。増築し、昔より大きな建物となっている。以前は救済院として病院のように使われていたらしい。
物心ついた頃から父親の姿はすでになく、父親は戦役で死んでしまったと母から聞いていた。父親の顔さえ覚えていない。祖父に一度父親のことを聞いたが何も教えてはくれなかった。それ以降再び聞くことはなかった。母親はビジャンが五歳になったばかりの頃に亡くなった。その後、祖父に引き取られ、その際にこの村にやってきたのだ。父親に関して覚えているのは一つだけだ。まだ歩けるようになったばかりの頃、母親と父親が遠くから手を叩きながら呼んでいる、父親の元へ向かおうか、母親の元へ向かおうか迷っているというシーンだ。結局どちらの元へ向かったのか覚えてはいない。
祖父は村の権力者だが、母が亡くなってからは元気がなくなってしまい、ほとんど人前に姿を見せない隠居状態に陥ってしまっている。ビジャンは偏屈だけれど優しい祖父がとても好きだった。いつも自分のことを気にかけてくれている。
火薬塔の中にある図書館へ行くのはビジャンの日課であり仕事でもあった。本来は両親の仕事を手伝うのが習わしであったが、ビジャンは暗黙の了解なのか免除されておりビジャンが自らその仕事を見つけて来たのだった。祖父が根回ししたのかもしれないけれど今ではビジャンが図書館で手伝いをすることは当たり前の日常となっている。図書館は最上階の一つ下の階にあり、かなり見晴らしは良い。円形の塔の外壁に沿ってぐるりと本棚が並べられている。頭上はかなり高く、上の方の本は備え付けの脚立を使わなければ届かないが、誰もわざわざそんなことをして取ることはないため埃がたまっている。本はそのほとんどが王立騎士団からの寄贈であり、それは現在の建設王の出身地がこの村だからという理由である。
ビジャンは本さえあればそれで良かった。運動は苦手だったし、人と接するのが得意ではなかった。人の目を見て話すとお尻がムズムズして緊張してしまうのだ。必然的に一人で遊ぶことが多くなり結果学校の図書室に入り浸るようになった。しかし蔵書量は少なく、図書室は何故か先生たちの控え室も兼ねていて落ち着かなかった。本はほとんどが低年齢向けの読み物だったし、郷土史などは難しすぎて退屈だったので───それでも苦労しながらでも読みきったが───興味のあった本はあらかた読みつくしてしまった。
家で学校で借りた建設王の本を読んでいた時に祖父にひどく怒られ没収されてしまったことがあった。それ以降、家で本を読むことをやめてしまった。自室にはこっそりと手に入れた本をベッドの下に隠してある。ちょっとしたコレクションだ。村には本屋はないが、隊商がやってきた時に異国のガラクタと一緒に本が混ざっていることがある。それをいつも買っていたのでいつしか顔見知りとなり見つけるたびに優先的に譲ってもらっていたのだ。季節ごとにやってくる隊商をビジャンは心待ちにしていた。そのどれもが図書館には置いていないような扇情的で大衆向けの読み物だった。
教室も集中できないのでとてもではないが読むことはできない。隠れて一人で過ごすことができる空間が欲しかった。自分だけの図書室だ。しかしそんなものは望むべくもない。
火薬塔の中に村の図書館があることを知り、通い詰めるうちに司書と顔見知りとなり、いつしか司書の手伝いをするようになった。蔵書管理はビジャンの仕事だ。司書は根っからの怠け者で寝ているかもしくは本を読んでいるところ以外ビジャンは見たことがなく、かわりに仕事をしてくれるビジャンを重宝しているようだった。図書館は階段がきついため隠居した老人たちもあがって来ない。子供たち同世代の者は本など興味がなく、大人たちは塔自体に近寄らず日々の仕事に追われていた。
図書館に村人が本を借りに来ることはないのだが、図書館の中はいつも盛況だった。上階の見張り当番がさぼりにきてよく酒盛りをやっているためだ。ちょうど良い憩いの場なのだろう。
本の数は膨大でさすがに毎日一冊読んだとしても十年やそこらではすべて読むことはできないだろう。ビジャンの知識はそのほとんどをこの図書館で学んだといっても過言ではなかった。本が先生であり友人であった。本はあらゆることを教えてくれる。
『フォルツァス伯爵の貴重かつ厳選された蔵書目録』『ネーデルラントの主要な家系における疑わしき私生児たち』『低地国の偉大な王の快楽と不快』『フョードル・ウラジーミル・フロビッチその生涯と作品を振り返って』『新奇薬草図鑑』『エドワードトプセル著 四足獣誌』『クラヴィス・アルティス著 ゾロアスター錬金術の書』『ジョン・ノックス著 夫人による異常な執政に反対する第一声』『ルシタヌス・ザクトゥス著 医学実地驚異』『ルナール・ルイ著 モルッカ諸島産彩色魚類図鑑』『ハリスのコヴェント・ガーデン淑女目録』『グロリエ・ド・セルヴィエール、ガスパール著 数学及び機械学に関する発明品集』『グレッグ、アレクサンダー著 ブレンデン・ホール号の運命』『ケイ、ジョン著 肖像とカリカチュア銅版画集』
その素敵な背表紙を見ているだけで心が満たされた。外国語や今は失われてしまった言語で書かれたもの、ビジャンはその挿絵を見ているだけでも想像力を刺激された。王立図書館の蔵書印が押されたものも多い。梵書事変の時にCLFにより王立図書館が放火されてしまったので、多くの学者や研究者が亡くなり、貴重な蔵書のほとんどが失われてしまった。そのような中でこの小さな村にそれ以前に譲り受け難を逃れた本は大変希少で重要なのだが、そのことに村の者は誰も気がついてはいない。
司書は寝ている時間以外は本を読んでいるらしく、読んだ本をそこらに放置するか適当に書架に差し込むきらいがあった。そのため本の分類や並びが無茶苦茶になってしまっていて、それが今日昨日に始まったことではなく、今や修復不可能な状態に陥っていた。ビジャンはそれをきちんと整理することをずっと試みているのだが、遅々として進んではいない。
上下逆さまに突っ込まれた『オルテリウス著 北方地域図』を引き抜いた。ES.LOW社により刊行された地図に関する本は今やこの図書館にしか存在しない。王立図書館のものであるため、貸出カウンターの奥にある蔵書庫の中へ入る。古い本の匂いが鼻腔をくすぐる。蔵書庫は本が日焼けしないように薄暗く、少しひんやりしている。地図が集められている書架の前に立つ。ビジャンは地図がとても好きだった。地図はそのほとんどが大判で、机の上に広げ眺めているだけで世界中を旅して回っているような気分になった。この世はまだまだ未開の地が多く探検家たちは絵師を連れ未開の地へと旅立つ。ビジャンはそんな妄想を膨らませていた。『ジョセフ・ホール著 異なる世界と同一の世界、あるいはテラ・アウストラリス』『ゼノ兄弟によるフリースランドと周辺の島々の地図』『ルセリの新北方地図』『ヤベル・タスマン船長の調査に基づく南方大陸完全地図』『カスパープラウティウス、新たなる航海の達成』ビジャンは心躍らせる。
王立騎士団は毎年夏の終わりのこの時期に必ずこの村を訪れる。何らかの調査なのだろうが、ビジャンにはよく知らなかったし、村の人たちもいまいち理解していないように思う。王立騎士団の来訪は村をあげての一大イベントであり、滞在中はお祭り騒ぎとなる。何人か大人たちが駆り出され壁の外への調査にサポートとして同行するのだがいつも競争率が高く皆自分もいつか騎士団と一緒に森へ入りたいと夢見ている。
調査隊がやって来てから数日たち、村はその話で持ちきりだった。ビジャンは逆に興味がないふりをしていた。子供らしく振る舞うのはどこか格好悪いとわざと興味のないふりをしていたが、実は人一倍楽しみにしていた。王立騎士団の人たちは皆眩しく、自分の背丈の倍はありそうな大男たちがきびきびと働くその姿は美しく、憧れた。もちろん遠巻きに見ているだけだったし、話しかけるなんて考えることもできなかったけれど。そんな王立騎士団の人たちを間近で見ることができるのはもちろんとても素敵なのだけれど、それ以上に心待ちにしていた理由は王立騎士団は毎年供給物資として食料以外にも工具や衣類などと一緒に本を持って来てくれるのだ。
九月分です。毎月三十日に一章更新。




