四章 彼女は私に空の飛び方を教えてくれた 1 She Taught Me How To Fly
「教科書八十五ページを開いて」
先生が聞き取りにくいくぐもった声で言った。いつもの通り二日酔いなのだろう、教室内は酒の匂いがする。先生といっても村の人間が持ち回りでやることになっており、ちなみに今日の授業の先生はタパの父親だ。普段の仕事は墓守で、その他にも村の公共施設の修繕をしたりと村の重鎮の一人である。先生の担当は歴史で、始まって早々に隣の席のタパは船を漕ぎ始めている。昼ごはん後の一番眠くなる時間帯、静かに黒板に板書する音だけが教室に響き、窓の外からは暖かい陽射しが降り注いでいる。
ビジャンは黒板を眺めながらぼんやりとしていた。テストが近いせいか皆真剣にノートに書き写している。テストはいつもほぼ満点でたまにドゥラムリアには負けることはあったが同世代には負けることは今まで一度もなかった。反面、運動はてんでダメだったけれど。こんな田舎で高い水準の教育が受けられるはずがない、それがビジャンの顔にでてしまっているのだろう、先生は執拗に当ててくるか、もしくは無視するかのどちらかだった。今は無視されることの方が多い。ハンス先生はそんな中で珍しく公平だった。あまりこちらに興味がないのかもしれないけれど、少なくとも他の先生よりは好感が持てた。なにより今の建設王と話をしたことがあるらしい。こういう村では英雄たちを見たことがあるだけで無二の親友だ、ということになる。ただの噂話なんだけれど先生はそのことを別に吹聴しないので本当かもしれないとビジャンは密かに思っている。
ビジャンはよく変わっているといわれるがそれをどこか誇りに思っている。孤高を気取り、孤独を愛している。だがそれはただ嫌なやつと同義で空気を読んだり、人に合わせて相手の気持ちを理解することができないただの我儘なだけだった。意味もなくわざと人を馬鹿にした態度をとったり、わざと怒らせたりしていた。心底周りの連中が嫌いだったしそれ以上に自分自身も嫌いだった。
村に唯一の学校は子ども達を全て集めても十数人で一クラスにまとめられている。もちろん学年もバラバラで、基本的には同じ授業を受けるが数学などは途中から四ヶ所に分かれて各学年に見合った課題を行う。歴史は全員で授業を受けることになっている。ビジャンはいつも退屈していた。ここには本職の教師はいないからだ。引退し隠居している老人教師が駆り出されているが唯一まともな教師といってよかった。しかしその人の知識は昔のままで完全に止まっており───その先生の担当は外国語である───きっとその先生に習った外国語を外で話しても通じないであろう。失われた言語を習っているのとそう大差はないはずだった。ライフェンで話されている公用語もかなり訛っているのでもはや別言語のようでビジャンは時々理解できない時があるぐらいだった。
クラスの年長は十五歳のタパとドゥラムリア、そしてビジャン、ウンバロ、シャキール、ツィドベ・オウジーの四人が十歳、それ以下の年少者に数人といった程度で当然皆顔見知りで知らないことはなく兄弟姉妹のように村全体で育てられてきた。唯一ビジャンだけが五歳の時にこの村に引っ越してきたので、五年経った今でもどこかよそ者扱いの感がある。村の一番の権力者であるオースティン卿の孫であるということも大きく関係しているとも思う。孫というだけで一目置かれ特別扱いされていて、友人と呼べるものは一人もいない。けれどそんなことは特に気にしてはいなかった。周りの連中は知っていることをさも自分の発見かのように鼻息荒く矢継ぎ早に話してくるのも嫌だったし、相手のことを全て知りたがるし、それが当然だと信じて疑わない。村での生活はビジャンにとって苦痛でしかなかった。誰とも迎合せず、だがみんなと仲良くできず煙たがられていた。ビジャンは自分以外全ての人間は一部を除いてみんな馬鹿だと思っている。馬鹿な人間は疑問があっても考えることをしない。考えることを放棄し、短絡的に答えだけを求める。ただ与えられた答えは脳に定着することはない。馬鹿は馬鹿のままなのはそのせいだと思っている。
先生は黒板に人物の相関図を書いている。当時の王立騎士団のメンバーたちの羅列だ。ウォルター・ミュラー、カジモド、レーン・ダコタ・プレスコット通称『ダック』、デニストン・オリバー・ムーア通称『DJムーア』、ガクインシー・マッキンストリー通称『クール=エイド・マッキンストリー』、それはまるで呪文のようで頭に一切入ってこないのが普通だろう。しかしビジャンはすでに全て完璧に記憶しており、各自の細かなエピソードさえ語ることができた。先生は名前を読み上げ、皆で声をそろえて復唱する。そこに何の意味があるのかビジャンには甚だ疑問ではあったが。
「カジモドは『農夫のアレポは馬鋤きを曳いて仕事をする』というアーティファクトを使用していたといわれている」
先生はそう言うと黒板に
SATOR
AREPO
TENET
OPERA
ROTAS
と書いた。
「アーティファクトの名前に意味はなく、回文というそうだ。今は使われてはいない言語なので意味は推測でしかないが。このアーティファクトの効果と代償が何かわかるか? タパ?」
タパは完全に眠っているようだ。先生は教科書の角でタパの頭をこづいた。タパは「もう食べられないよ」と寝ぼけながら答えた。教室に笑いがおきる。
「ドゥラムリア、分かるか?」
「はい、アーティファクトは菓子箱のようなもので、効果は対象一体を箱の中に封印して箱から外に出られなくすることです。代償は封印する際に自分の体の一部を切り落として捧げるために一緒に入れなくてはならないことでしょうか?」
教室で拍手が起きた。同意するときは拍手して意思表示をする決まりなのだ。ビジャンも拍手をおくりながら得意げな顔をしているのかとドゥラムリアの方をちらとみたが、彼の表情は変わらずじっと黒板を見ていた。ビジャンは「現在は『カジモドの箱』はただ単に箱と呼ばれることの方が多い。カジモドはこの箱を唯一使いこなした人物で封印した箱は現在もシエラマドレ社がすべて保管していて世の中にはもう空の箱は存在せず、お金さえ払えばその箱はクリーチャーごとだが購入することができるらしい」と教科書に載っていない情報まで答えることができたが、もちろんそんなことはせず、黙って下を向いていた。
「ドゥラムリア、続きを読んでくれ」
先生が言った。ドゥラムリアは立ち上がり、教科書を読み始める。
「カジモドの出身地は北の僻地プライスであり遺跡発掘チームの一人で長く潜入していたため瘴気の影響から鼻は腐り落ち、醜い瘤が至る所に見られ自分の容姿に強い劣等感を持っていました。プライス事変の後王都へ移動し、コンバインに参加しアカデミーに合格します。しかしながらアカデミーでは特筆すべき成績を上げることはできませんでした。のちに「凄腕」と呼ばれるウォルターミュラーと仲が良かったのは二人とも腕力がなく座学の好成績により王立騎士団に選出されたせいだったかもしれません。二人は戦果を上げることで生きる意味を見出し人知の及ばない討伐方法のわかっていなかったクリーチャーをカジモドの箱を用い数多く葬り去りました。ポスト・スクリプタム、スクリパブス、ベルリナー、プフィフィカス、スワンバナシアなど当時脅威であったクリーチャーを次々と封印し大きな戦果を挙げました。植物型クリーチャーであるスワンバナシアが王都を襲撃し甚大な被害をもたらしましたがそれを撃退したのもカジモドでした。カジモドはその功績から二つ名を授与されることとなりましたがカジモドの名のままでいる許しを王からもらいました。親友のウォルターはその名を英雄として胸に刻み続けよう、と言ったそうです。その後、カジモドは王立騎士団の二代目団長に就任し、ウォルターミュラーは副団長となりました。カジモドは就任直後に左目を失い隻眼となりました。彼の最期はノルトライン=ヴェストファーレン戦役において遭遇したクリーチャー『コロイドの液体』に一瞬で取り込まれ命を落としました。コロイドの液体は彼がカジモドの箱を使う隙さえ与えなかったそうです。カジモドを失い、ウォルターは箱のふたを開けると素早く自らの腕を切り落とし取り込まれたカジモドごと封印したそうです。ウォルターは戦役後に除隊し、その後リーダーを失った王立騎士団は衰退の一途をたどることとなりました。クリーチャー相手では歯が立たず新都の周りに壁を築き防護を固め被害を最小限に留めることが精一杯だったそうです。また王立騎士団は保身や政治に利用され出身者が国の中心的地位につくことで中身の伴わない形骸化した組織へと成り下がっていきました。カジモドの戦死後はカジモドの箱の使用者もいなくなりました」
ドゥラは読み切り、先生が止めた。
「ありがとう、ドゥラムリア。カジモドの項はこれでおしまいだ。来週は凄腕ウォルターミュラーだ。予習しておくように」
「親父、そんな今は死んでしまった偉人なんかより今生きている英雄のことを教えてくれよ」
終了間際になりタパは目を覚まし言った。
「タパ、学校では先生と呼べ、まったく。昔の英雄を知ることは現代の英雄を知ることと同じなんだぞ。だが昔の話をしてもいまいちピンとこないのもわかる。全て推測に過ぎないからな。カジモドは他のレヴェル様やマークバイン卿に比べるとあまり有名でなくて人気もないが、君たちが大好きな今の建設王も昔カジモドが一番好きだと言っていた。建設王のことが知りたければカジモドの事を深く学べば通ずる部分を見つけることができるかもしれないぞ」
ビジャンはそんな話は聞いたこともなかったので顔をあげて先生を見た。それはどこの出典なのか聞きたくて手をあげて発言したかったが、急に手をあげてなんだこいつ? と思われるのも嫌だったので逡巡していた。
「そんな話、どこにも書いてありません。少なくとも教科書には。前の建設王と違って実績が少ないから今の建設王の話はほとんどないはずです」
ドゥラムリアがビジャンの発言したかった事をそのまま先生にたずねた。
今まで書いてあった板書を先生は乱雑に消すと、
She Taught Me How To Fly
と大きな字で先生は板書した。
「私が聞いた今の建設王が言った最も好きな言葉だ。どういう意味だと思う? ビジャン」
突然当てられてびびってしまうビジャン。おずおずと椅子を引いて立ち上がる。
「彼女は私に空の飛び方を教えてくれた…ですか?」
教室内にパラパラと拍手が起きる、皆イマイチ確信がないらしい。
「意味はあっているが、これを聞いてどう思った?」
「発表すべきだと思います。もし本当なら建設王についての新しい事実が増えるわけですから」
早口で思わず言ってしまい、うわっ気持ち悪いと皆に思われた、と顔を赤らめうつむいた。しかし誰も笑っているものはいない。
「私が聞きたいのは本当だとかそうでないかではないんだよ。もし君が建設王がそう言ったならどう思うかってことだ」
ちょうどそこで授業の終了を告げる鐘がなった。隣のタパが一目散に片付けの体制に入っている。
「少し難しかったかもしれない。それは宿題としよう、ビジャン」
先生はタパの元に近づきその耳を引っ張った。
「お前もドゥラムリアとビジャンを見習え」
タパは小さく舌打ちをする。先生はより掴んだ耳を引っ張った。
「みんな家の手伝いをしっかりするように、後、東にある塔へは絶対に近づかないようにな」
先生は毎回同じセリフを言う。先生さようなら、とみな早々に帰っていく。
九月分です。毎月三十日に一章更新。




