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玄関を開けてすぐにリビングでテレビがつけられていて、アニメを見ているのが解った。両親の帰りが遅くなる時には必ず暦は帰宅して好きなアニメを見るのがお決りになっていた。
配信サービスで見始めた異世界転生アニメ。子供は本当に異世界が好きだなとつくづく思う。
玄関の扉が閉まった音を聞いて暦は声を上げた。
「お姉ちゃんお帰りなさい」
いつもなら、ただいまと返事をするところだが、虫の居所が悪すぎる。昨夜から今朝にかけての出来事で本当に顔も見たくない。
「お姉ちゃん?」
暦はアニメを一時停止して階段を上っていく姉の後姿を見た。
「お帰りお姉ちゃん」
それでも返事は来なかった。暦は俯いてままリビングへ戻り、再生ボタンを押して続きを観始めた。でも、先ほどまで好きなアニメを見ていて高揚していたはずの感情は何処か彼方へ消え、罪悪感で押しつぶされそうになっていた。
こんな時いつも、暦は姉と喧嘩した時のことを思い出す。どんなに仲が良くても、感情をぶつけてしまうことだってある。
姉が大事にしていた人形をボロボロにしてしまった時、
一緒のベッドで寝た時におねしょをしてしまった時、
いつまでも自分がゲームを譲らなかった時、
姉にできた初めての彼氏、その彼氏と二人っきりだけの時間にして欲しいとお願いされ部屋に入るなと云われていたのに入った時、
そして、今日だ。姉は年々母に似て大人びてきて、幼さが薄らいで綺麗になっていく。そんな姉が誇らしい。自慢の綺麗な姉だ。そう思っている。
それなのに、
他意はなかったし、自分でも無意識でやってしまったのだからしょうがないのに、どうしてそんなに不貞腐れてしまうのだろう。
でも、結局は自分が悪いのだ。そうやって自虐していたら、アニメはエンディングになっていた。エンディングと次回予告はスキップして次の話はすぐに見られる。
姉の怒りも、スキップできれば良いのになとそう思って呟いた。
「あたしも異世界に転生したいな」
そんな時、ふと脳裏を過ったのは昨日見た夢だ。そういえば、何処か知らない雪原で姉がたった独りで立っていた気がする。
それから何処かに向かって歩き出したのだ、それから吹雪になり、声がしたのだ。何て云ったのか、確か、誰かが姉の名前を呼んでいた。
それは誰だったのか、思い出せそうで思い出せない、喉につっかえた魚の骨みたいに不快な気分だ。もう少しで、朧気に思い出せそうだ。それは確か、黒い――
「暦っ! 人の話ちゃんと聞いてるのっ?」
「わぁっ!!」
いきなり我に返った暦はソファーからズレ落ちてしまった。振り向けば姉が仏頂面で睨み付けていた。
「何してんの? ねぇ、晩御飯、何食べたいの?」
何故か姉の顔を見てホッと胸を撫で下ろした。何かを思い出そうとしていたが、それが何なのかもう忘れてしまった。大切なことだった気がしたのに、あっさりと忘れたのだからきっと大したことではなかったのだろう。
「う、うん、ごめんなさい、えっと、何でも――」
「何でもいいはやめて、一番腹立つし、お母さんから連絡来て、暦が食べたいもの作ってあげなさいって云われたのっ! ちゃんと決めてっ! 後でガミガミ小言云われるのあたしなんだよっ!」
「えっとね、じゃあ、麻婆豆腐……かな?」
暦の返答を聞くと未知留は無言でキッチンへ向かって行った。やはりまだ怒っている。そう考えると溜息が勝手に出た。
「あれ?」
ふと気が付いた。エアコンが効いて涼しいのに、シャツが少し汗ばんだせいでへばり付いていた。
一方、未知留は麻婆豆腐の材料があるか確認していた。
「めんどくさっ、材料足りないじゃん」
また沸々と怒気が全身を覆い始めたのが解った。自分一人ならこんな面倒なことにならなかった。妹がいるから一人の時間がない。自分の時間が作れない。
独りなら、妹なんていなければ、きっと、もっと何かが良かったはずだ。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
話し掛けられて未知留は嫌気が差してきた。どうして自分が妹の為に食事を作らなければならないのか、妹を憎む気持ちが湧き上がるほど感情が抑えきれなくなる。
「お姉ちゃん、気分でも悪いの? 昨日の夜眠れなかったから? あたしのせい? ねぇ、お姉ちゃん、まだ怒ってるの?」
無邪気なその言葉にさらに苛立ちが増してきた。
「あんたが食べたいって云った麻婆豆腐だけど、材料が足りないんだけどっ!
買い物しなくちゃいけないじゃないっ!
もうっ、めんどくさいっ!
どうしてあたしがあんたの為に晩御飯作らなきゃならないのっ!
自分で作りなさいよっ!
馬鹿っ!
あんたなんてっ!
あんたなんてっ!」
その時、思った、云ってはいけない、それは本心ではない、そう頭で解っているつもりだったのに。
「あんたなんていなければ良かったのにっ!」
云ってしまった。
信じられないような暴言を。
どうしてだろう、
怒り狂っているはずなのに
涙が頬を伝って止まらない。
「あ……あ……」
未知留が急に怒鳴り散らしたので暦はのけ反ってしまった。未知留は泣いているのに怒りで満ちた異様なまでの形相は般若のお面にも見えた、いつもの優しさのある表情は何処にもない。あるのは憎悪だけ、そんな気にさせた。
そんな顔を向けないで欲しい、どうしてそんな目で自分を見るのか、自分が全部悪いのは解っている、だから――
「ごめんなさい、お姉ちゃん……ごめん……なさい……あたしが悪かったから……もう……許して……ごめんなさい……」
妹の目からボロボロ零れ落ちる涙を見て未知留はようやく自分が何をしてしまったのか気付いた。どうしてそんなに妹を憎んでしまったのだろうか、今までこんなに当たり散らしたことはなかった。馬鹿なのは自分の方だ。
今日はどうしてか、厭な感情を暦に抱いてしまう、自分は姉失格だ。未知留は暦に手を伸ばしたが、暦は怖がって後ろに一歩引いた。その行動に云いようのないショックを受けたが、それでも――
「ごめんね暦……あたし……こんなこと云うつもりじゃなかったの……ごめんね……」
そう云って全身が強張る暦を抱き寄せた。強く、強く抱擁して、愛していることを伝えたかった。この思いが届いて欲しい、そう願ったのだ。
その願いは十分に暦に届いた。恐くて流した涙から、姉の愛と謝罪の気持ちで流す涙へと変わった。
「ううん、あたしもごめんね、お姉ちゃん……本当にごめんね……面倒くさい妹で……」
「馬鹿、そんなことないよ……妹は姉に面倒掛けるもんよ……」
「もうっ、馬鹿馬鹿云わないでよ……」
「ふふ、ごめん」
未知留はまだ小さかった頃の暦にしていたことをした。頭を撫でながら髪を梳かすことだ。これをすると暦はいつも喜んでいた。これをするといつも決まって妹は云うのだ。
「これ好き」
そして未知留は、こう答えてあげるのだ。
「お姉ちゃんも好き」
二人で抱き合っていて、気持ちが清々しくなった。今日一日執拗にへばり付いていた妹への嫌悪など綺麗になくなっていた。
「麻婆豆腐の材料、買ってこないとね」
「ううん、良いよ、冷蔵庫で作れるもので大丈夫、お姉ちゃんのご飯、何でも美味しいんだもん」
「ありがと、良しっと! じゃあ、晩御飯、一緒に作る?」
「うんっ!」
先ほどまでのわだかまりが嘘のように仲睦まじい普段の二人に戻ったが、喧嘩の発端となったことが何だったのか、嘘のように忘れてしまっていた。