牛の首
その時だった。暦の念が通じたのか、身体はようやく立ち止まって腕を引っ込めることができた。続けて暦は下がれ、下がれ、下がれ、牛の首から離れろと念じた。
「暦っ! 逃げてっ! そのまま逃げてっ! じゃないと……」
逃げないとどうなるか、知っているはずがなのに、未知留はこの後に何が起こるのか知っている気がした。
暦が遠のいてゆくのを悟った牛の首は口を開けた。
「そっち行くよ」
「行くなよ」
来るな来るな来るな来るな
来るな来るな来るな来るな来るな
来るな来るな来るな来るな来るな来るなっ
そう云いたかった。
でも、何故かそう答えてしまった。ついに1m以上離れることができた。そう思ったのも束の間、足先で何かを感じ、下へ眼をやると血で溶けた雪が小さな赤い波になって足元に当たっていた。
その波は牛の首を中心に拡がっていた。首だけで、血の池を動いているのか。やばい、やばい、早く、早く、逃げないといけない、暦は心の中でそう思った。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろっ。
そう思えばきっと身体は逃げてくれる。このまま逃げて……それからどうするんのだろう、逃げてどうしたいのか、何をしたいのか。解らない、何も考えなくて――良いような気がしてきた――
その時
「暦っ!」
「お姉ちゃん? 何処にいるのっ!? 助けてっ! お姉ちゃんっ!」
ついに暦に声が届いた。次はどうすればいいのか、未知留は必死に暦の手を握らなければと念じた。妹を、暦を救いたいその一心をただ、ただ強く想い、
彼女の脳裏には、暦が生まれてから今までのことが光よりも速く駆け抜けた――
お母さんのお腹の中にいた時、お腹越しに耳を当てて早く会いたいと思ったこと。
分娩室前の待合室で出てくるのを待っていた時、暦の産声を聞いて嬉しかったこと。
初めてその顔を見た時、ずっと一緒に居ようと思ったこと。
自分がお姉ちゃんだよと話した時、笑顔で返してくれた時のこと。
初めて手を握ってくれた時、その小さな手は人差し指だけを握れるくらいだった。
初めてお姉ちゃんと呼んでくれた時、
ちゃんとした言葉ではなかったけれど“あーね”っと云ってくれたこと。
初めて喧嘩をした時、お気に入りの人形を取られてムキになって怒ってしまったこと。
暦が小学生に上がった時、お姉ちゃんと一緒の部屋にいたいと話してくれたこと。
お母さんとお父さんに頼んで、一緒の部屋にして欲しいとお願いしたこと。
夜を怖がった暦が一緒に寝て良いっと涙を見せた時、
二人で一緒に抱き合って寝た時のこと。
そして暦が赤ちゃんの時、ベビーベッドで寝ていた暦に自分はこう云った。
大切な誓いの言葉。
「あたしが守ってあげるからね。
だってあたしは――」
妹を助けたい、暦を助けたい、暦は渡さない、暦を助けなければいけない、
「だってあたしはっ――暦のお姉ちゃんだからっ!」
気付いた時に未知留は暦の手を握っていた。突如、前触れもなく現れた姉に暦は驚いたと同時に涙が沸き上がってきた。お姉ちゃんが迎えに来てくれた――
「お姉ちゃん……」
「暦、さぁ立ってっ! 逃げるよっ!」
未知留は暦を引っ張り起こし、牛の首からできるだけ離れようとまだ雪原をただひたすら全力で走った。
「お姉ちゃん、もう……走れないよ……」
「暦っ、しっかりっ! お姉ちゃんが付いてるからっ!」
この奇異で恐ろしい状況の中で、姉の言葉は彼女を少し安心させた。お姉ちゃんがいてくれる、それだけで彼女の心は満たされた――
「お姉ちゃんっ!」
「暦っ! 大丈夫だからねっ! お姉ちゃんとここを出よう!」
「うんっ! あとっ! 今朝は……今朝は本当にごめんなさいっ!」
慣れない雪の道を覚束無い足取りで走りながら、暦は姉へ思いの丈を吐き出した。
「あたし……お姉ちゃんに酷いこと沢山云っちゃった……あんな本当は……」
「解ってるっ、全部あいつのせいだからっ! 暦は悪くないっ! あたしの妹だもんっ! あんな酷いこと本心で云うわけないもん!」
自信ありげなその声に、暦は救われた気がした。さらに未知留は続けて想いを伝えた。
「暦はお姉ちゃん大好きなこと! お姉ちゃんは解ってるっ! だってあたし達っ! ずっと一緒にいるんだもんね?」
「お姉ちゃん……うん……ずっと一緒にいるもんね……」
姉の言葉は強く握っている手と同じくらい温かく、先ほどまでの悴む寒さが嘘に思え、引っ張ってくれるその頼もしい背中を見ていて暦は目の前が泪で滲んでいた。
暫くして未知留は牛の首の場所を知るために振り向いた。牛の首は遠く離れた、そう思い前を向いた瞬間、牛の首は瞬きをした途端に顔の前に浮いていた。
「きゃっ!」
暦を背に隠して未知留は牛の首を凝視した。首からは血がダラダラ垂れて、口は歯が少し見えるほどの半開き状態で粘々した涎が今にも血の池に落ちそうだ。
「お姉ちゃん……恐いよ……」
「大丈夫、暦、お姉ちゃんが……絶対にあんたを守るからっ!」
鼻はびくびくと動き未知留と暦の匂いを嗅いでいる。瞳は彼女の顔を凝視して、朽ち果ててヒビの入った角は今にも抜けてしまいそうになっていた。
「行こうよ」
牛の首はそう云った。暦の恐怖が肩に置かれている手の震えから感じ取ることができる。何とか、何とかして、暦だけでも――助けなければ――
「ここから出してっ!」
「出さないよ」
牛の首は血と涎を流しながらそう云った気がした。
「渡さないっ! 暦は絶対に渡さないからねっ! 渡すもんかっ!」
未知留は精一杯の勇気を振り絞ってそう云い放ち、牛の首を睨み付けた。どうにかして、相打ちになろうとしても、暦を守ろうと思った、その時だった。
「未知留、来いよ」
その言葉を聞いて未知留は、自分が負の感情に落ちてしまったのを自覚して暦の顔を見た。もう暦には憎悪や嫌悪など微塵もない、今、その顔は恐怖で歪み疲れ切っている。
今、憎悪や嫌悪に囚われているのは自分だ、牛の首が憎い、憎くて溜まらない、そう思えば思うほど暦との思い出が黒く塗りつぶされていく寂しさを感じたが未知留は覚悟を決めた。
「暦は渡さない、連れていくなら、あたしを連れて行ってっ!」
「お姉ちゃんダメっ!」
暦は未知留が離れないよう背中から回した両腕に力を込めたが、未知留が一歩進んだだけで、離さないと思っていた腕は簡単に外されてしまった。
「お姉ちゃんっ!」
力を入れていたはずなのに、すぐに解かれた腕に暦は愕然とした。一方の未知留は毅然とした面持ちで牛の首の前に立って振り向き、暦を抱き締めた。
「暦、ごめんね」
「お姉ちゃんっ! ダメっ! 諦めないでっ! 一緒に帰ろう! お願いだからっ!」
いつもしてくれる――違う、今まで以上に強く抱き締め、頭を撫でながら髪を梳かしてくれた――いつも以上に――震える手で――
「さようなら、暦――」
「お姉ちゃんっ! 厭っ! やめてっ! お願いっ!」
暦の元から去った未知留は少しずつ牛の首を手に取れるほど近付いて行った。
「妹には何もしないで」
「解ったよ」
牛の首は宙に浮きながら、互いの瞳の中が見えるほどに未知留と差を縮めた。良く見れば牛の瞳の奥に自分の姿ではない何かが映っている。いや、あれは自分なのか――
未知留は牛の首を手に取って目の奥に映る何かを覗き見た――
そこには、肌が青と黒で廃れ、目を刳り貫かれた処から赤い液体を滝のように流す自分の姿が映っていた。
暗闇に独り、倒れ込んだその姿を見て、彼女はあはははっと嗤い乍ら、牛の首を食べてしまいそうなほど大きな口を開けて頭上に翳した。
「お姉ちゃんっ! ダメ!」
そこで暦は瞼を大きく開けた。鳥の囀りと窓から差し込む陽の光で、朝を感じ取ることができた。
ふと気付けば、全身が水にでも入ったかのように頭の先からつま先、下着から上の寝間着まで汗でびしょびしょに濡れていた。
鼻から吸い込む息は荒く、深く吸い短く吐き出していて口からも呼吸しないと酸欠になりそうだと思った。心臓の鼓動も早く、その音は脳まで響き渡っていた。
不思議な、いや、奇妙、忘れてはいけない、とても恐ろしい夢を見た気がしたのに、どうしても内容を思い出すことができない。
それに、どうしてだろう、涙も流しているではないか。
少し天井をじっと見つめていたが、心音がようやく静まり、口から深呼吸をして上半身だけ起き上がった。
前髪から汗が滴り掛布団に落ちたのを見て、暦は右手を額に当てて目を瞑った。何か大切なことを云われた気がした。
ふと、隣のベッドで寝ている姉へ視線を移すとこちらに背を向けて寝ていて、掛布団も床に落ちている。
それに良く見れば制服のまま寝ている。何かあったのだろうか、左腕はこちら側に掌を見せ、股を無造作に拡げていて、過去最高に寝相が悪いようだ。
あと、気になることがある、今日も寝言を云ってしまったのだろうか、脳裏で少しその考えが横切った時だった。
「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ――」
「お姉ちゃんっ!」
咄嗟に姉のベッドまで掛けて身体を揺らした。
「お姉ちゃんっ! どうしたのっ! お姉ちゃんっ!」
「あぁあぁあぁあぁあぁあぁぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ――」
刹那、未知留の頭が小刻みに震えたと思えば、痙攣は彼女の身体全体まで拡がり、そのせいでベッドが大きな音を立てて揺れ暦は振り落とされないように姉に必死にしがみ付いた。
「お姉ちゃんっ! どうしたのっ! お姉ちゃんっ! お母さんっ! 早く来てっ! お母さんっ!」
暦はあまりの異様な状況に泣き叫び乍ら助けを呼んだ。悶え叫び続ける姉の声にかき消されそうになり乍らも、扉の向こうからドタバタと階段を駆け上がって来る音が微かに聞こえた気がした。
「あぁあぁあぁあぁあぁあぁぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ――」
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃんっ!」
「あぁあぁあぁあぁあっ!」
唐突に叫びが止み、全身の震えも収まった。
「お姉ちゃんっ! 大丈夫っ! お姉ちゃんっ! 行っちゃダメぇぇぇぇぇっ!」
暦はボロボロと泣きじゃくり乍ら目を覚まさない姉に呼びかけ続けた。突然、暦の顔を爪が食い込むほどに両手で掴んだので、痛いよお姉ちゃんっ痛いと叫んだが、何も聞こえていないようだった。未知留は顔の方へ暦を引き寄せ、破けるような見開いた目でこう云った。
「こ……よ……み……おねぇ……ちゃ……ん……が……まも……る……から……こ……よ……」
途切れ途切れの囁き声は、壊れかけのラジオにとても良く似ていて、寿命だったようにいきなり切れた。母親が扉を開けた時には、未知留に覆い被さり、ずっと身体を揺らし乍ら泣いている暦の姿があった。
「お姉ちゃんっ! ありがとう……あたしを守ってくれて……」
どうしてこんな言葉が出たのか、暦はそれが解らない。しかし、姉が自分を守ってくれたと彼女は潜在的に感じたのかもしれない――
厭な夢を見た、でも、どんな夢か思い出すことはできない。それにやたらと汗もかいている、一昨日から毎日これだ。夏だからかも知れないとも思ったが、それでも、尋常でないほどに汗が出ている。そのせいか、苛立ちは容赦なく込み上げ、表情は険しくなっていった。
そういえば、昨日、誰と何を話したのかもすらも覚えてない、もしや寝ながら軽度の熱中症になってしまったのだろうか。
しかし、微かに、朧気ではあるが、何かに呼ばれた、そんな夢だった気がした。そして、それは徐々に近づいて来ている。そう感じる。
敦美は一度溜息をして、寝室を出た――




