頸
暦を助けなければいけない、一刻も早く救いに行かなければ、例え、それで自分が犠牲になっても構わない。その信念は揺るぎなく、心は彼女を導いているように行動させた。
暦に処方された風邪薬を未知留は一錠飲んで横になった。風邪薬には眠気を促す作用があるっと聞いたことがあるし、実際、風邪になった時、未知留は薬を飲むとすぐに眠りに落ちてしまう。
これで、ちゃんと眠れるかも解らないし、眠れたとして暦の夢の中に入ることができるかの確証なんて何もない。それでも――
「行かなくちゃ……夢の中へ……あたしは……暦の……」
「暦、来いよ」
暦から出された言葉を聞き、未知留は心臓が今にも破裂しそうだと思う、その刹那、うつらうつらと瞼が重くなり一筋の涙がシーツを濡らした、妹のことを一途に、ただ彼女のことだけを想い乍ら真っ暗闇へ転んでいった。
一方その時、暦はだだっ広い雪原に独りでいた。どうしてこんな場所にいるのか、皆目見当もつかない、学校の授業を受けていた、そんな気がしたがどうにも曖昧で思い出すことができない。
「暦、来いよ」
脳髄から反響しているかのような声に暦は怯えた、しかし、何故か、答えなければならない、そうするしかない、その考えに彼女は縛り付けられた。
「行くよ」
足が勝手に雪の中を進む、それにとても寒い、良く見れば自分はいつものパジャマ姿で白い平野に居るのだった。
素足で踏み締める度に雪は容赦なく薄い皮を剥いでいき、ついには足跡に赤い斑点が残るようになった。それは歩を進めれば進める程大きくなり、暦はあまりの痛さに叫ぼうと思った。
「痛いよ」
大きな声で叫んだつもりだった。しかし、声はか細く木霊すらしなかった。毛根の奥が寒さで痛いような気がしてきた。足の感覚が麻痺して、温かいと思うようになった。
それが気持ち良いと、彼女は思い始めてきた。
暫く進んでいけば、白銀の世界に似つかわしくない黒い何かが落ちていた。それはまだ遠くにあるように思っていたが、一歩前に出る度に思っているより近づいて行っている気がした。
まだ、何か解らない、
一歩進んだ、
まだ、
良く解らない、
そして、ようやく”それ”が何か解った。
「お前、その頭なんだ?」
恐怖で声が出ないはずなのに、その言葉をしっかりした口調で云えた。
恐らく、元は茶色の短い毛には、
泥のように粘度が高い乾ききっていない黒い血を浴びていて、
二本の角はひび割れているものの、
その猛々しさはこびり付いた淡い肉片で証明されていて
額のところには大きな風穴が空いていて、
そこから黒に近い赤い液体が溢れ出し、
開いた口からは白い吐息と熱を放つ唾液が流れ、
生気を失った瞳は黒目が大きく見開いた状態で、
暦を見ていた。
それは、首だけしない、牛だった
それは、”牛の首”だった。
「牛首っ牛首っ!!」
暦は無意識にそう云って、目の前に現れた牛の首に身を震わせて膝から崩れ落ちた。それは首の下から湧き水のように血が垂れ流されているのに、雪を溶かしながら拡がった。
その牛は全身を舐め回すように暦を真っ直ぐ見ていた。その視線だけでも虫唾が走っているのに、強烈な獣の臭さが鼻腔に入り込んでくると胃から逆流して吐き出しそうになる。
それなのに、暦はどういうわけかじっと牛の目を見つめていた。吸い込まれるような漆黒の瞳には自分の姿が映っている。それが闇に飲み込まれてしまった憐れな少女で、とても綺麗だと思った。
その間にも牛の首から流れ出る血が雪原を赤く塗りつぶし乍ら足元まで迫っていたが、後ずさりしようとしても足が上がらない。いや、身体が云うことを聞かない。いつもは自由に動かせるはずの腕や足、顔の表情筋ですら微動だにしなかった。
しかし、声だけ、声だけを発することはできるようだ。彼女が振り絞って出した言葉。
「怖いよ」
ようやく声になったのに、その言葉しか思い浮かばなかった。そして、どうしてか、やはり云わなければならないとも思った。
未知留が気付いた時には、暦は牛の首のすぐ目の前で腰が砕けていた。良かった、暦の夢の中に入ることができた。
間に合ったのだ、もう危ない、あんなにすぐ傍に暦はいるのだ、早く連れ出さなければいけない、早く、暦を。
「暦っ! 逃げてっ! 暦っ!」
未知留は肺が張り裂けてしまうくらい声を張ったが、暦は牛の首に釘付けになっていて、彼女のことを気にも留めていない、というよりも、いることにすら気づいていないようだった。
そういえば、自分は何処に居るのだろうか、
顔も耳も
手も足も
何もかも無い
ただ、この光景を間近で見ていることだけを認識することができた。
白を塗りつぶす血はついに暦の足先に触れた。その時には白一つだった世界に黒が混じった真紅が辺り一面を覆い尽くし、血の池の中心には牛の首が浮かんでいるかのようだった。
「怖いよ」
暦は言葉を繰り返した。他の言葉を云おうと思っても云うことができない。言葉が縛り付けられているかのようだ。
牛の首は頭だけで大きな口を開けたり閉じたりを繰り返して何かを囁いているようだった。その声を聞いていたら勝手に足が牛の首の元へと歩き出した。少しずつ近づいていたら、ようやくその声を聞き取ることができた。
「暦、いるか」
「いるよ」
牛の首の問いに何故か答えてしまうし、あろうことか歩の先は真っ直ぐ牛の首へ向かっている。止めようにもどうすることもできない。操り人形のように動かされていると感じた。
「良かった、暦、取れよ」
「取らないよ」
ついに思っていることを口にすることができた。指先を動かせる感覚がしたので、何でもよいから動かそうと思うと人差し指が震えたのが解り、頭の中でずっと止まれ、止まれ、止まれ、足止まれと念じ始めた。やがて踏み出す度に呼吸は乱れ荒く、汗は尋常ではないほどダラダラと溢れてきた。
「取っちゃダメっ! 暦っ! 聞こえてっ! 暦っ!」
暦はどんどん牛の首へ近づいていく。未知留は喉が潰れてしまうほど大きな声を掛けるが、こちらを振り向きもしない。
「暦、取れよ」
「取るよ」
しかし、口ではそう云いながらも牛の首を手に取らなければいけない、そして、頭に被らなければならないという考えが酸化した鉄の錆のようにこびり付いた。
「取っちゃダメっ! 暦っ! 暦っ!」
もう少し、もう少しで牛の首を手に取ることができる。鼻が捥げる程の強烈な異臭に嗚咽しながら、もう一歩、あと一歩となった。身体は暦の意に反し進み続け、ついに牛の首へ手を伸ばした――




