愛しの
保険医が戻って来た時には敦美は泣き止んでいたものの、目が腫れていたので不思議に思っていたようで、休んでいた未知留よりも心の方に問題があるのではないかと疑われた。
帰り道、未知留は周囲の人々の視線など気にも留めずに全速力で駆けた。一分、一秒、一刻でも早く家に帰って、暦から負の感情を振り払わなければいけない。
彼女は家路を急ぎながら、敦美と交わした内容をもう一度、思い返していた。
「じゃあ、今見てた夢だと、あいつはみっちゃんのことを見つけられなかったんだね?」
「うん、いるかって何度も頭の中で話し掛けてきたけど、あたし、答えなかった」
「そっか、それでようやく確証が持てたよ、
やっぱりあいつは負の感情に縛られている人間じゃないと認識できないんだ、
昨日の妹ちゃんとの喧嘩から仲直りして、
心が晴れたというか、
浄化されたみっちゃんを見つけることができなかった、
今日が二人にとって三日目で、
姉がダメになってしまったから、
今は妹ちゃんにターゲットを絞ったんだと思う……」
「少し、質問しても大丈夫?」
「何? 何でもは答えられないし、推論でしかないけど――それで良いなら――」
「あっちゃん達の推論はどっちも正しくて、
牛の首は寝ている間、
見ている夢の体験を
ラジオみたいに寝言で話している怪談で、
あたし達姉妹はお互いに話し手と聞き手になった、
この牛の首の話を間接的に聞いた人たちも呪いを受けて
三日以内に聞いた人は死んでしまう、
今、あたしと妹、あっちゃん、オカ同のみんながその状態、
合ってるよね?
じゃあさ、牛の首を知って、生きている人はいないの?」
敦美は視線を逸らして口を結び、少し間を置いてから答えた。
「あくまでも、推論、
前にも話したけど、
死ぬ以外にも
正気を失う人もいるらしいのね、
その正気を失うって云うのは、
もしかしたら、
負の感情で満ちた、あの状態の
もっと
もっと
酷い状態なんだと……思う……」
そこで口籠る敦美に未知留は縋る気持ちを抑えきれず、はっきり云って欲しいのっと云った。そうして敦美は、ようやく閉じた口を開いた。
「多分……犯罪者……えっと……人殺しに……なる……かも……」
一瞬、脳裏に返り血を浴びた暦の残像が見えた。その足元に転がっているのは、関節ごとに切り刻まれた両親と――自分の姿がはっきりと垣間見たのだ。
「あっちゃんっ! 牛の首から狙われなくなる方法はっ!? さっき話してた心を――結局、どうすればいいのっ?」
「多分……負の感情を振り払うことで、あいつには認識されない……と思う……それが助かる方法かもしれない……今はもうこれしか、あいつから逃げる方法はないと思う……」
「解った――ありがとう、あっちゃん、あいつに気を付けてね、厭なこと考えないようにしてね」
「うん、みっちゃん、あのね――」
「妹ちゃんを救って――必ず、また明日、学校で――」
「うん、またね、あっちゃん――」
「またね、みっちゃん――」
未知留は学校を後にし急いで家へ向かったが、今日に限って信号機のある交差点で赤信号に当たってしまう。
妹はあいつによって負の感情を増幅させられているけれど、今の自分のように心が洗われれば、きっと獲物になることはない、どう話して説得すれば良いのか考えてもいないが――
何ができるかじゃない、何をするのかが重要なんだと心の中でそれを思った。
牛の首に邪魔をされているのだろうか、でも、そんなひつようがあるのだろうか、まだ暦が寝る時間には早過ぎる。まだ七時にもなっていないのに――
「ただいまっ!」
未知留は勢い良く玄関を開け、同時に叫ぶように云って、そのままリビングに飛び込んだ。しかし、暦が特等席にしているソファーにいない、それに、昨日は遅くまで残業をした母は、翌日の勤務は早上がりになって、家にいるはずなのに――
二人の姿はリビングにはなかった。その時、二階の方から扉を開ける音が聞こえ、未知留はホッとした。
「もうっ、なぁんだっ、二階にいるならいるって云ってよぉ暦ぃ」
暦が二階から降りてきている、そう思っていたのに――
階段から降りてきた人物を見た途端、カバンが手から滑り落ちて大きな音を立てた――
「何なんの、さっきからドンドンドンドンって大きな音立てて?」
母の何気ない言葉に心臓が飛び出すかと思うほど高鳴っているのが解った。そして、唇を奮わせ乍ら彼女は云った。
「ねぇ、お母さん、どうして……二階から降りてきたの……お母さん達の部屋、二階じゃないよね……二階は……私と暦の部屋……」
「未知留、何が云いたいの? あのね、お母さんもう疲れてるのよ、学校から電話があって暦が高熱出して倒れたって云うから――」
「暦が倒れたのっ!」
母はいきなり未知留が飛び掛かった勢いで、体勢を崩して蹌踉めいたが持ち直し、なんなのよもうっと口にした。
「どうしたの? あんたまだ学校だったから連絡してなかったし、病院にも行ったけど多分夏風邪だろうって云われたから心配することないわよっ」
「――違う」
「えっ? 何て云ったの?」
「きっと違うっ! あいつだっ! あいつがっ! 夢の世界に暦を連れ込んだんだっ!」
喚き散らし始めた娘を見て、呆れ返った母は、いい加減にしなさいっと叱責した。
「ただの風邪よ、何なのあいつだの、夢がどうたらだの――今、暦は薬飲んで寝てるから起こしちゃ――」
「暦がっ! 暦が危ないっ!」
母を突き飛ばして未知留は急いで階段を上がって部屋へ入った。そこにはベッドで寝ている暦の姿があり、未知留は愕然としてその場に崩れ落ちてしまった。
「どうしよう……もう……夢の中だ……あいつ……あいつはもう……暦を……」
「ちょっと未知留っ! お母さんに何てことするのっ!」
「お母さんっ! あいつがっ! あいつがっ!」
昨日の朝とはまた異なる、余りにも取り乱している娘を見て、母はそっと腰を下ろして訊ねた。
「さっきからあいつ、あいつって誰のことよ?」
「牛の首っ! お母さん! 牛の首がっ! 暦をっ!」
「牛、牛うるさいわよ、あんた何訳の解らないこと云ってるのよ、早く手を洗って着替えなさい」
「お母さんっ! このままじゃ暦がっ! 暦がっ!」
ズボンを引っ張る娘に呆れながら、こう答えた。
「じゃあ、あんたここで暦の面倒見てあげて、お母さんちょっと下で横になるから」
そう云って階段を下りていく母の背中を見送って、暦の方へ視線を戻した。部屋に入って来た時よりも汗ばんできている。
きっと牛の首が暦を取り込もうとしているのだと焦りは増すばかりで、部屋の中を右往左往していたら、ふと目に飛び込んだある物を未知留は手に取った――




