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ある種の妄想が生まれてくる土壌を創り出すのは、変化が訪れる時だ
「こわいよ」
妹がそう云ったのが聞こえて姉の未知留は目を覚ました。妹の“恐い”という寝言の一言が気になったのだ。きっと姉として無意識で危険を察知したのだろう。デジタル時計にふと視線を移せばぴったり四時と表示されていた。
短い溜息を吐き出した後、部屋の周囲を見渡せば、見知っているはずの部屋は一面墨汁にでも塗りつぶされてしまったかのように漆黒に染まっていて、何処かおどろおどろしく、ずっと見ていることはできないと少しでも思えば恐れおののいてしまう。
瞬きをしても真っ暗な世界は、四次元の入り口に迷い込んでしまったと云われても可笑しくないと思った。
「こわいよ」
妹は何度か寝返りをした後、また“恐い”と声にした。それ以上何も言わない。数回ほど恐いよと云うとすぅすぅと気持ち良さそうな寝息が聞こえて拍子抜けしてしまいそうになる。
何が“恐い”のだろう。
妹の暦は今年中学生になったばかりで、中身も外見も小学生と思われても仕方のないほど純朴だ。夜一人で寝ることができないということで、小学三年生の頃からずっと未知留と同じ部屋で寝ている。
未知留はと云えば高校生になってからというもの、一人でいたい時間が欲しいと思い始めていた。それはいつの間にか、妹と一緒にいることが億劫と思う様になった。
その考えは日が暮れてから蠢いてくる暗闇の如く拡がり続け、ついには縛り付けてこう思うようになった。
独りのほうが良い。
一人の時間が欲しい。
妹なんかいなくなっちゃえばいい。
その考えは沸々と煮える湯を思わせては蒸発して空へ消えていく。そして今、この寝言である。もういい加減別々の部屋で寝てもいい歳になったはずだ。妹が駄々を捏ねたとしても我慢の限界が近づいている。
当に限度を超えていたかもしれない。眠気で意識が飛びかけながら、辛辣な考えが頭をグルグルと何度も回っていれば、左のベッドで寝ている暦がまた寝言を云い出した。
「それ、とってよ。とるよ、とっちゃだめだよ」
「えっ?」
他の言葉を聞いた衝撃でまた目が冴えてきた。
「そっちにいくよ。そっちはだめだよ。こわいよ」
そっちとは何処のことなのだろうと未知留は思った。何処かに向かう途中が恐いのか、でも、結局“そっちは駄目で恐い”らしい。寝言の意味を深く考えている自分が馬鹿らしく思えたが、少しだけ面白くなってきた。暫く他にも何か話すのではないかと思い、じっと待っていると暦はまた声を出した。
「未知留いるか、いるよ」
「えっ!? なにっ!? わたしっ!?」
名前を云われて思わず声に出してしまった。姉を呼び捨てにするとか生意気な妹だ。
「未知留いるか、
いるよ。
良かった。
未知留いるよ、
いるよ、
未知留いくなよ、
解ったよ。
お前その頭なんだ、
あ、
なんだ、
なんだ
ぎゅうしっ、
ぎゅうしっ、
こわいよ」
“ぎゅうし”なのか“よぉし”なのか聞き取りにくかった。でも、最初は“ぎゅう”だったように思う。
“牛脂”か、肉でも焼くのか、いや待て、そもそも妹の寝言の意味を考えている場合ではない。
時刻に眼をやれば、もう五時になろうとしている。訳の分からない寝言に付き合っていたら、明日の授業で寝落ちしてしまう。もう寝ようと思い目を無理やりに閉じてから布団に覆い被さった時だった。
「いたいよ」
「いたい?」
「いたいよ、いたいよ」
いたいとは“痛い”のことなのか、それともここに“居たい”の意味なのか。
「何なのもうっ! もう厭っ! 寝れないじゃん! 馬鹿っ!」
「こわいよ、
こわいよ、
そっちいくよ、
いくなよ、
そっちはだめだよ、
こわいよ
いたいよ、いたいよ、
あら?
ねてるよ、
ねちゃだめだよ
だしてよ、
ださないよ、
とれよ、
とっちゃだめだよ、
こわいよ
いこうよ、
いくよ、
あはははっ」
気味が悪い、いやドン引きするほど気色悪い。朝になったら、母にまた別々の部屋にして欲しいとお願いしよう。今度は強い口調で。それにしても本当に何の夢を見ているのだろうか。また意味を考え出していたら、小うるさい声で無理矢理に目を覚ますことになった。
「未知留、早く起きなさい」
起こしに来てくれた母の言葉に苛立ちを隠せない言葉を云い放った。
「解ってるよっ」
妹の寝言のように答えてしまったことで、余計に腹の虫が暴れ出した。半眼の状態で隣のベッドを見ると既にも抜けの殻になっているのを見て、ただでさえ例年よりも暑いと世間で騒いでいる夏なのに、怒りで顔が熱くなってきた。