西の館の侍女頭様
あたしは絵里と一緒に、高校に向かうバスに乗っていた。
「それがねぇ、もう笑っちゃうぐらいのイケメンの神官で、あたしをじっと見たり、敬語で話したりして......ありえないよね」
すると、いつの間にか玲君が絵里の隣にいて、
「ありえない、ない、ない」って言う。
その断定は失礼でしょうって思って玲君の顔を見たら、玲君じゃなくて神官の巽様になっている。
(えっ?)
はっと目が覚めたら、あたしが寝ていたのはいつもの自分の部屋じゃなくて、ゆうべ寝たときと同じ部屋だった。
(夢を見てたんだ......でも夢のようなこの世界は変わってなかった......一晩寝ても元には戻れなかったんだ......)
薄い畳のような物を敷いただけの固い床の上で寝ていたせいか、全身が筋肉痛になっていた。
(痛ったぁ、いたた...)って上体を起こしてぼーっと周りを見回していると、すずちゃんが水の入った桶を持って部屋に入ってきた。
「お目覚めでしょうか。よく眠られましたか? お支度をいたしましょう」
うがいをしたり、顔を洗ったりしたあと、すずちゃんは朝食も持ってきてくれた。
朝ご飯は野菜か草のような物が入ったお粥で、薄い塩味がついていた。
お腹が空いていたので、味は二の次で我慢して食べる。
あぁ、カリッと焼かれたトーストにバターかマーマレードを塗って食べたい。ミルクティーを飲んでベーコンエッグが食べたい。
なんならインスタントの安いコーンスープでも、今ならとてもおいしく食べられるだろう。
あたしは純和風の顔立ちだけど、食べ物や生活様式は断然洋風が好きなのだ。
朝はごはんよりもパンの方がいいし、何だったら三食パンでも構わないほどパンが好きなのだ。
でも相変わらず、ご飯を食べている間はすずちゃんが嬉しそうにじっと見ているので、あたしもついニッコリ笑って
「ごちそうさまでした。美味しかったです」と言ってしまった。
すずちゃんが食器を下げて部屋を出て行ったので、あたしは部屋の周りの様子を見ることにした。
部屋の前の廊下に面した扉が開いていたので、そこから覗くと、その先は渡り廊下になっていて、更にその先で何人かの家来か使用人というような様子の人が動いているのが見えた。
ゆうべお館様達が来たのはそちら側だったので、その辺りがこのお屋敷の中心の場所かもしれない。
あたしが案内された部屋は、小さい離れになっていたのだけれど、中心の建物は中学校の体育館ぐらいはありそうだ。
すずちゃんが出て行ったのはそれとは反対側の廊下だったので、そちらの方を覗いてみると、また違う渡り廊下の先に倉庫のような建物があり、張り出し屋根の下には鍋が乗せられた竈があって、その傍には井戸や洗い場があった。
そこでは短めの着物を着た女性達がキビキビと働いていたので、台所のような場所らしい。
この西の館というのは、いくつかの建物が渡り廊下でつながっているお屋敷のようだが、お屋敷全体の規模としてはそれほど大きくはなさそうで、庭に数本の木は見えるのだけれど庭園と言う感じでも無く、裏はすぐに山林になっている。
ゆうべの怖かった熊のお館様には会いたくないので、反対側の渡り廊下に出て台所の方を眺めていたら、倉庫のような所から出てきた男の人が、あたしに気づいてびっくりしたような顔をして立ち止まると、慌てて倉庫に戻って行った。
すると間もなくゾロゾロと男の人やら女の人やら、たくさんの人が出てきて、あたしをじっと見た。
そこからあまり近づいては来ないのだけれど、まるで珍しい動物でも見るように指差ししてガヤガヤと話している。
中には拝んでいる人とか、(何と尊い......ありがたい......)とか言っている言葉さえ聞こえる。
絶対何かの勘違いだよね、と思いながらも、それほど注目されたこともなかったので、ちょっと嬉しい。
でもジロジロ見られるのはさすがに恥ずかしいので、元の部屋に戻ろうとしたら、廊下をすごい勢いでやって来る侍女頭様が見えた。
あんなに早く歩けるのに、何で昨日はゆっくり歩いていたんだろう。
侍女頭様は足音を立てない早足で部屋まで来ると、目を三角にして座った。
明るい朝になると、侍女頭様の顔がはっきりと見える。
顔を真っ白く塗って、まるで能面のような顔で怒っている様子なのは、正直恐ろしい。
「姫様は......かように......立ち歩くものでは......ありませぬ......、とりわけ......下々の者達の前で......お姿を現されるなど......あってはならぬことで......ございます」
と、ゆっくりと地を這うような低い声で話す。
そっか、この世界では姫様はむやみに人前に出たらいけないのか。
だから神社ではみんなが驚いていたし、西の館の三郎様はすぐお屋敷に移るように言ったんだ。
「わかりました。でもあたしの世界では、みんな普通に外を歩いていますよ」
「それは......月の国の......習わしかと存じますれど......こちらでは......そういうわけには......参りません......高貴な方々は......几帳や御簾越しに......万が一......隔てがなくても......扇は翳して......お話くださりませ......声も......そのように......早口ではなく......小さな声で......口数少なく......なさりますよう」
うわっ、めんどくさい、なんてゆっくり話すんだろう。
この侍女頭様は、歩くのだけじゃなくて、話しもゆっくりなのね。
それがマナーなんだろうか。
昨日神官の巽様に普通の話方で『顔を見て話してください』なんて、言っちゃたんですけど。
どうりで巽様はびっくりしたような顔をしていたのね。
「でも、すずちゃんとは普通に話しているんですけど、それは良いんですか?」
「すずは......野良育ちで......こちらに来て......まだ日が浅いため......侍女としての行いが......身について......おりませぬ。
かような......振る舞いは......田舎者と侮られる......元となるゆえ......重々心得よと......毎日教え諭して......おるのですが......なかなか......身につかず......姫様には......無礼の段......お許し......くださりませ」
なるほど、あたしの振る舞いは、お姫様にはあるまじきものなんですね。
でもあたしはすずちゃんの方が話しやすいし、本当のお姫様でもないから侍女頭様の言う通りにはしないと思う。
そんなふうに小さな声でゆっくりと話していたら、何を聞こうとしていたんだか、何を話されているんだかもわからなくなってしまいそうだ。
台所からすずちゃんが戻って来ると、侍女頭はまたすずちゃんに注意を与えてから、あたしに深々と一礼して静かに部屋を出て行った。
その後は、あたしは普通の声ですずちゃんに月の国(今の日本)の話をたくさんした。
すずちゃんは目をキラキラさせて、時々嬉しそうにハァハァ息をはずませながら熱心に話を聞いていた。
う~ん、月の国についての誤った知識をたくさん与えてしまったかもしれないけれど、どうせあと少ししたら大神官様が戻ってこられて、すべて元通りになったら、きっとすぐに忘れてしまうよね。
......そうに違いない......。
侍女頭様はとても礼儀に厳しくて、何とかがさつなすずちゃんを申し分のない侍女に育てたいと思っているのです。