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義理の妹  作者: m8eht
3/3

第三話 「感情の宛先」

「ねえ、お母さんっ! ちょっといーい?」

「だーめ」

「もー、なんでよ! めっちゃヒマそーじゃんっ!」

「こう見えて、忙しいの」

「う、そ! ね、ちょっと聞いてよ」

 一面ガラス張りの引き戸の向こうには、過剰なくらい夏の日差しの降り注ぐ庭があった。あふれるような光のせいで、その風景からはところどころ色がとんでいた。でも、ガラス板一枚隔てた居間はとても涼しい。静かに、でも絶え間なく続く空調の稼働音。私はそれを聞きながら、ソファでうとうとと微睡まどろんでいた。娘には、そんな私がとてもヒマそうに見えたらしい。私の隣に座って体をくっつける。そしてスマホの画面を私に見せた。

「あたしね、志望校決めたよ! ほら、ここ!」

 スマホの画面がぼやけて見えて、いつまで経っても焦点が合わない。じっと画面を見たまま何も言わない私に焦れて、娘は――紫乃は身じろぎをする。やっと焦点のあった学校名を見て、それが遠い都市まちの大学であることに気づく。

「……ここって東京にある大学じゃないの」

「そ! あたし、東京に行きたい!」

 得意そうに胸を張る紫乃。でも、その大学の偏差値は胸を張れるほど高くない。

「ね、いいでしょ?」

「だめよ」

「ええ、なんでっ!? ね、いいでしょ!?」

「だーめ」

「ああもうっ! なんでっ!?」

 紫乃が笑う。私がだめだと言うのはいつもの冗談だと思っている。

「ほら、だってさ! 一度くらい東京で暮らしてみたいじゃんかっ! ね!? 行ってみたいのっ!!」

「大学は遊びに行くところじゃないのよ?」

「ちゃんとする! 勉強もちゃんとするからぁっ! ねえっ!?」

 ふと視線を落とした先にあるテーブル。昔はこのテーブルがなくて、ここに幾重にもカーペットを敷いて、その真ん中に紫乃は眠っていた。くちびるをよだれで光らせて、何の心配事もなさそうに、肉の余った四肢を太平楽に投げ出して。そんな娘が今、ソファに座る私にぴったりと寄り添っている。陸上部の短距離走で鍛えたたくましい太ももをさらして、豊かな胸が部屋着のキャミソールを押し上げて、うっすらと汗ばんだ肌に若い女性のにおいをにじませて。女という性に生まれついた娘の身体からだ。それが今の私には、どこか厭わしく感じる。

「お母さんだって、たまにあたしのところに遊びにくればいいじゃんかっ! お父さんといっしょにさ! 東京デートってどーよ!? あたしがいろいろ案内してあげる! ほら、これとか……」

 紫乃がスマホの画面をスワイプすると、東京に新しくできた観光名所の画像が出てきた。お気楽な未来を、媚びるような笑顔で話す紫乃。この見え透いた演技をそのままに受け取ってあげれば、何も壊れずにすむのかもしれない。でも、娘が隠したがっている本音を、私は引きずり出してみたくなった。

「どのあたりに住むつもりなの? 大学の近く?」

「そうそう! やっぱり大学に近い方がいいもんねっ!」

「じゃあ、碧衣ちゃんの家の近くね」

「そーなの! 時々ね、遊びに行こうかなって! 碧衣ちゃん、東京暮らし、長いもんね!」

「ご迷惑じゃないかしら?」

「そんなことないよっ! だって、いつでも遊びにおいでって言ってくれたもんっ!」

 自信満々の紫乃。そしてとても浮かれている。私の娘だけど、こういうところは不安になる。演技をするならもっとうまくやらないと、と思ってしまう。

「ねえ、紫乃」

「なーに?」

「お母さんね、紫乃には普通に男の子を好きになって欲しかったの」

 小さく、息をのむ音が聞こえた。咽喉に何かが引っ掛かったときのような、突然だれかに冷たい手で触れられたときのような。

「な、なん、なんで……」

 声を上ずらせ、紫乃は怯えた視線を私に向けた。何を、どこまで。そんな問いかけが、瞳の中に揺れている。私の言葉の刃が、紫乃の心の一番奥まで通った。かすかな快感のしびれ。健康優良児そのものな娘が、虚弱を絵にかいたような私に怯えて、それが私の嗜虐心を満たしていく。

「ち、ちがうよ……ちがう……」

 紫乃の手から滑り落ちたスマートフォンが、その逞しい太ももの上ではねて、夏用の薄いカーペットの上に転がった。

「あ……」

 立ち上がってあとずさりして、紫乃は身の置き場を探して居間から出ていった。廊下の奥から階段を上る音が聞こえて、私はその音が止むまでその方を見ていた。

「はぁ……」

 開けっ放しの扉を閉めてから、娘の落としたスマホを拾う。スワイプしながら、娘が私に見せようとしていた未来をもう少しだけ眺めてみる。平凡で月並みな、東京観光の話。母親としては、娘の努力をいじらしく思ってあげなきゃいけないけれど。でも、もう少し頭が良かったらなあとも思ってしまう。紫乃は誰に似たんだろう? 夫も私もそれなりの大学を出て、それなりにやってるはずなのに。それでも娘は、私たちが最後まで持てなかったものを持っている。こんなふうに、自分の欲しいものに素直に手を伸ばして、それを手に入れようとする無邪気さとか。

 なんだか疲れていた。体を深くソファに沈みこませる。

『PM02:48』

 ふと見れば鈍い銀色のデジタル時計がどこかで見たような時刻を表示している。0が2になって、2が4になって8になって、そして……56、57、58、59……ゼロになる。そんな数字遊び。意味のない数字の羅列。

 目をつむる。まぶたの裏で、あの日の碧衣ちゃんが私におずおずと微笑んでいた。

 そうだった。碧衣ちゃんも昔はそうだった。今なら分かる。あれは無邪気さだった。漠然とした期待に身をさらして、私が妄想で残りの半分を埋めた。調子に乗って睦言を繰り返す私との閨の中で、碧衣ちゃんは大人になったんだと思った。

 碧衣ちゃんは自分でも意識していなかっただろう。ほんのかすかな、本当にかすかな棘。肌をさらして、肌を合わせたときにだけ、本当にかすかに感じることのできる棘。碧衣ちゃんの、棘。

 溺れるたびに、深く溺れていくたびに、かえってふと我に返る瞬間があったんだろうと思う。これは裏切りなんだと頭だけで理解していたことが、次第に身体からだでも理解わかるようになったとき、碧衣ちゃんの心に怯えが生まれたんだと思う。それはやがて恐怖になって、碧衣ちゃんの心に重くのしかかった。少しでも楽になろうとして、碧衣ちゃんは自分で自分を刺したんだと思った。

 碧衣ちゃんは自分が許せなかった。自分が兄を裏切っているということが許せなかった。そのことで自分自身を責めて、痛めつけた。そして碧衣ちゃんは最後まで、自分では気付かなかっただろう。その棘は私にも向けられていた。私が夫を裏切っていたから。碧衣ちゃんが自分の心に刺した棘は、肌と肌で触れ合うとき、たしかに私にも刺さった。

 きっと碧衣ちゃんには、私が夫のことを忘れているように見えてたのかもしれない。生真面目な碧衣ちゃん……。

 紫乃が小学校に上がる前に、家族で行った東京旅行。久しぶりに会った碧衣ちゃん。彼女の笑顔。私は彼女の中にあるものを読み取れなくて、また義理の姉として笑顔を返した。私たちの関係は、もういちばん大切な部分が壊れている。そんな印象を持った。義理の妹が赤の他人よりも遠い感じがして、それが私を傷つけた。でも碧衣ちゃんは紫乃に優しかった。それが私の救いになった。

 壊れてしまったのは、私のせい? 私が「大人」として振舞えばよかったの? でも私は「大人」じゃない。「一ノ瀬桃華」だから。結婚して名字が変わったけど、とにかくこれが私の名前だから。私だって一人の人間で、年下の義理の妹に求められたのがうれしくて、その気になって肌を合わせただけ。それの何が悪いの? それが分からない。私と碧衣ちゃんの関係は最後まで二人の秘密だった。だから誰も私たちを裁けない。それなのに……。

 過去を振りほどこうとするとき、碧衣ちゃんは苦しかったかな? 少しでもつらいと思ってくれたかな? 私は特に苦しまなかった。碧衣ちゃんに置いていかれて、ぼんやりしてしまっただけ。過去を振りほどこうとするとき、人はどんなことを考えるんだろう? 碧衣ちゃんはどんなことを考えたんだろう? 今、碧衣ちゃんは紫乃を求めている。紫乃なのは、どうして? 天真爛漫なところが気に入ったの? 抱きしめて抱きしめられたとき、安心できたの? それとも……私の面影を追いかけてくれたの?


 いつの間にか外の日差しが和らいでいた。照らされる庭の草木に、かすかにオレンジの色味が加えられている。重い身体からだをひきずって夕飯の支度にとりかかる。空調の効いた部屋に慣れた身体は、季節の移ろいや日の傾きに疎くなっている。でも、いまさらどうすることもできない。

 のろのろと野菜を切り刻む。やっぱり高価たかい包丁を買っておいてよかった。こんなとき薄暗い台所で肩を震わせながら野菜を切ってるなんて、みじめだから。

 ふわっ、と。

 気配がした。紫乃の……娘の静かな足音。そっと階段を下りてくる。そろそろと居間の扉が開かれても、私はその方を見る気になれない。なんだか疲れている。これから何が起こるのかなんとなく分かったけれど、その幕を自分から開ける力はなかった。

 頬のあたりに紫乃の視線を感じる。じっと私の様子をうかがって、話しかけるタイミングを計っている。意を決して、歩み寄ってくる。それでもどこかおもねるような足運び。そうして紫乃は私を背中から抱きしめた。部活動で鍛えられた筋肉質な紫乃が、虚弱体質の私を包み込んでいる。私がこの子の母親なんて、にわかには信じられない気もする。

「ねえ、お母さぁん……」

 甘えた声を出す。私が怒っているわけではないと思っている。これから自分の気持ちをちゃんと話せば、私がそれに納得してくれると信じている。

「お母さんはさ……あたしの味方になってくれなきゃ、ダメじゃんっ……」

 あんなひどいことを言われた後にも、この子はこんなことを言う。こんな甘ったれの甘えん坊さんに育ったのはどうしてなんだろう? それは私がとことん甘やかしたから。だからこの子は、私がいつまでも味方でいると信じている。

 そんな娘は、私の背中越しに、告白をした。


 ねえ、お母さぁん……碧衣ちゃんはね、あたしの運命の人なんだよ? 本当だよ? だってね、ときどき、声が聞こえるんだぁ。その声はね、碧衣ちゃん好き、碧衣ちゃん好きって言ってるんだよ。それでね、よおく聞いてみたら、それってね、自分の声なんだ。あたしの声なんだよ? きっと、心の底のいちばん深いところにいるあたしが、本当に好きな人の名前を教えてくれてるんだよ? ねえ、そうだよね?

 それでね、最近、夢を見たの。居間の……そこのところね、窓のところ。そこにね、光を背負って、誰かが立ってるんだ。初めは誰かわかんないけど、でもね、よく見ると、あたしのよく知ってる人な気がしてくるんだ。そしたらだんだんはっきり見えてきて……そうだよ、それが碧衣ちゃんなんだよ。碧衣ちゃんが――笑わないでね?――はだか、でね、裸で立ってるの。綺麗で、うっとりして、あたし、見惚れちゃうんだぁ。ずっと見ていたい気がするんだぁ。綺麗だから。女神さまみたいだから。あたしの知ってる碧衣ちゃんじゃないような気がするけど、でも、碧衣ちゃんなんだよ? あたし、その夢を見て、起きたらね、泣いてたの。だって泣き出したいくらいに素敵だったから。うまく言葉で言えないよ。

 だからあたし、自分の気持ちを確かめて、碧衣ちゃんに告白したの。夢で見たことも話したんだ。碧衣ちゃんは何も言わなかったけど、でもわかったんだ。碧衣ちゃんはあたしを受け入れてくれたんだよ。それが……わかったんだよ。それでね、碧衣ちゃんに抱きしめられたとき、なんだか懐かしくなって、あたし、泣いちゃったんだぁ……。

 ねえ、お母さぁん。あたし、変だよね? でもね、自分の気持ちに嘘つきたくないよぉ……ねえ……。


 この子はどうして、こんなにあけすけに自分の心にあるものを話してしまうんだろう? それは私がそう育てたから。この子が物心つくころに、私の友だちになってくれるように。だから娘は私を友だちだと思っている。だから私には何でも話すし、最後には自分のやりたいことを応援してくれると信じている。自分の気持ちを肯定してくれると信じている。だから私には……否定できない。

 私を後ろから抱きしめる紫乃の腕を撫でる。紫乃の腕から力が抜けて、私は紫乃の方を向いた。涙と鼻水と、それによだれも少し。でも表情から張り詰めたものが抜けてない。強く……まっすぐな気持ち。それが私の目の前にあった。

「ごめんね、紫乃」

 娘の頬に残る涙のあとを指で拭う。

「お母さん、応援するよ」

 そう言って微笑んでみせた。

「ありがとぉ……お母さぁん……」

 甘えたいときの甘えん坊の顔になって、娘は私を抱きしめた。この子はいつの間にか、こんなに大きくなった。昔は私の胸に抱かれていたのに。私を抱きしめた娘の身体。この肉感的で躍動するもの。この力強さはどこから来たんだろう?

 それにしても顔がぐちゃぐちゃ。ティッシュまで手が届かないから、キッチンペーパーを一枚切り取って。

「せっかくのカワイイお顔がブチャイクちゃんになってるぞぉ? こんなんじゃ碧衣ちゃんにキラワレちゃう!」

「もぉ、お母さぁん……」

 鼻をかませる。鼻水が透明な糸を引くから、私はキッチンペーパーを折りたたんで念入りに紫乃の鼻を拭く。なぜか赤子のころの紫乃を思い出している。

 娘が私の顔を見つめている。まだ何か言いたげ。でも、何も言わなかった。その代わりにもう一度、私を抱きしめた。

「ん~……」

 ギュッと力を込める。何か言葉にならない気持ちを伝えようとして。それが何なのか、私には分からない。でも暑苦しいほどに伝わってくる。そしてぱっと娘の身体が離れた。

「じゃっ、お母さんっ! あたし、お勉強がんばるからねっ! いくぞ東京っ! オー!!」

 あざといガッツポーズ。こういうところは夫にも私にも似ていない。どたどたと駆け出して、やがて階段を上がる弾んだ足音が家に響いた。

 私は一人、取り残される。

 夕飯の献立は手が覚えていた。いつの間にか温めなおせばいいだけになったそれらを放置して、私はまた居間のソファに深く座ってぐったりする。

 身体が、重い。


 陸上の大会が東京で開かれたとき、紫乃は応援に来た碧衣ちゃんに会った。直接のきっかけはたぶんそれ。その一ヶ月後に紫乃は東京へ一人旅をした。陸上で頑張ったご褒美にアイドルのコンサートに行きたい、そういう口実で。夫からお小遣いをせしめて、「碧衣ちゃんのウチに泊まるから大丈夫だよ!」とか言って丸め込んでいた。そして紫乃は東京へと行き、碧衣ちゃんのうちに泊まった。そこで二人がどんな思い出を重ねたのか、私は知らない。知らないけれど、分かる。分かってしまう。二人の関係の変化が。二人の、息遣いが。

 帰ってきた紫乃に見て取れたのは、特別な誰かのために女の子がそなえる色々なもの。紫乃のことだからきっとそれは無意識だったろう、仕草の一つ一つにも、ここにはいない人を意識した媚態が含まれている。それはどうして? そんなことは考えるまでもないこと。ともすれば浮かれがちになる紫乃。その心のひだまで、私にはよく読み取れた。紫乃の気持ちは私にとって単純明快で、読むのに苦労はしない。その時々の在りようも流れも、手に取るように分かった。

 でも紫乃の気持ちは……紫乃の気持ちは私には変えられないものだった。単純明快で……だから猪突猛進で。もし私が紫乃を本気でからめとって、碧衣ちゃんへの想いを行動に移さないように仕掛けたら。もしかしたらそれは成功するのかもしれない。でも、自分の娘にそれをしたら、私はもう母親ではいられなくなる。だから私は紫乃を見守っていただけ。

 ねえ、碧衣ちゃん。紫乃を落とすのに、どんな手管てくだを使ったの? 例えば……そう、高級そうなレストランに連れて行ったりしたの? 大人の魅力でからめとって、悪い子。そういうことで気を引くんだぁ。でも、ちょっと年齢が離れすぎじゃないかなぁ? 十六歳ちがうんでしょう? いま、紫乃が十八歳で、碧衣ちゃんが三十四歳。紫乃が二十四歳になるころには碧衣ちゃん、四十歳じゃないの。大丈夫? だいじょうぶかなぁ~……なんてね。

「あ~あ……」

 高学歴で仕事ができて、順調にキャリアを重ねるけれど、生涯を共にしてくれる誰かを持たない碧衣ちゃんが、私の娘をさらっていこうとしている。碧衣ちゃん、これで満足? 私を捨てて、私から紫乃を奪って。私が碧衣ちゃんになら全てを差し出してもいいと思ったのは、碧衣ちゃんがこれからずっと私のそばにいてくれると思ったからなのよ? ねえ、これでいいの? 本当にこれで満足? 碧衣ちゃん、ひどいなぁ……。

 ぼんやり、と。

 視界がぼやけていく。私は罰を受けたんだ。碧衣ちゃんに恋をした罰を。ふたりの人間が結ばれてしあわせになるためには「ふたりでいて、しあわせであること」だけでは足りなかった。その関係が道義的に正しくなければいけなかった。そうでないなら、道徳はみずから復讐する。そんな冷たくて乾いた道理を飲み込まないといけない。私の手をすり抜けていった碧衣ちゃん。私から巣立とうとしている紫乃。私の中にはもう、彼女たちを強く引き止める何かが残っていない。熱を持った何かが、もう無い。こんなに頑張ったのに、私には何も残らない。いま笑ったら、泣いてしまいそう。自己憐憫の杖にすがりついて、何とか自分を支えないといけない。

 一瞬、世界から音が消える。

 そしてふと、思い出す。そういえばあのスケッチブック。あれはどこにいったんだろう? もう覚えてない。捨てたかもしれないし、探せばまだあるのかもしれない。でも探そうとは思わない。

 あの後……碧衣ちゃんが私の人生からいなくなった後、私は描いた。喪失感を埋めたくて、描いた。悲劇の芸術家を気取って、一枚の紙の上に私と一緒にいてくれる私だけの碧衣ちゃんを描こうとして。恋しいよう、今も好きなんだよう。そんな想いを形にしたくて。でも、私が紙の上に擦り付けた黒鉛の粉はそれらしい模様になるだけで、ぜんぜん碧衣ちゃんに似てこない。いつまで経っても色が乗せられなくて、紫乃が泣いて呼ぶたびに集中は途切れて、心の端にかかる家事のもろもろが私の時間を細切れにしていって。私の性格がマルチタスクに向いてない。目の前の白い紙が憎らしくて、斜線を叩きつけてページを繰るたびに孤独が深まって、悲劇の芸術家気取りにも疲れてしまって。

 そんなある日、私は鉛筆を投げ捨てて、スケッチブックを閉じた。そして紫乃を抱き上げて、抱きしめた。このときから、私の創作はつくるものから育てるものへと変わった。もう自分だけの何かなんて探す必要がなかった。母として、妻として、当たり前の毎日が私のすべてになった。

 私の名前は桃華。桃色の華。でも私は色あせてしまった。干からびてしまった。枯れてしまった。さびしい。私は独りぼっち。でも何を後悔すればいいのか分からない。どこから後悔すればいいのか……分からない。


 居間の明かりをつけた。たそがれの光の中で輪郭だけだった家の中のものが照らし出される。その色も輪郭もはっきり見えるようになる。それなのにどうしてだか、急に家の中が味気なくなってしまったように感じる。

 じっと待つ。待つのが私の仕事。夕飯の時間になっても紫乃は下りてこない。きっと久しぶりに真面目に取り組む勉強に夢中になっている、といったところ。誰しも初めはそんなもの。これが入試まで続くといいけれど。あの紫乃に勉強する気を起こさせるんだから、碧衣ちゃんは世界の偉人たちと比べても遜色ないと思う。

 かすかに振動する空気に、私は夫が帰ってきたことを知る。車をバックで駐車して……玄関前の階段を上って……夫に合わせて私はソファから台所に移動する。クッキングヒーターの電源を入れて、操作して。電子音ととともにプレートが赤く光って加熱が始まったことを示す。

「おかえりなさい」

「ん」

 夫とのこのやりとりはもう何千回目だろう? いつもは気にも留めないことに、今日はやけにこだわってしまう。

「紫乃は?」

「お部屋でお勉強」

 夫の定型文にいつもと違う返事をする私。

「もう受験生だもの」

「ああ、そうか」

「紫乃ね、東京の大学に行きたいんだって」

「ほお、東大か」

「ううん、私立」

「ああ、慶欧か?」

 高三の夏休みに志望校を決めるようなお気楽な子がそんなところ目指すわけないんだけど……。そう思いながら、私は紫乃の志望校の名前を告げる。

「ふうん。そんな大学があるのか」

 馬鹿にしているのでもなく、皮肉を言ってるわけでもない。夫は紫乃にとても甘い。だから、夫にとって紫乃がどの大学に行こうと関係ない。ただ4年間延長されたモラトリアムを楽しく過ごせばそれでいいと思っている。そしていつか、自分のやりたいことと一緒にいたい人を見つけて生きていくだろうと思っている。それが夫にとっての『普通』だから。

 この人は紫乃が私たちを永遠に見捨てようとしていることに気が付いていない。あの子はこれからも時々、私たちのところに戻ってくることはあるかもしれない。でもそれは帰っていくため。碧衣ちゃんのもとへ。こんなことなら、もう一人生んでおけばよかった。もっと手のかかる、私に『今』を意識させないくらい愛憎の対象になるような子を。

 夫がお風呂に行っている間に私は夕飯を温めなおす。お風呂から上がった夫は定位置に座ってテレビをつける。私は夫の分の夕飯を運んだ。それから自分の分も。夫婦は一緒に食事をとるものだから。

 夕飯を食べる夫を見ながら思う。私たちは成功だったの? それとも失敗? 碧衣ちゃんに捨てられた私。紫乃に捨てられた私たち。これから私たちは誰のために生きればいいの? 夫の横顔はそんなこと考えたこともなさそう。テレビ画面に映し出される、私たちとは何の関係もない人たちが笑ってはしゃぐのを眺めている。

 誰か私の味方になってほしい。どうして神様はこんな世界に私たちを産み落としたんだろう? すり減って、すり切れて。そんな気持ちを持て余しながら、あと何年生きるんだろう? 私にはもっと別な道が欲しかった。でも、これ以外の道と言われても、いまいちピンと来ない。自分の欲しいものが……分からない。私の人生にも、ちゃんと誰かを愛して、誰かに愛された、そんな瞬間があった。その思い出を胸に抱いて、後は老いていくだけ? そんなことを考えながら、ご飯を口に運ぶ。

「なあ」

「ん~?」

「紫乃が大学に行ったら、ふたりでのんびりと温泉旅行にでも行ってみないか」

 夫は私を見ないでそう言った。目が少し泳いでいる。そんな横顔を見て思う。あら、照れている? この人は照れている。珍しいこともあるもの。夫の言葉は私に向けられたものではないけれど、でもたしかに妻への気遣いを感じるものだった。

「そうねえ」

 だから私は笑ってみせる。夫にとって夫婦とは。子供が巣立った後は、二人で温泉旅行にでも行ってしみじみするもの。夫にとって夫婦とは。自分の頭の中にあるイメージで、今、目の前にいる私とは何の関係もないもの。だから私は妻を演じる。そうしないと夫は、仕事とは関係のないところで人生とぶつかって、その壁を乗り越えられずに詰んでしまうから。夫の人生の難易度をイージーに維持する。それが私の……妻の仕事。

 照れ隠しなのか習慣なのか、夫はテレビの画面から目を離さない。夫は満ち足りている、ように見える。私が笑ってみせるたびに、夫は私をしあわせにできたと信じて、銀行の預金残高が増えるたびに、私を安心させることができたと信じて、ときどき体を鍛えて体形を維持すれば、妻は自分に惹かれたままでいると思い込んで。マヌケな私の相棒にふさわしいマヌケっぷり。今なら少しだけ、夫のことを愛せるかもしれない。そう思って心の中で苦笑いする。

 そう、もしかしたら私だって、夫の提供する「空調の効いた部屋でぼんやりソファーに座っていられる生活」に満足してたかもしれない。「後ろめたさ」で充電しながら、そういう生活に馴染んでいられるように『妻』を演じきったのかもしれない。どこまでも気持ちがつながらない私たち。それなのにずっと、夫婦では在りえた。

「紫乃はいい子に育ったよ」

 テレビの音にかき消されるように、口の中でそっとつぶやく。私たちにとって、本当にそれだけが救いで――。


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