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義理の妹  作者: m8eht
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第二話 「四季の記憶」

〇 春


 初めての交わり。それは私が妄想してたのより、ずっとよかった。すれ違ったり、思わせぶりだったり、あと一言がいえなかったり。そんなふうにたどたどしく、私たちは歩み寄って、そして初めて、私はあなたに触れた。かさねた手の安心感、くちびるの柔らかさ、きめ細やかな碧衣ちゃんの肌はどこまでも触り心地が良くて。ひんやりと、やがて温かく、私を包んだ。気持ちよくて、心地よかった。

 春のおだやかな日差しが、カーテンを閉め切った部屋をほんのりと明るくあたためる。私と碧衣ちゃんは生まれたままの姿で肌を合わせていた。お互いの体温と気持ちを分け合って、ふと見つめ合って微笑んで。

「……わたし、軽蔑されると思ってました」

 目じりを赤く染めて、碧衣ちゃんは言った。

「どうして? 碧衣ちゃん、こんなにかわいいのに」

 碧衣ちゃんの身体に触れていると、ほっとする。私の体温で、碧衣ちゃんの澄ました顔が、ひんやりした肌が、温められて溶けていくみたい。それが好き。こんな私にもできることがある。それが素直にうれしい。

 あのとき、紫乃のちっちゃい手が触れた場所に、今度は私の手が触れた。

「ん……」

 碧衣ちゃんの表情の変化。かわいい。揺れる瞳が私を映している。これ、好き。ねえ、私は? 私はどんな顔してる? 碧衣ちゃんの目に私がどう映っているのか知りたい。でも知りようがない。だからまた口づけをねだる。

 ソファの上で身体を寄せ合って、碧衣ちゃんを感じて。碧衣ちゃんの胸に抱かれて、うっとりして。そしてふと……夫とのことを思い出した。

 夫が私を求めて、私がその筋肉質な身体に抱きしめられるとき、私は安心よりは怯えを感じた。夫は学生時代には陸上で鍛えて、今でも週末にスポーツジムに通っている。仕事を円滑にこなすには身体づくりだって大切なことかもしれない。でも、その鍛えられた身体は、私にはなぜか怖く感じる。

 夫はとても真面目な人。自制心が感情を抑えていて、だからいつも難しい顔をしている。でもそんな夫が、するときにはおもむろに私の胸に触れるのは、なかなか気の利いたジョークだと思う。でもそのときの夫の顔を見ていると、笑ってしまうのは悪いような気がする。本当に真面目な顔をしているから。きょうだいだけあって、こういうことをするときの碧衣ちゃんは夫に似ていた。でも、おそるおそる一生懸命に、私の身体に触れる碧衣ちゃんのことは、ただただ愛おしかった。何が違うんだろう?

「義姉さん?」

「あ、ううん! なんでもない」

 碧衣ちゃんといるときに夫とのことを思い出す。いちばんいいときに、ふと気がそれる。碧衣ちゃんに夢中なようでいて、どこか夢中になれてない? そんなことない。そう思って、もう一度、碧衣ちゃんの胸に頬をよせる。頭の中のことより、このからだが感じているものの方が強い。そうあってほしいと願いながら。

 碧衣ちゃんの胸に触れる頬に、ひたひたと碧衣ちゃんの体温がつたわってきて、とくとくと打つ鼓動を聞くような気がする。安心して、安心できて、守られてるって、そんな感じがする。

「ねえ、碧衣ちゃん」

 また碧衣ちゃんと向き合って、そのひとみを覗き込んだ。

「好き」

「えっ?」

「碧衣ちゃん……好き」

 どうしてそんなことを?って照れながら困ってる碧衣ちゃんが可愛くて。だから何度も何度も言いたくなる。もっと碧衣ちゃんのそういう顔が見たいから……。

「わ、わたしも……義姉さんの、桃華さんのこと……」

 碧衣ちゃんが私に、私と同じ気持ちを返そうとして……。

『好き』

 夫に、そう言ってみたことがある。好き、って。私たちは結婚したんだから。夫婦なんだから。私の言葉を、夫はいぶかしげに受け流した。そんなこといちいち言わなくていい、分かり切ったこと、とでも言いたげ。そして私に同じ気持ちを返す言葉を省略した。言わなくても分かれ、ということ。私は取り残された気がした。この家が自分の居場所じゃないような、そんな気がした。

 でも……。いま、目の前にいる碧衣ちゃんを見る。この子なら、受け止めてくれる。私の気持ちを。そして返してくれる。私と同じ気持ちを。

「碧衣ちゃん、好き」

「わたしも桃華さんのこと……んんっ! ん、しゅき、です……」

「碧衣ちゃん、好き……好き……好き……」

 ねえ、碧衣ちゃん。私は睦言であなたをくすぐりたい。自分の気持ちを、素直に言葉にしたい。自分の気持ちをこんなふうに言葉にすることができて、私はしあわせ。相手に伝えて、反応があって、同じ気持ちが返される。夫婦なら当たり前だと思っていた、まだ子どもだったころに。私はそう信じていた。現実はそれとは違ったけれど、でも今、私はやっと巡り合えた。私の告白に、同じ気持ちを返してくれる人を。

 義妹が私を見ている。何を見ているの? 私の中に何かあると思ってる? 自分をしあわせにする何かが。いいよ? 手を伸ばして! 私は自分のすべてをあなたに差し出していい。そんなふうに思えるし、そんなふうの思えたのは初めて。でもそれはあなたを本当にしあわせにする? わからないけれど、それでもあなたが手を伸ばすなら! 私はなんなりとそれを差し出す。あなたが求めるなら、私のすべてをあなたにあげる!

「桃華、さん……」

「碧衣ちゃん……」

 ああ、溺れるだろうって思った。このままどこまでもどこまでも溺れていくんだって、そんな予感があった。溺れる、溺れたい。私は、あなたに。一ノ瀬碧衣という名前を持つ、一人の女性に。

 はずむ息と、熱い身体。すこし汗ばんでしまったけれど、今はそれも心地いい。息をととのえながら、ふと碧衣ちゃんの視線がカーペットの方に向かう。ふんわりと厚く重ねたおふとんの上。そこにどでんと横になって、紫乃は眠っている。まるで将来、すっごい大物にでもなりそうなご様子で。そんな紫乃を見て、碧衣ちゃんが微笑む。かわいいですね。その微笑みでそう伝えてくれる。私は……恥ずかしい。なんでだか……少し恥ずかしい。照れ隠しに、私は碧衣ちゃんを見つめて。そして私たちは見つめ合って。

「碧衣ちゃん……」

「桃華さん……」

 紫乃のすぐそばのソファ。私たちはまた、くちづけをした。


〇 夏


 厚手のカーテンを閉めていても、夏の日差しの気配は部屋の中に忍び込んでくる。その白いカーテンの前には夏の女神さまが立っていた。もとい、はだかの碧衣ちゃんが立っていた。手を後ろで組んですっと立つ碧衣ちゃん。前を隠さない、そのいさぎよい姿は淫猥さとは程遠い。でも私の目を通せば、やっぱり淫猥で。

 私はというと、碧衣ちゃんから少し離れた場所で木製の丸椅子に座っている。手には鉛筆と、それからスケッチブック。

 どうしてこうゆうことになってるかというと……。

 その日の朝、私は居間の本棚の一番下に差し込まれたままになっていたスケッチブックを見つけた。それは結婚してから、絵を描くのを趣味にしようと思い立って買ったスケッチブック。そういえばずいぶんご無沙汰だった……そんな思いでなんとなく開いてみる。

 初めの数ページは密度というか気合の量というか、そもそも黒鉛の濃さまで濃いような勢いで、いろいろなものがスケッチされている。それらはほとんど静物で。食材や家具の皆様にお相手をしていただいていたボッチなアテクシ。ぱらぱらとめくった先、白いページになる。その一歩手前、最後に私の鉛筆が入ったページにあったのは、丁寧に引かれた一本の曲線。それは眠る紫乃の頬をなぞったもの。

 どうしてこのページで、この線を描いただけで終わっているのか。私はこのスケッチブックを最後に閉じたときの気持ちを思い出して「うわぁ……」って笑いがこみあげる。

 そうだった、ここで終わっているのは恥ずかしくなったから。なぜか急に、趣味で絵を描いている自分が恥ずかしくなったから。眠る一人娘の顔を描こうと鉛筆を手に取った私。いや、何をやってるの、どうしたの、芸術家でもないくせに。昔ちょっと部活動でやってただけのくせに。自分でもよく分からないけれど、なぜか自分をののしりたい気持ちになって、ともかく私の絵はそこで終わっていた。

 今度はその最後のページから表紙に向かってページを繰る。それぞれの絵を描いているとき、自分のこらした工夫のことを思い出す。それは少しでも絵をかじった人なら誰もが一度は試しただろうという程度のもので、もしかしたら工夫と呼ぶようなものではないのかもしれない。でも当時の私は、自分でそれを見つけた気になって得意になっていた。こうして見てみると、けっきょく私の絵はものにはならなかったんだと思う。でも、そんな悪いものでもないような気もする。もっとちゃんと描けばよかったような気もしてくる。才能がどうとか、そんなこと考えもしないで。

 今日、私は久しぶりに絵を描こうとしている。スケッチブックの新しいページを開いて。真っ白な紙のざらついた表面は乾いていて、一瞬、途方に暮れる感じがした。でも、それでも私は果敢に鉛筆を運ぶ。私の視線の先には、あんなにも綺麗な子がはだかでいるから。生真面目な表情にも、その頬にはうすく朱が差しているから。

「ねえ、碧衣ちゃん。私の絵のモデルになってくれない? ほら、はだかになって?」

 そんな言葉を、軽い気持ちで言えた自分に驚く。

 よこしまな気持ちが無かったと言えば、それは明らかに嘘。でもそれ以上に描いてみたい気持ちがあって、私の心は弾んでいた。口数が少ないから、碧衣ちゃんはもしかしたら誤解されやすい子なのかもしれない。でも、一度でも彼女に触れたら、その中にある豊かなものに気づいて、そして驚く。そして好きになる。それが碧衣ちゃん。だから私は、こんなにもこの瞬間を楽しもうとしている。

 碧衣ちゃんはポーズを決めて、私から少し顔をそらすようにして立っている。

 このポーズに決まるまでも、ちょっと時間をかけている。私ははだかの碧衣ちゃんのそこかしこを眺めまわしながら、こんな感じかな? それともこんな感じ? とかなんとか、細かくポーズの指示を出していた。そっと触れるか触れないかの手つきで、敬虔な気持ちと、楽しみを少しでも先に延ばすのを楽しむ気持ちと、ちょうど半々?

 でも、碧衣ちゃんってホント真面目だよね~。これがキメ顔というもの? かわいいかわいい! やや青ざめて見える碧衣ちゃんの肌。私は、綺麗だと思う。鉛筆を手に取って私は描く。描こうとする。

 でも、碧衣ちゃんをうっとりと眺めながら筆を進めるうちに、私の中の「お絵かき職人」はあのときの気持ちを思い出している。自分で自分に見切りをつけた時の気持ちを。「や~めた」って鉛筆を投げ出したくなる。目の前に、自分には絶対に描き切れない光があって、こんなことしても意味ないじゃんって思いが拭いきれなくなる。その美しさに私の筆が届かないなら、それでも私が描こうとするのに意味はあるの?

 それにこのスケッチブック。私の碧衣ちゃんへの想いを書き込むには狭すぎる気がする。ううん、確かに狭い。描くならもっと大きく描きたいの! だからどんなに落ち着こうとしても、腕がけいれんしたみたいに、線を外側に飛ばしてしまいそうになる。

 そんな自分への見切りと自分の中の衝動とに「お絵かき職人」は惑乱して、けっきょく一番安易な道を選ぶ。下品な本性をさらけだして、まじまじと碧衣ちゃんを眺めまわし、「もういいや」って碧衣ちゃんに駆け寄るタイミングを窺いはじめている。

「……桃華さん? ちゃんと描いてますか?」

 いつのまにか緩んでいた頬を碧衣ちゃんに咎められる。

「ん~? んふふ、ちゃんと描いてるよぉ~? えへへぇ」

 ごまかせるはずもなく、私は碧衣ちゃんに呆れられる。

「もぉ、桃華さん……」

 年下の女の子に呆れられて、私はうれしかった。ちょっぴり不良になれた気がして。華やいだ気分になって。こんなに浮かれてはしゃいでるのなんて、いつ以来だろう?

「碧衣ちゃん、寒くない? 空調の温度、上げようか?」

「いえ、大丈夫です……」

「そうかなぁ~?」

 私は鉛筆とスケッチブックをソファの上に投げ出して、そそくさと碧衣ちゃんに駆け寄った。

「肌、冷たくなってない?」

 そんな口実で碧衣ちゃんを抱きしめる。若作りのつもりで着ていた真っ白なTシャツだけを隔てて、私は碧衣ちゃんを感じている。

「ほら、あっためてあげる……」

「桃華さん……」

 身じろぎをして、やんわりと拒まれるのが好き。私はもっと強く抱きしめる。楽しいね、ねえ、楽しいね、碧衣ちゃん! 私の人生にだって、もっとこんなふうに「今が楽しければいい」みたいな瞬間があってもよかったと思うの。途中で鉛筆を放り出した言い訳に、そんなことを思う。

「あ、桃華さん……」

「ん?」

 碧衣ちゃんの視線の先、紫乃が私たちを見ていた。不思議そうに、人差し指をくちびるにあてて物欲しそうに。

「ねえ、紫乃も碧衣ちゃんのが飲みたいのかな?」

 碧衣ちゃんの耳元にそんな言葉をささやいて。私の腕の中にあるのは、私の光。私を温めて、照らしてくれる。

「おいで」

 私は碧衣ちゃんをソファへと誘った。私の愛おしい碧衣ちゃん。碧衣ちゃんは私をしあわせにしてくれる。身も心も、満たしてくれる……。


〇 秋


 庭に面したガラス戸を開けると、ふわりと涼しい風が私のほおをなでた。ふと見上げた、たそがれどきの中空にのこる碧の色。私はそこに碧衣ちゃんの面影を重ねて、切なくなる。今度会えたとき、私は心をこめて言いたくなる。会いたかったよ……って。そのときのことを思うと、私の胸はあたたかくなる。

 あの日……碧衣ちゃんが一人でこの家を訪ねてきた日から、もう一年が経とうとしている。あの日から今日まで、会えないことを甘く悩んで、会えたらふたりで優しくなれる、そんな日々だったと思う。碧衣ちゃんが私の胸に身を投げるような日もあった。そんな日々に私は……一歩ごとに深みにはまっていって、いつか自分の足のつかない場所にきても、それでも臆せず前に進んで、そうして溺れていった。こんな気持ち、知らなかった。いつか息ができなくなるのに、それでもドキドキして、自分の気持ちに逆らえなくて、何も怖くなくて、いつか全部だめになってしまうかもしれないのに、この気持ちを捨てられなくて、抱きしめて愛おしんで、求めて望んだ。

 会いたいなぁ、碧衣ちゃんに会いたい。睦言をささやいて、おもいきり碧衣ちゃんに甘えたい。私はしあわせになりたい。そして碧衣ちゃんも、私でしあわせになってほしいな……。だって、私がこんなにも碧衣ちゃんが好きなように、碧衣ちゃんも私のことが好き、なんだから。

 紫乃と夫がいるから、私は気安く出歩けない。だから、私は待っている。平日の昼間に碧衣ちゃんが来てくれるのを。真面目な碧衣ちゃんが、目立たないくらいの間隔をあけて早退してくる日。私はそれを待っている。ときには一ヶ月くらい会えないこともある。でも、私はそれでもいい。碧衣ちゃんは必ず、私に会いに来てくれるから。

 月は、その冴えた光をゆっくりと夜空に溶かし始めていた。少し冷たくなった風が吹き込んで、ゆったりとカーテンが揺れる。空気じゃなく、なにか液体のようなものが、この濃紺の空間に満ちているような気がする。

 碧衣ちゃん、いまどこ? 会いたいよ。会いに来てね。待ってるよ。いつでも待ってるよ。今日は会えなかったけれど、でも想っているだけで私はしあわせだった。片想いしてるみたいなさみしさも好き。まるで私だけのアイドルを見つけたみたいな。手を伸ばしても届かないもどかしさがくすぐったい。私は碧衣ちゃんに恋をしている。まるであのころのように。いつも誰かに淡い想いを抱いては、ドキドキしたり、浮かれていたりしたあのころのように。私の心はいつも碧衣ちゃんを求めていて、だから私は時間の流れを愛せるようになったのかもしれない。そんなことを思う。

 おもての方から車の音がする。夫が帰ってきた。私はあわてて居間の明かりをつける。分厚く重ねたカーペットの上には紫乃が鎮座している。

「ほぉら、おいでぇ」

 紫乃を抱き上げて、そうして居間に入ってきた夫を迎える。

「おかえりなさい」

「ん」

「ほいほい、ほら、『おとーしゃん、おかいり~』って」

 夫は紫乃にも私にも見向きもせずにネクタイをゆるめた。そして、いつもならお風呂に行くところで、今日は背広のまま、どっかとソファに腰を下ろした。

「……」

 夫は何も言わない。人間社会という得体のしれない世界の殺伐とした空気が居間に流れ込んできて、夫の周りに漂っているよう。私は夫の前、カーペットの上に座った。きょときょとする紫乃をひざの上に座らせて。紫乃の甘ったるい体臭が堆積するこの部屋で、タバコやコーヒーやオフィスや街角のにおいが、夫と私とを隔てている。そんな一瞬の印象が、私の心を捉えた。

 夫はぼんやりしている。道草せずに帰ったけれど、でもまだ心の中に整理のつかないことがある、そんなふうに見える。夫はすぐそばにいる私たちを見ようとはしない。私はここにいてもいいの? そんなことを思う。でも、考えたって仕方ない。私の苦しみには痛みがない。実感もない。ただ私の中にあるだけ。でも、いい。碧衣ちゃんが私を見てくれるから。後ろめたさは便利。相手をゆるすきっかけになる。碧衣ちゃんが私にその力をくれる。

 ……と思ったら、夫の視線が私の身体をすっとなぞった。私が着ているのは薄紫色のセーター。碧衣ちゃんを誘惑したくて買った、身体の線が出やすい薄手のセーター。貧相な私だけど、こういう服を着たときにできる胸のあたりの陰影に若干の自信アリ。きょうだいだから? オンナの趣味もいっしょなの? 私は少し愉快な気分になる。そうして紫乃の方を見て、夫の視線に気づかなかったふりをした。

「あーう! あーい!」

 紫乃が私の腕の中であばれる。

「はいはい」

 私は紫乃をゆすってあやす。

「あーい! たんっ」

「ん?」

 紫乃のはしゃぐような声に違和感を覚える。何かを言おうと、してる? 誰かの名前を……呼ぼうとしてる?

「ああい、たん! ちゅきぃ……」

 心臓が跳ねた。でも私は笑顔を絶やさない。夫の様子もうかがわない。ただ自然に紫乃をゆする。

「碧衣ちゃん、好き? そうだよねえ、遊んでくれるもんねえ」

 そう言いながら、紫乃を夫の足にくっつけた。紫乃は夫の膝でつかまり立ちをする。私は紫乃の背中に手をあてがう。後ろにひっくり返ったりしないように。紫乃の小さな手が夫の太もものあたりにぺたぺたと触れる。ただ叩いているだけなのか、それともよじ登ろうとしているのか。夫は……別に嫌そうにはしない。表情も少し……柔らかくなったように見える。

 あら、と思う。

 夫が少しずつ、自分の娘を受け入れ始めているような、そんな雰囲気を感じた。

「おとーしゃんも好き~、だよね~?」

 思わず微笑んでしまった表情を夫に見られたくなくて、そのまま紫乃を抱き上げて夫の顔に抱きつかせた。今度は夫の顔をぺたぺたする紫乃。髪もぐしゃぐしゃにしてしまう。でも、夫は紫乃に逆らわない。紫乃を抱きとめて、そして抱いた。紫乃を抱いている夫。小さな紫乃の身体が、夫のがっしりした胸板と血管の浮いた筋張った手に抱かれている。紫乃は大人しくそこに納まっている。私はその光景に何か滑稽なものと……それから何かのきざしを感じた。よかった、と思った。この日を迎えることができたこと。碧衣ちゃんが私の心に余裕をくれたおかげ。碧衣ちゃんが私を守ってくれた。碧衣ちゃん、ありがとう。碧衣ちゃん……好き。

 その夜、夫は少し強引だった。私は夫を受け入れる。碧衣ちゃんによく似た匂いのする、夫の身体を……。


〇 冬


 外は曇り空でも、部屋の中は明るい。ガラス戸を隔てて北風の音を聞きながら、私はこの暖かい部屋に碧衣ちゃんを囲い込んでいる。

 碧衣ちゃんはリビングのテーブルでお勉強。受験生な碧衣ちゃん。だから最近は、毎日のように会えている。それがうれしい。もし碧衣ちゃんの邪魔にならないなら、私はずっと碧衣ちゃんの横顔を見ていたい。碧衣ちゃんの集中が私にも伝わって心を静かにできるから。自分が受験生だったころの冬のにおいや、それにまつわるいろいろなことを思い出すことができるから。

 私は紫乃をお腹をなでている。このソファの前の分厚いカーペットの上は紫乃さまの楽天地。いつもはこの冬用の長い毛の上を冒険する。最近のお気に入りは、立っちしてからクッション目掛けて尻もちをつくこと。その動作の滑稽さはよく碧衣ちゃんを笑わせる。けれど、碧衣ちゃんがお勉強しているときは不思議と大人しい。私がお腹をなでているうちに、いつの間にか眠りに落ちている。

 碧衣ちゃんの生真面目な表情を見る。お勉強をしている碧衣ちゃん。碧衣ちゃんのそんな姿を見ていると、私も何かやってみたくなる。碧衣ちゃんのために、何かしたくなる。それは碧衣ちゃんをもっとよく知ること。そして碧衣ちゃんともっと仲良くなること。題して『碧衣ちゃん学』。碧衣ちゃんがどこをを見ていようと、私は碧衣ちゃんのことを見つめている。それが私の仕事。そう信じられる。そして今も、私は碧衣ちゃんにおやつを出すタイミングをうかがっている。

 う~ん……今日の碧衣ちゃんはちょっと調子が悪そう。問題集に注がれている視線が、問題文をちゃんと捉えてないような、そんな感じがして。碧衣ちゃん、疲れてるのかな? それじゃあ、今日はココアにしようかな! そう決める。それも、うんと甘いやつ。

 碧衣ちゃんの手が止まって、吐息の音を聞いた気がした。私はそっと立ち上がる。

「ねえ、碧衣ちゃん。休憩にしない?」

「あ、はい……」

 碧衣ちゃんをソファにいざなって、私はおやつを用意する。ココアと……それからチョコレート。月並みだけど、たぶんこれがいちばん。ソファのサイドテーブルにお盆を置いて。碧衣ちゃんは温かいココアのカップを両手で持った。くちびるへの当たりのよさで選んだ職人技なカップ。味だけじゃなく感触まで楽しんでほしい。そうゆうコンセプト。

 コンポを操作して、音量控えめに音楽を流す。碧衣ちゃんがココアを口に含んだ。可愛く咽喉が鳴って、碧衣ちゃんがほっと息を吐く。私はそんな碧衣ちゃんのとなりに座って。

 静かな二人の時間……おっと紫乃さまを忘れていた……三人の時間を過ごす。何も話さなくていい。この瞬間が私は大好き。加湿器から出る水蒸気が、温かい空気をこの部屋にとどめて、碧衣ちゃんを隣に感じながら、私はぼんやりしている。

 バッハのプレリュードが流れている。静かでどこかたどたどしいピアノの旋律。実はこっそり、私の中で碧衣ちゃんのテーマ曲になってたりする。不器用で少しお堅くて、でも泉のようにきれいなものがたくさん湧いてくる、そんな碧衣ちゃんの。

 なれそめの頃のドキドキした感じも、今ではとろけるようなしあわせと周りを眺める余裕に変わった。分かっていた気になっていた夫の姿も、よりはっきりと見えるようになっていた。そうして私は満たされている。そう感じる。その充足感のみなもとに碧衣ちゃんがいる。

 碧衣ちゃんの志望校は、遠い都市まちに……東京にある大学。でも、なんとかなると思っていた。私たちなら大丈夫。だって、私たちはお互いに想い合っているんだから。心の中で、私は碧衣ちゃんに呼び掛ける。ねえ、私たちなら大丈夫だよね? 距離も時間も、きっと超えていける。私たちの人生は、もう結びつけられたんだもんね。高校時代とかにありがちな、それなりな思い出を作るための関係じゃないんだもんね。そうでしょう? ねえ、そうでしょう、碧衣ちゃん。

 そんな私の心の声が聞こえるはずもなく碧衣ちゃんは物思いにふけっていて、そしてぽつりと言った。

「あの、桃華さん……」

「なあにぃ?」

「あの絵、描けたんですか?」

「あの絵?」

「ほら、夏に……私がモデルになって……」

 夏のこと、そんな昔のことを? 思い出してくれている、碧衣ちゃんが私とのことを。頬がゆるんで。そういえば、いつか完成させるからと碧衣ちゃんを丸め込んだんだった。でも、あれから一度も手を付けてない。

「どうしてえ? 本物が目の前にいるのにぃ。描きたくないよう~」

 甘えてみる。碧衣ちゃんがカップを手に持ったままだから、控えめに肩を寄せて。にじり寄って、そっと太ももを撫でる。甘えさせてくれる碧衣ちゃん。私は碧衣ちゃんが好き。

「ねえ、桃華さん……」

「んん?」

 じっとココアの表面を見ていた碧衣ちゃんが、お盆にカップを置いて、私の方を見た。

「わたしたちって……」

 気弱に視線をそらして、紫乃を見る碧衣ちゃん。紫乃は相変わらず、大物感を漂わせながら眠っている。

「わたしたちって、紫乃ちゃんにはどう見えてるんでしょう?」

 変わった問いかけ。生真面目な表情で。だから私は、碧衣ちゃんをからかってみたくなる。

「ねえ……もしかしたら、夫婦かもよ?」

 そう答えてみる。

「私の苗字が一ノ瀬になったのは、私が碧衣ちゃんと結婚したから、かもね?」

 そう言って、笑ってみる。

「桃華さん……」

 呆れと困惑と……それでも私への気持ちが勝る、そんな表情に気持ちが浮ついて。愛されているという自覚ほど、私を嬉しくするものはない。しあわせにひたろうとした私に、碧衣ちゃんはなぜか決意のにじんだ声音で言った。

「紫乃ちゃんは、わたしたちのこと、どう、思うでしょうか?」

 私はちょっと、あっけにとられる。碧衣ちゃん、そんなことが心配? 紫乃は私たちのことを見ていた。でもそれは、いつか忘れてしまうもの。幼少期の、他のすべての記憶といっしょに。

「だいじょうぶ。ものごころつく頃には忘れてると思うよぉ? 私だって、三歳までの記憶なんてないもの」

「桃華さん……」

「紫乃が大きくなったら、二人きりで会おうね。二人の思い出、たくさん作ろうね」

 それが二人だけの秘密になって、私たちをずっと結びつけるんだもんね。そうでしょう? ねえ、そうでしょう、碧衣ちゃん。

「兄さんは……」

 ふいに、碧衣ちゃんの言葉がこの静かな部屋に落ちた。途切れたまま続きのないその言葉に、私は碧衣ちゃんの気持ちの在り処を見る。心配しなくていいよ。だいじょうぶ、だいじょうぶなんだから。私は彼女を安心させるように微笑んで、さらりとした手触りの碧衣ちゃんの髪をなでる。ふんわりと碧衣ちゃんが香って、私は改めて思う。私はこの子のことが好き。そしてこの子も、私のことを。

「ねえ、何が不安? だいじょうぶ、だいじょうぶよ」

 温めるように寄り添って、腕を捕まえて、なぞって、てのひらを合わせる。私の身体からだが溶けていって、碧衣ちゃんにしみ込むように。

 私から奪ってほしい。なんでもいいから。何が欲しい? 何でもあげる。もしあなたが、私に求めてくれるなら。その代わり、私のそばにいて。ずっと、ずっと。ねえ、これから私たちは、もっともっと思い出を積み重ねていく。二人が離れることのできなくなるまで。二人を結び付けて離さない、二人の絆を作り上げて。私たちはもっともっと近づいていく、やがて一つになるまで。私に求めてほしい、そして私を見てほしい、その対価を私は払う、とても気前よく。そして私もあなたから奪いたい、あなたの心と身体と、そして時間を。私のすべてをあげるから。ねえ、頂戴。碧衣ちゃんを頂戴。不安もこの静けさも、振り払って、何度も振り払って、私は。私と碧衣ちゃんは――。

 冬の夕暮れには色がなくて、ただ灰色が重くなるばかり。部屋の中を明るくしていても、その灰色は閉じたカーテンから染み出して時間の経過を私に告げる。

「ねえ、まだ帰ってこないよ」

 もう少し居てほしい。そう思いながら声をかける。碧衣ちゃんは一人、服を着る。その後ろ姿。愛おしい。ただ愛おしいだけ。

「ねえ、明日もまた、来てくれる?」

 碧衣ちゃんがずっと受験生ならいいのに。そしたら毎日、こんなふうに会えるのに。

「……」

 あれ?って、そう思った。碧衣ちゃんは返事をしてくれない。だから、後ろから抱きしめる。はだかの私。まわした腕。それを碧衣ちゃんがそっと撫でて。その優しさ。だから私は安心して碧衣ちゃんの首筋に寄り添った。

「義姉さん……」

 最近では耳慣れなくなっていた言葉。不思議に思って碧衣ちゃんを見る。碧衣ちゃんが私を振り返る。交わした視線。

「義姉さんは……」

「ん?」

 碧衣ちゃんの言葉を待つ。私の心には好奇心と愛情しかない。途切れたままの言葉。私を見る碧衣ちゃん。その表情の意味を私は、私への気持ちだと解した。

「碧衣ちゃん、好き」

 私は碧衣ちゃんに口づけた。碧衣ちゃんは答えてくれる。たどたどしくて一生懸命な、技巧を捨てて情熱的な、そんな口づけ。最後には私が受け身になるくらいに、積極的で激しくなって。どこにも行かないで、わたしのそばにいて。わたしもあなたのことが好き。あなたはわたしと人生を共にするひと。いま私は、碧衣ちゃんと永遠に結ばれた。私にはそれが信じられた。それはそう信じるしかないくらいの、言葉にするよりはっきりと自分の気持ちを、私への気持ちを伝えてくれる、そんな口づけだった。

 そして碧衣ちゃんは志望校に受かって東京に行った。このまちに帰ってくることはなかった。お別れの言葉は無くて、それっきり。すべてはそれっきりだった。あの口づけは、最後まで不器用だった碧衣ちゃんのお別れのキスだったんだと気付いた。私たちは疎遠な、もとの義理の姉妹に戻った。


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