長い夜
気まずい時間が流れる。
ボリュームを絞ったテレビは夜中の通販番組が映っていた。
俺のとなりに宮崎さんが体育座りしてうなだれている。
どうしようもない気持ちの交差に、やはりどうしようもないという現実がただ横たわっていた。
「私が伝えたかったことって、ただ無意味に小林さんとの関係を壊しただけだったんでしょうか……」
独り言のように宮崎さんが呟く。
「さあ、俺には分からない」
テレビを向いたまま俺は答える。
「麦ちゃんのことも課長に伝えても理解してもらえないですよね……それを乗り越えても、怖くなって引き返すかもしれないし……」
「……それも俺には分からない」
「………」
「でも、やるだけやってみたら?どうなるかなんて誰も分からないことだし、俺たちはこんな感じになっちゃったけどさ、麦ちゃん…は宮崎さんが必要かもしれないし……」
「小林さん……」
「やらずに後悔するより、やって後悔するほうがいいだろ」
「……やっぱり優しいですね、小林さん」
俺の肩に宮崎さんが頭を預けてくる。
「………」
「今夜だけ、どうか仲良くしてください」
「……うん」
さっきまでつまらなかった通販番組が、急に色鮮やかに迫ってくる。
すぐに頭をのけた宮崎さんが商品について興味がありそうに喋る。
俺もそれに相槌を打ったり、知っていることを教えたりする。
素直に、したいように、彼女と関わり合えたらどんなに楽しいだろう。
そんな関係もいいかもしれない、と魔が差したように思うが、それじゃあ俺は納得できない。
だからやがては宮崎さんにもつらい思いをさせることになる。
今この瞬間だけを紡いでいけたならいいのに。
俺の狭い部屋で雨の音に包まれてずっと二人この部屋で居られたなら。
「職場ではいつも通りでかまいませんか?」
宮崎さんが寂しそうに問う。
「うん、かまわないよ」
俺は自信がなかったが、いい大人なのできっと大丈夫な気がした。
「ありがとうございます」
きっと宮崎さんは微笑んだだろうが、とても見る気にはなれなくてうつむいてしまう。
「こうして小林さんに話を聞いてもらえるだけで、私、すごく楽になるんです。どうしてだろ……」
「……」
それって好きってことじゃん、と思ったが、彼女は確かに俺を好きだと言ったので、好きの性質が違うのだろう。
「小林さんはほんとうに素敵な方です。優しいし、楽しいし、屈託なく接してくれて……もうあなたみたいな人、私、出会える気がしません」
こんな奴いっぱいいるよ、と笑おうと思ったが、不覚にも泣きそうになり奥歯を噛み締める。
この夜はほんとうに長い。
もっと長くていい。
ずっとこのままこうしていたい。
「お邪魔させてくださってありがとうございます。小林さんはそんなことしないって私、分かってて利用したんです」
「……」
「課長が家の前でよく待っているので……ちょっと疲れてしまって……今夜だけは逃げたくて……」
「え……」
思わず宮崎さんに身体を向ける。
宮崎さんもこちらに向き、正座に座り直す。
「私は小林さんに逃げたくて、すみません……」
「それって警察とか、会社のもっと上の人に相談した方がいいよ!」
「だめですよ、自分でまいた種なんですから」
「それでも、課長、ストーカーでしょ!」
宮崎さんはおもいっきり頭を左右に振った。
「私のせいだから!ちゃんと話して分かってもらいます。私、麦ちゃんのこともあきらめたくないです」
彼女の真剣な目から大粒の澄んだ涙がぽろぽろと落ちる。
あまりにもきれいな涙で俺はすっかり勢いを削がれ、見蕩れた。
「ああ…ダメだ…私、小林さんにそう言ってもらいたかったんだ……すみません……私、ほんとに……っ」
ずるいなんて言わせない。
俺は腕の中の宮崎さんにつぶやく。
「もっと早く相談してよ。何でもしたのに」
「ふぇ……」
もっと強く抱きしめたいのに、壊してしまいそうでできない。
宮崎さんがやはりむずがるみたいに身をよじり、俺から離れる。
離したくなかった。
「ありがとうございます。小林さん、その言葉だけで私、すごく大丈夫になってます。すごいです。課長にきっと分かってもらえる気がしてきました」
宮崎さんがほんとうに嬉しそうに笑いながら涙をこぼす。
「……うん」
俺は反対にすごく悲しくなり、うまく笑えたか分からないままうなずいた。
始発の時間が来てしまい、俺は宮崎さんをバス停まで送って別れた。
まだ外は薄暗く、日の出は少し先のようだった。
数ヶ月後、宮崎さんから仕事の話の合間に課長の娘さんと二人で遊びに行くことを聞いた。
よかったね、と言った。
それから数年後、宮崎さんは実家の仕事を継ぐ為に退職した。
送別会の帰り、数秒だけ見つめ合って別れた。
俺は友人の紹介で出会った人と結婚した。
娘の塾の送り迎えも今日で終わりだ。
雨が降る夜の街に車を走らせながら、感慨深く三人の子供の習い事や塾の送迎を思い出していた。
受験が終われば家には妻と二人きりだ。
まあ、無事に合格できればの話だ。
塾の駐車場で待っていると娘が同じ塾生であろう男子と笑いながら歩いてくる。
「あ、パパ、この子も一緒に送ってあげてよ」
「え?」
娘が後部座席を開けながら偉そうに言う。
「よろしくお願いします」
娘が乗り込んだ後に男子が身をかがめながら挨拶する。
「ああ、はい」
「おんなじ方向だから、近くなったら言うね」
「ああ」
俺は戸惑いながも車を出す。
……いつもの彼氏じゃないな。
……別れたのか?
俺の疑問もお構いなしに後部座席の二人は楽しそうに会話している。
彼氏と話している時より楽しそうな娘の声に複雑な気持ちがよぎった。
「あ、あのマンションの前で止まって」
娘の生意気な声に我に返り、方向指示器を出す。
「じゃあね」
「うん、あ、ありがとうございました」
「はいはい」
「エリ……無理すんなよ、きっと大丈夫だから」
「……ありがと、タモツも、風邪ひかないで」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
タモツがマンションに入り見えなくなるまでお互いに娘と彼は手を振り合っていた。
「パパ、もういいよ」
「……ああ」
バックミラーに映った娘はとても穏やかな顔をしていた。
「新しい彼氏か?」
しばらく沈黙の後、思い切って訊いてみた。
「は?違うし、別れてないし」
いつもの娘に戻り、めんどくさそうに喋っている。
「えらく仲が良さそうだったな」
「……パパはさ」
ゴソゴソと座り直す音がして娘の口調が若干変わった。
「ん?」
「男女の友情ってあると思う?」
「……なんだ突然」
「経験ある?」
「え〜、ない、なぁ」
「……彼氏いたらダメだと思う?」
「………」
ハンドルを握る両手が汗ばむ。
もうすぐ家だ。
「さっきのエリ、すごく楽しそうだったな」
「……うん」
「エリの彼氏がどう思うか分からないけど、タモツくんだっけ?……彼と仲良くしたい気持ちはないがしろにしない方がいいんじゃないかな」
「……それですべてが壊れても?」
両手に知らず力がこもる。
「エリがみんなのことを考えた上で素直になることがパパは一番かな。それで傷ついたとしても、全部壊れたとしても、得るものはあるはずだよ」
「みんなのこと考えたら動けなくなる」
「………」
「自分が我慢するのが結局うまくいくのかなって」
「……それでもあふれる思いはあるから、それを大切にしなさい」
車を車庫に入れる。
「……うん。パパ、なんか感動した、ありがと」
「そうか?」
振り返って軽く笑って見せる。
「降りないの?」
「あ、仕事の電話してからな」
「あっそ」
後部座席のドアがいつもより優しく閉まる音がして、その瞬間、堪え切れずハンドルに突っ伏し嗚咽した。
雨の音が激しくなり苦しい胸に浮かぶのは、必死に思いを伝えてきた彼女の大粒の澄んだ涙。
あの長い夜、置いてきたものがたくさんある。
もう戻れない長い夜に。