午前2時過ぎ
ゲームの解説に対する相槌が、半拍遅れたり、あくびまじりになってついには寝息に変わった。
振り向くとソファーの肘掛に上半身を預け、宮崎さんが眠っている。
なんとも無防備な寝顔だった。
かなり飲んでいたから起きているのはつらかっただろう。
時計は午前2時を過ぎたところだった。
ゲームを消してしまえば彼女の寝息と雨の音が俺の狭い部屋を包む。
「…………」
宮崎さんの半開きの唇からのぞく白い前歯が、薄いまぶたに震える睫毛が、手の甲に押しつけもりあがった頬が、邪念をさざなみのように寄せてきた。
窓を開けてオオカミのようにワオーン、と遠吠えしたくなる。
そうすれば少しは落ち着けそうなのに。
俺と宮崎さんは歳も近いし、付き合っていても違和感がないような気がする。
実際、俺と宮崎さんが休憩中に話しているだけで噂になったことがあった。
周りからはとても仲が良いように見えたらしい。
いっそ今夜、一線を越えて婚約者から奪う…ということも……
俺は悶々と自分の性欲を正当化しようと考えを巡らせて、宮崎さんがとっくに目を覚ましていたことに気づかずにいた。
「……小林さん……」
彼女の足元であぐらをかいてうつむいていた俺は、弾かれたように顔を上げた。
宮崎さんは眠っていた姿勢のまま、気まずそうに俺を見ている。
「あ、あ、ごめん、ちょっと考え事してて……」
彼女の気まずい顔も可愛すぎて、俺は急いで後ずさった。
「……あの……」
宮崎さんが起き上がりながら顔をしかめる。
やばい、ばれたか……
自分の下心がばれることに俺は恐れをなした。
「あの麦茶、飲んでいいですか?」
俺の飲みかけの麦茶を指差し、宮崎さんが申し訳なさそうに小首をかしげる。
「え?あ、飲みかけだけど、新しいのいれて……」
「あの、小林さんが嫌じゃなければ、それをいただきたいです。親御さんも寝ていらっしゃいますし……」
「あ、え、宮崎さんが嫌じゃなければ……」
「ありがとうございますっ」
けっこう勢いよく宮崎さんはグラスを持ち上げ、ゴクゴクと飲み干した。
喉渇いていたんだな……
「……っありがとう、ございます……」
グラスを置いて宮崎さんが頭を下げた。
「うん」
何度もありがとうと言わなくていいよ、と言いたかった。
でも言えない距離感がはっきりと分かる。
さっきまでの俺の妄想は宮崎さんを前にすると、ありえないことだらけな夢物語になってしまう。
こうして俺の部屋で二人っきりでも、宮崎さんと一線を越えることが起こらない深い溝があるのを感じる。
それは宮崎さんが俺をそういう対象として見ていないことが分かるから。
それでも笑い合って話したり、今みたいに俺を頼ってくれたりするのはどうしてだろう、と考えた時、希望みたいなものを探したくなる。
俺自身は宮崎さんとそうなってもいいと心のどこかでずっと思っていた。
だって彼女は優しいし、可愛いし、趣味も合いそうだし、俺がもっと楽にしてあげられたら……なんてことも思っていた。
付き合えたらきっと二人幸せに生きられる気がする。
………俺は馬鹿だな。
自分にとって都合のいいことばかり考えて。
「小林さん、私、説明していいですか?」
宮崎さんがソファーからおりて俺の目の前に正座した。
「……うん」
今夜こんなことになった理由を彼女は俺に教えてくれるんだ。
寝起きの少し、しょぼくれた顔を両手で撫でつけてから宮崎さんが俺を真っ直ぐに見つめた。
「上島課長、離婚されてから一人で小学生の娘さんを育てられていて……」
「……うん」
課長の名前が出て来るのは分かっていたが、いざ宮崎さんの口から聞くと腹の底が冷えるほどショックを受けてしまった。
「出先で偶然、上島課長親子にお会いして、娘さんと仲良くなったんです」
「へぇ……」
「私も父子家庭で育ったので、その、色々あって、娘さん、あ、麦ちゃんっていう小学四年生なんですけど、麦ちゃんの気持ちが分かるっていうか、あの、ちょうど多感な頃なので、私、少し踏み込み過ぎって分かっていたんですけど、課長の家までお邪魔するようになって……」
「……」
なんだか話が思いもよらないところに行っているようで、俺は黙ってしまう。
「私も覚えがあって、近所の高校生のお姉さんをすごく頼って甘えて…あのお姉さんがいなかったら私はちゃんとした大人にはなれなかったような気がします。あ、今がちゃんとしてるとかおこがましいですが……」
「大丈夫だよ」
俺は微笑んで言った。
宮崎さんはほっとしたように微笑み返してくれる。
「ありがとうございます。小林さんに言われると嬉しいな……」
照れたように宮崎さんが髪を指で梳く。
……もう抱きしめたいしかないんだが……
「あ、それでですね!」
甘い空気を追い払うように宮崎さんが自分の膝を手で叩く。
「課長にお付き合いを申し込まれまして、私はそんなこと全然考えてなくて、でも、家にまで上がり込んでそれはないだろうって話ですよね、ふつうは…」
「こ、婚約者がいるってバス停で言っていたの聞こえたけど……」
聞きたくもないことを口に出して胸が張り裂けそうに苦しい。
「あ、あれ、嘘で……ちなみに、小林さんってことにしてしまって……私、酔っていて……すみません……ごめんなさい……」
「え!俺?」
「すみません!ごめんなさい!彼女いないっておっしゃっていたのでつい!」
宮崎さんが頭を下げる。
「ほとぼりがさめるまで何とかそういうことにしてもらってもいいでしょうか?あ、あの課長には他言しないようにお願いしています!」
「え、あ、え、うん……別にいいけど……」
「ありがとうございます。すみません本当にごめんなさい」
「もう謝ったりしないで、分かったから」
内心では婚約者がいなかったことに小躍りしながらも、宮崎さんの過剰なお礼と謝罪がつらくしんどかった。
「あ……はい」
自分でも心当たりがあるようで、彼女もつらそうに一瞬顔をゆがめて口を閉じる。
「それで、どうして俺の家に泊まるなんて言い出したの?俺、一応男だし、実家っていっても襲われるかもしれないのに」
「………」
意地悪だろうか。
でも、他の男に対して、もう二度と同じことをしてほしくない。
だって彼女はもうすでに課長の家に上がり込んでいたのだから。
「私、あの、伝えたくて……ほんとは歓迎会のうちに言えたらよかったんですが、お酒の力を持ってしても言えなくて、でも、どうしても伝えたくて、伝えたら小林さんとこれからも仲良くいられるかなって……そうしたら弾みもついて麦ちゃんのことも課長にちゃんと分かってもらえて会えるのかなって……」
「何を俺に伝えたかったの」
「……小林さんは男で私は女で、でも、もっと仲良くなりたいって思っても、うまくいかないですよね。それに上司の子供に寄り添いたいっておかしいですよね。付き合うとか、好きになるとか、前提がないと無理なんですかね…」
宮崎さんは悔しそうだった。
俺は彼女が言いたいことの半分も理解できなかったけれど、なんとなくは感じることができた。
「私は小林さんともっと仲良くなりたいです。そのくらいあなたが好きです。それは間違いないです。でも、恋人になりたいとか、触れ合いたいとか、それは違うとまでは言い切れないけれど、それはこの先ありえるかもしれないけれど、今はこうしてゲームしたり、私の悩みを聞いてもらったり、もちろん小林さんの悩みも聞きたいし、あなたのことを知りたい」
「………」
「自分勝手ですが、職場以外でも遊んだりしたいくらい小林さんと仲良くしたいんです」
「いや〜、嬉しいけどさ、無理じゃないかな」
俺がね、とは続けられない。
こっちが早々と恋愛感情を抱いていることを知られては、宮崎さんの提案はすでにあり得ないことになる。
「……小林さんは私と仲良くしたくないんですね」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「私としたいですか?」
「え」
「そうなら我慢して仲良くしてください」
「は?」
「ちょっとくらいは触っていいですから、仲良くしてください」
「何言って……」
「私にとって小林さんは楽しくて優しい人なんです、手離したくないんです」
「………」
「私、小林さんと仲良くしたいんです」
「……理解できないな」
それって俺に苦しめってことだ。
「……ですよね、分かりました……」
困ったように笑い、宮崎さんが涙をこぼす。
「え…」
「あ、ごめんなさい、目にゴミが……うぇ……うぅ…うぅ……」
「宮崎さん、あの」
「小林さん……目に、ゴミですぅ……うう……」
「ちょっ、ま、」
俺はティッシュを取るため立ち上がった。
……ええー泣くの?どして?
困り切った俺は彼女にボックスティッシュを手渡し、途方に暮れた。
いや、ほんとは俺が失恋したようなもんだよな。
それなのに宮崎さんは泣いている。
俺と仲良くできないから。
「ていうかさ、こんなわざわざ言わなくても今まで通りでよかったんじゃないかな?」
まだぐずぐずとしている宮崎さんにそわそわしながら俺は言った。
そうだよ、今まで通り、付かず離れずで、職場仲間でいいんだよ。
「……」
ティッシュの隙間から宮崎さんが恨めしそうに俺を睨む。
「な、なに?」
「もっと仲良くしたいって私は思ったんです」
鼻声で、震える声で、彼女はまだ伝えてくる。
自分の気持ちを。
俺は隠して、守って、何も彼女に伝えられないな。
不意に寂しさが胸をよぎった。
このまま夜が明けて、宮崎さんが帰ったら俺たちは今までよりもっと離れてしまう。
今までのように話せなくなる。
そしていつか宮崎さんを遠くに追いやり、別の誰かを好きになったり、もう二度と誰も好きにならなかったりするのだ。
今を逃せばもう宮崎さんは俺の人生に関わらないのだ。
「……俺は、宮崎さんが好きだよ」
「え?」
「でも、異性として好きなんだ」
「………」
「け、結婚してもいいくらい」
「え……」
……何言っちゃってんだ俺
宮崎さんは潤んだ目をまんまるくして俺を見つめて固まってしまった。
「だからさ、これ以上仲良くするってことはさ、俺は期待するし、この先の人生、宮崎さんのために使いたい。だから中途半端なことはしたくない。宮崎さんにもできるだけそうしてもらいたいし、そうしてもらわないとやりきれないよ」
……我ながらめんどくさいな
でも、これが本心だった。
「……私、そこまでできるか自信ありません……」
「だよね」
「だから麦ちゃんのことも中途半端になって、小林さんのこともただのわがままな感じになるって今、分かりました」
宮崎さんが涙を拭い俺に顔を近づける。
「な、なに?」
思いのほか近くて俺は身を引いた。
「キスしていいですか?」
「……どうしてそうなる……っ」
柔らかな感触に次いで、麦茶とアルコールが混ざると甘いと知る。
宮崎さんの泣いて上気した頬が熱いことを自分の頬で確かめる。
身体を寄せ合いキスを続けている現実が信じられなくて薄目を開けると、彼女も同じように薄目を開けてこちらを見ていた。
たまらなくなって彼女の首筋に手をそわせると、ドクドクと俺より速く脈が打っていた。
舌を入れてしまおうか、と迷っているうちに宮崎さんから離れていく。
「……怖いですね、やっぱり」
鼻声で彼女が呟く。
「……そう」
「……はい」
始発の時間は何時だったろう、と俺はスマホを机の上から取った。