午前0時
そんなに強く降ってないのに雨音が自分の鼓動とかぶさるように屋根を叩いている。
緊張していた。
ベッドもソファーもあるのに立ったまま、落ち着かない。
日付けが変わって、終バスはとっくに行ってしまった。
始発まで彼女はここに居るのだ。
「ごめんなさい、こんなことになってしまって」
彼女、宮崎琴乃さんがうつむいたまま呟く。
「いいよ、気にしなくて。俺はほんと、全然……」
フローリングの床に座り込んでいる宮崎さんの薄いスカートが、バリケードのように周りを囲っていた。
「寒いね、暖房つけようか」
宮崎さんの返事も待たずに俺はエアコンのリモコンのスイッチを押す。
ほんとうは体感温度も分からないくらい緊張していたのだが、宮崎さんが寒そうに見えてしょうがなかったのだ。
「俺は下のリビングで寝るからさ、適当に、あ、毛布、洗ったやつ……」
「小林さん、できれば家族の方には私がお邪魔してることを知られたくないので……ここに、あの……いてください。あの、変な意味じゃなくて……」
「……………」
宮崎さんの気まずい表情にわずかな冷静さを取り戻す。
彼女は今夜、俺の家に泊まることを無かったことにしたいらしい。
まあ、そうだよな。
婚約者いるって言ってたし。
俺なんかと噂になんかなったらまずいよな。
「分かった、色々面倒なことになるもんな」
俺は言い、ベッドの上に腰を下ろす。
「……すみません。本当はちゃんとお家の方にご挨拶した方がいいのは分かっているんですが……」
うつむいたまま宮崎さんは頭をさげた。
「……いいから、ソファーに座りなよ」
寒そうな彼女にようやくソファーをすすめられたが、なぜか言い方が投げやりになってしまう。
俺たちはただ同じ会社の人間だってだけ。そんな事実を俺はうまく使えない。
「……ありがとうございます……」
立ち上がった足どりはまだ酔いが残っていたようで彼女がよろめく。
「危なっ……」
とっさに立ち上がり腕を伸ばす。
バランスを崩した彼女は俺の胸の中へ身体をぶつけてきた。
「っ!」
驚いた宮崎さんが俺を見上げる。
「………」
大丈夫?水、持ってこようか?
頭の中で言葉が空回りして、宮崎さんをソファーへ座らせたかった俺の身体が、まるで金縛りにあったかのように俺の口も身体も動かない。
宮崎さんの柔らかさや重みが、甘い体臭が、髪の匂いが、俺に衝撃を与え過ぎていた。
「小林さん……私……あの……」
身をよじる彼女が俺を遠慮がちに押し戻そうとしている。
「……っ……ごめん……」
俺はどうして宮崎さんが俺の家に来たのか思い出し、目が覚めたように彼女を突き放した。
「い、いえ、こちらこそ、すみません。まだ少し酔っていて……」
宮崎さんは服の乱れを整えながら俺の小汚いソファーへ腰掛けた。
「水、取ってくる。トイレとかあったら今、一緒に降りて行った方がいいと思うけど」
「あ、はい。お手洗いお借りしたいです」
ホッとしたような表情で宮崎さんが今度はしっかりと立ち上がる。
父親と母親は一階の和室で寝ている。
トイレも一階にしかない。
昔は二人とも二階の俺の隣の部屋で寝ていたが、歳をとってトイレが近くなり引っ越したという訳だ。
ミシミシと軋む狭い階段を二人で息を殺しておりる。
後ろを振り返ると宮崎さんが目だけで、ん?、と問うてきた。
「………」
俺は急いで前に向き戻り、少し荒くなった呼吸をこっそり整える。
あぁ……可愛いな……
廊下に着くと俺はトイレのドアを指差す。
宮崎さんは何度かうなずいて俺を追い越しそっと壁のスイッチを押してドアの中へ入った。
俺はすぐ横にある台所へ行き、冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターなる洒落た飲み物はなく、作り置きの麦茶がプラスチックのボトルにあるだけだった。
俺は仕方なく音を立てないよう食器棚からグラスを二つ出してそれに麦茶をそそぐ。
総務課の宮崎さんが工場のライン作業員の俺の家に今、いるのだ。
グラスを両手で持った瞬間、そんな現実がさらにリアルを増した。
普段、まったく接点が無いわけではない。
宮崎さんは現場には一日に一回は来て、リーダーや俺に上からの伝言や事務処理の確認に来るから。
でも、事務仕事の人間は現場の人間からしたらどこか別世界の人、という印象があった。
それが、どうだ。
今夜は俺の家に泊まる!
「お待たせしました……」
小声で宮崎さんが廊下から声をかけてくる。
「う、うん」
俺は我に返ってそそくさと彼女の前に出て先に階段をあがった。
外は雨がさらに強くなり、雨音が大きく聞こえる。遠くの方で雷が鳴っていた。
「ごめん、麦茶しかなかった」
ソファーへ座った宮崎さんへグラスを渡す。
「ありがとうございます。麦茶、好きです。いただきます」
「…よかった」
ああ、こういう娘だった。
仕事でも色んな人に気を使って、お礼を言う時と謝る時、こっちが逆に恐縮するくらいに言葉を丁寧に言う。
いい娘だな、と最初は思っていたけど段々と痛々しく見えてきてあまり見たくない光景となっていた。
本当に麦茶が好きなのか、喉が渇いていたのか、宮崎さんは一気に飲み干して口元を手の甲で拭った。
「はぁ〜、ごちそうさまです」
からになったグラスを俺のベッドの横にある小さなテーブルの上へ置いた。
俺は一口飲んでその横に置く。
「どうする?横になるんだったら毛布持ってくるけど」
思ったより神妙な声のトーンになってしまったことに内心焦りながらも俺は軽く笑う。
「……明日お休みですし、小林さんが疲れてなかったら一緒に起きてませんか?」
「………」
「あ、ほら、この間、ちらっとお話ししてたゲームとか、ギターも見せてもらいたいなぁ、なんて思って……あ、弾いてもらうのは夜中だからさすがに、ですけど……ハハハ」
「ああ、ギターはさすがにあれだけど、ゲームなら……」
この雨なら両親の部屋まで声が響くことはないだろうから、とへらへら笑いながら俺はテレビとゲームの電源を入れた。
俺がゲームの解説をしながら進めるのを宮崎さんは嬉しそうに聞いてくれている。
気を使ってなんかない、と分かる笑顔がとても愛らしい。
少しでも色々なことを忘れて笑ってくれたら俺はそれでいい。それだけでいい。
あんな顔は彼女に似合わない。
俺は慣れすぎたゲーム進行に沿わせ、もう昨晩になったさっきまでの飲み会──新入社員の歓迎会のことを思い出していた。