第1回 生まれの差、成長の差による教育
人は残念ながら生まれながらにして『差』があります。生まれながらにして平等など、ただの幻想です。
例えばこれをご覧になっている大半の方は『日本人』だと思いますが、『日本人か否か』だけでも『差』があります。教育や社会福祉などがある程度整った日本で生まれれば、大半が日本国籍を持つ事になりますが、日本で日本国籍を持つだけで、様々な恩恵を受けやすい面があり、一般的な生活の中では多くの他の国よりも医療や教育を必要十分に受ける事ができ、働き先にもよるとは思いますが一定水準の生活は出来るでしょう。
しかし同じ日本人の中でも、特に金銭に余裕がある家庭とそうでない家庭では、それだけで生まれる時から既に差があるのも事実です。いえ。生まれる前から差があるとさえ言えます。お金さえ十分にあれば、質の良い産婦人科などで出産ができ、もしもの時の対応も素早く行えますが、全ての産婦人科医院が同様の事は出来ません。例えに問題があるかもしれませんが、このように産まれる時から『差』は既に発生しており、いくら憲法で『平等』となっていても、実際には完全な平等などありません。
そしてその差は学業などに顕著に表れます。ある程度資金に余裕のある家庭は、十分な教育を行うためにレベルの高い塾などや家庭教師を雇うことも可能でしょうが、全ての人がこの恩恵を受けられることがない事は周知の事実だと思います。
もちろん学校以外で一流の教育を受けても絶対に良い大学へ行ける保証はありませんが、少なくとも塾に子供を生かせることも出来ない家庭よりは、確実に有利だと思われます。そして塾に行ける資金があっても、その塾によって差はあるため、金銭的な差として分かりやすい指標と言えるでしょう。もちろんこれは、自ら一般の公立学校で学び、塾などを利用しなくとも国内の上位に位置する大学へいける人を否定するものではありませんし、あくまで一つの目安としてです。絶対という事は常にありません。ここまで書きながらおかしな事ではあるかもしれませんが、人間である以上は不確定要素を完全に排除など出来ないからです。まあそれでも俗に言う『裏口入学』などはありますが、これもお金があるからといって全てのお金持ちが出来る訳でもありません。
日本では建前上『一定水準の教育を平等に受ける』事が出来ますが、前述の通りその『一定水準の教育』には差があります。しかしそれ以上に目には余り見えなく、実は『生まれながらの差』が存在し、海外ではその差を埋める教育を行っている場所も一部であります。
その『生まれながらの差』とは『いつ生まれたか』です。
この『いつ生まれたか』とは『何年に生まれた』ではありません。もちろん生まれた年によっては教育の内容に差が出るため、多少なりとも差はあるでしょう。しかしそれ以上に私としては見過ごしてはならない『生まれながらの差』が存在しており、それはあまり一般に認知されていないように思います。それは『何月に産まれたか』です。
一部では早生まれと遅生まれ(4月2日から12月31日)の問題点を指摘することが出てきていますが、これもまだまだ全体としては大きく取り上げられていないと思います。
小学校の入学などは『4月2日から翌年の4月1日』までを一つの区切りとし、そこの子供達で一つの学年を形成します。一応一部に申請すれば俗に言う『早生まれ』の人は、その次の年に入学を遅らせることが出来るそうですが、あまり一般的では無いと思います。
ここで考えてみて下さい。ほぼ1年の生まれの差があるにも関わらず、少なくとも小学校からは同じ環境で、同じ教育を受けます。小学校に入学するのは6歳からですが、実際には入学式の時点で7歳の子もいれば、6歳になったばかりの子も当然いる訳です。
脳は生まれた時から既に成長を行っていますが、研究によると18歳程度まで成長するのだそうです。一般的には小中学校での教育の時期が、最も脳の発達に影響するそうなのですが、7歳になったばかりの子と6歳になったばかりの子では、当然脳の発達に差が生まれます。それ以前に肉体的な成長が分かりやすいため(一般論として早生まれの場合の方が運動能力や体格で不利になりやすい)脳の発達について、近年まであまり問題視されていなかったと考えます。
これはある海外での研究結果ですが、成長期の子度をも4グループに分けて、それぞれ同じ教育をした場合の差を漢学的に検証した場合、特に日本では早生まれとされるグループと同等のグループは、その教育の理解度などに明らかな差が出たそうです。特に顕著だったのが算数的な事で、もちろん個人差はあったそうですが一般的に日本で早生まれとされるグループは、計算問題などの正答率が落ちている傾向にあり、これを元にした追跡調査では、いわゆる早生まれとされるようなグループでは、その後の数学などの理解度が他のグループよりも低い傾向となり、いわゆる『数学嫌い』や『数学は苦手』とする人が多いという結果が出ているそうです。
海外ではこのような研究結果を踏まえ、一部では同じ学年であっても生まれた時期により教え方を変える方法を行っているそうなのですが、これを行うと行わないとでは、算数や数学に限らず、様々な科目で全体的な平均が底上げされ、特に早生まれとされるグループの数学などの苦手意識が減少しているとされています。
まえがきでも記載しましたが、ここは日本であり、日本の事情は確かにあるでしょう。しかしながら結論として良い事が見込まれる事については、海外から導入することを積極的に行うべきだと考えます。
これだけでは例えばお金持ちが受けさせる勉強の質に追いつけるかと言えば、正直無理があるでしょう。しかし少なくとも学校教育に関していえば、勉強の理解度に関しては結果の平等を重視すべきではないでしょうか? 肉体的な平等は望めなかったとしても、こればかりは今の教育を例えば1ヶ月ごとに完全に区切って、その中で競争させる程度しか思いつきません。しかし流石にこれは非効率であり、むしろ人と人の間には『どこかに差がある』事を学ぶ為にも、運動などに関しては結果の平等など、害悪だけだと断じます。
しかしちょっとした工夫により、それ以外の点である程度公平な学習が出来るのだとすれば、少なくともはっきりと義務教育であると定義された中学校までは、1年をいくつか(4グループ前後が良いと思います)のグループにする事で、その後の勉強(予習・復習など)するかしないかは本人や親の問題にもなるでしょうから『教育の内容の平等』を達成できるのではないでしょうか?
無論人的、予算的な問題はあると思いますが、個人的には老人福祉を充実させるよりも、子供の福祉を充実させることの方が極めて重要であると考えるので、多少の老人福祉の予算を削ってでも、子供に対する十分な教育的福祉を充実させることが、日本にとっても有益であると私は信じますし、これに反対するという事は、子供達の将来など重要ではないと宣言しているに等しいとすら私は考えます。