ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
釣りに行きたい夫と蟹すき(蟹鍋)
「明日は何処へ行こうか」
ビールの泡を見つめながら、そうつぶやいた。
「え?なに?」
そう答えたのは妻だ。
「テレビの音がうるさくて聞こえないわ」
「ああ」
リモコンを手に取るとボリュームをおとす。バッターがヒットを打って観客がざわめき、さらにボリュームを下げた。
「それで、なんだったの?」
俺は、チラッと目を上げて
「なんでもないよ」
とつぶやいた。
ビールの泡がプチプチと弾けて土曜の夜が過ぎていく。結婚から1年。新鮮な生活が過ぎて落ち着き始めたのかもしれない。やってくるのは退屈な日曜日。
日曜しか休みが無いのだから、そんな日曜日だけは一緒に過ごしたい。そう言う妻の言い分はわかっていたが、俺は釣りに行くのが趣味で、結婚前は毎週のように通う場所があった。しかし、それもここ一年ほどご無沙汰だ。妻は、釣りざおを見つめているだけで満足できるほど人間が出来ていない。はしゃぎ回るか、退屈を持て余して文句を言うか、いずれにしても釣りに連れて行くとロクなものではない。
ふっと、ため息をつく。明日も家でゴロゴロ、かな。
「ねえ、あなた」
「なんだい?」
テレビから目を離して野菜を切っていた妻へ顔を向けた。テーブルの上にはビールと漬物。
「今日はね、鍋にするの」
「そう」
「蟹鍋」
「へえ」
「ずわい蟹の漁が解禁になったでしょう?通販で買っちゃった」
思わず、ため息をつく。そういうところは変わらないな。俺の給料が、いくらなのか、ちゃんと把握しているのか、時折不安になる。
「ねえ、知ってる?おいしい蟹の見分け方って」
「さあ」
「蟹ってね、水揚げされた瞬間から痩せていくんだって。だから、なるべく早く茹でたものが一番なんだって」
「それで通販なのか・・・」
「そうよ。お店で買うよりも安い時もあるのよ、時価だから」
「それで安かったのか?」
妻は、ふっと笑う。
「ううん、高かった」
悪びれもせずに、そう答える妻に、俺はぷっと吹き出した。釣られて妻も声を上げて笑う。そうだな、これもいい。のんびりしたこの生活も悪くない。
「ずわい蟹だって?」
「そうよ、ずわい蟹」
また笑う。何がおかしいのかわからないけれど、二人で笑う。
「知ってるか、ずわい蟹と越前蟹の違いって」
「え、なに?違う蟹じゃないの?」
俺は指を立てて、それを目の前で振ってみせる。
「本当はな、同じ物だ」
「え、本当?じゃあ松葉蟹は?」
「それも同じ」
「じゃあ、何が違うのよ」
さっと野菜を鍋に入れ、妻はエプロンを外した。
「卓上コンロ、今度、買いましょうね」
笑顔で言う。そうだね、そうそう。給料は安いけれど。
「ね、それで松葉蟹とずわい蟹と越前蟹って何が違うの?」
「だから、同じなんだって」
「え~、でも違う名前じゃない」
「まあね。でも同じ物。捕れた場所が違うだけなんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。それにずわい蟹はオスしかいない」
「そんな、まさか」
「メスは違う名前なんだ。コウバコ蟹という」
「へえ・・・難しい」
「そうか?うまければ、みんな一緒だけどね」
ぐつぐつと煮え立って、いい匂いがしてくる。俺は立ち上がってテーブルの上を用意する。
「飲むか?」
ビールを手にして、そう言うと
「うん」
と答える。俺はグラスを食器棚から取り出して妻の前に置いてやる。それを彼女は手に持って、俺はそこへゆっくりと注いだ。
「ありがとう」
「じゃあ、食べようか」
「うん」
テーブルの上には、二人では食べきれないほどの蟹鍋。いつまで経っても量を覚えない妻は、にこにこと俺を見つめている。
「うまそうだ」
ぐつぐつと煮え立った鍋の中に蟹の足を入れ、さっと泳がせるようにして2、3分。スープの方は昆布と鰹節のだし、そこへ醤油と塩だけで味付け。甘味は蟹の肉と野菜に頼るのが本来のスタイルなんだ、とか・・・きっちりと、レシピ通りなところが妻らしい。きっと蟹と一緒についてきたレシピを見て作ったに違いない。
「うん。うまい」
蟹の甘味が口の中で広がって、とろけるよう。
「ね、おいしいでしょう?」
そう言うと、自分も真似をするように蟹の足を泳がせた。
残った出し汁に、ご飯を入れて蟹雑炊にした。
食べ過ぎた蟹に、二人は満足して、しばらくは、ぼうっとテレビを眺める。
「ねえ」
なんとなく眺めていたテレビから目を離す。
「なんだい?」
「さっき、なんて言ったの?」
「え?なんのこと?」
「ほら、食事の前。何か言いかけて止めたじゃない」
「何か、言ったっけ?」
「うん。言ったわ。明日は、とかなんとか」
「ああ」
思い出したけれど、もう、どうでも良いような気持ちになっている。美味いものを食った後は、たぶん、そういうものなのだろう。明日のことなど、どうでもよい。
「いいわ、許してあげる」
「え?」
「釣りに行きたいのでしょう?」
「あ、ああ」
ふと、仕舞いこんだ釣竿を思い出す。そう、釣りだ。早起きして早朝の冷たい空気の中を出かける時の、透き通るような、高揚感を思い出す。
「わたしは留守番をしているわ。いってらっしゃいな。わたしも好きなことをした。あなたも好きなことをする。丁度よいじゃない?」
「ああ、そうだな」
なんともいえない気持ちよさを味わいながら、俺は妻の顔を覗き込んだ。
こんなにも物分りのいい妻だったかな。それとも、これは計算された罠なのか。蟹を食べたかっただけの罠だったか。後でクレジット会社からの請求が来た時のための。
俺は、ふっと笑い出す。
いや、うまかった。どんなことを考えているか知らないが、うまいものが人の心を豊かにしたのだ、と思いたい。思い切り楽しむ週末を、蟹鍋が作り出す。
「ね、明日は何処に行くの?」
「そうだな。海釣りかな」
「いいわね。明日は海鮮鍋ね」
「また鍋かよ」
そう言うと、笑い出した。二人は、ずっと笑いあって夜は更けていった。