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一人旅に出る覚悟はあるか


 何をするにも憂鬱だ、と感じる日がある。具体的には約束の日だ。これが約束というか、例えば歯医者の予定を入れている日ならまだ諦めもつく。

 最悪、コホコホと咳き込みながら、「すみません、予約をしていたまつおですが、風邪を引いてしまいして、ええ、ええ、来週の水曜日に……」と電話を入れればその場はしのげる。割りを食うのは来週までの自分一人であって、市販の痛み止めを臨時の相棒と定め、それまで粛々と過ごせば良いのだから。


 ちなみに、これを繰り返すと悲惨な目に遭う。あまりの痛さに仕事も手に付かず、一日で痛み止めを一箱使い切ってしまったりすると、もう目も当てられない。経験したことのない気持ち悪さに襲われ、ぼくは深夜、仕事中にトイレに駆け込んで吐いたことがある。便器は血まみれで、人生で初めて吐血というものを体験した。


「……あのときのツケが来ちまったか。あと少しで良いんだ、もってくれ……!」


 と、すかさず謎の組織と闘って致命傷を負うも、仲間にはそれを悟らせまいと普段通りに振る舞う物語の主人公を演じてしまったぼくを責められる人はいないだろう。だって完全な自業自得だもの。本当に深刻な病気ならともかく、バカみたいな理由で用法・用量を守らなかった挙げ句の事態だ。せめて、こんな悪ふざけでもしてないとやってられなかった。


 似たような状況で言いたい台詞として「俺の屍を越えていけ!」があるが、まだこれを口にする事態に陥っていないことだけが救いである。自業自得でこんなシチュエーションになるようなら(それも三十路目前の男がだ)、本当に救えない。


 さて、問題は友人との約束である。

 仲の良い友人と遊ぶ約束をするのに、特別な条件も何もない。ないのだが、約束の日が近付くにしたがって、どうにも億劫になるのだ。遊ぶと言ってもやることと言えば、飯を食って買い物をするぐらいだ。それだけなのに、途方もない憂鬱が襲ってくるときがある。大体の場合で実際に会ってしまえば楽しく過ごせることは、それまでの経験でわかっているのにも(かか)わらず、まるで発作のように面倒臭さがこみ上げてくる。


 幸いと言うか、ぼくは理不尽に対して寛容な人間である。と自分で言ってしまうのは人として問題があるんじゃないかと思わないでもないけど、言い方を変えれば鈍感なんだろうと思う。ぼく自身が約束の憂鬱さと、それに付随してくる罪悪感に耐えきれないヤツなので、いつ頃からか、友人を誘うときは決まって「別に当日面倒になったら断ってくれていいよ」と、文末に添えるようになった。


 この誘い文句の効果は覿面なので、ぼくと同じような気持ちになる人は、是非とも試してみてほしい。

 まず、実際に当日ドタキャンされても、それほど怒ったりガッカリしたりしない。凪の海のようなフラットな心持ちでいられる。自分から断っていいと言ったのだから、そもそも相手を責める資格なんてないんだし。


 そして、同じ友人と後日遊ぶとき、あくまで最終手段としてだけど、「あーなんかちょっと風邪っぽいからパスだわ」と、実際は元気満々の癖に、堂々と断れるのだ。あまり多発すると信用がゼロどころかマイナスになるので使うタイミングは難しいけれど、そんなカードが手持ちの札の中にあると思えるだけで、約束の日の憂鬱さが四割(当社比)は違ってくる。


 ゴミのような男だけど、ぼくはそうやってたまに訪れる約束の日を乗り切っている。ただ、本当に体調が悪いときを除いて九割はちゃんと遊ぶということは、ぼくの名誉のために言っておきたい。



「すっごい気持ちはわかるけど、それをわたしに言っちゃうあたり、まっつんほんまに最低だよね」


 神田さんは、薄く笑いながらぼくを評価する。いつもの「キモい」と違って、心なしか(たわむ)れでない感情が滲んでいるように思えるのは、きっとぼくの罪悪感だけではなく、神田さんが心底最低だと思っているからだろう。こういうとき、神田さんフェチのぼくであっても刺さるものがある。


「でも仕方なくないですか? 面倒臭いって気持ちってもうどうしようもないと思いません?」

「まあわかるよ、それは。でも人としてって思うじゃん普通は。ちゃんとしなきゃって。あ、まっつん人じゃないもんね、だからそうなんだよね」


 だからそうってこの文脈で言われると、さしものぼくでも何も言えなくなる。


「でも神田さんには素直に全部言うところ、めっちゃ正直で良い子だと思いません?」


 でも口は開く。厚かましいって辞書で引くと、おそらくぼくの証明写真が掲載されているんじゃないかな。


「ポジティブ過ぎるだろ。何、良い子って。三十路だぞお前」


 何でだろう、今日の神田さんの棘はいつもよりも太くて長い。でもぼくは鈍感だから、たぶん気のせいのはずだ。うん、まだ問題ない。何ならもう二、三本はイケる。


「だから最近思うんですよ。ストレス溜まってるのもあるんですけど、一人旅とかいいなあって。何回か行ったことありますけど、京都の鴨川のあたりとかいいですよねえ」

「京都とか奈良とかいいよなあ。いいじゃん行ってくれば。どうせ一緒に旅行する人もいないじゃん」

「一言多くないですかね? それにですよ、ぼくは見えないお友達とお喋りするの得意ですから、厳密に一人旅ってことにはならないですね」

「それもう怖ぇよ。それにどこからどう見ても一人だし」


 神田さんを怖がらせてしまったのは想定外だったけど、そう、一人旅だ。素晴らしく魅力的な言葉だと思う。もう、全く関係のない言葉に続けても情緒が溢れてくる魔法のワード。


 少し想像してみよう。


 施設のトイレに書かれている「座って用を足してください。一人旅の方も」とか。

 映画館では「上映中は携帯電話の電源をお切りください。一人旅の方も」とか。


 追い打ちのようにおひとり様の精神を削ってくる姿勢、嫌いじゃない。



 見知らぬ土地でひとりの自由を満喫し、ふらっと入った定食屋で美味しい料理に舌鼓を打ち。頭の中で行きしなの電車で読んだガイドブックを思い出しながら、ちょいとお花を摘みにと入ったトイレで目に飛び込んでくる「一人旅の方も」の文字。さながら山賊のように突然ヤツらは襲ってくる。花なんてとうに踏み荒らされている。


 余談だが、この「花を摘む」という隠語。一般的には女性が使う言葉で、男性の場合は「雉を撃つ」というらしい。しかし田舎に住んでいるぼくは小さい頃、季節になると土筆(つくし)を採ってくるのが好きだったため、勇猛果敢に雉を撃つよりはむしろ花を摘む方が性に合っている。


 更に余談を許してくれるなら、ぼくは「花を摘む」と聞く度、ユーミンの歌を思い出す。不特定多数の敵勢力からあなたを守りたいという決意の歌だ。けれど悲しいかな、日暮れまで土手に座っていようとも、山賊のようなヤツらの手によって、レンゲなんて一輪も見当たらない。誰よりも守ってほしいと願っているのに、おひとり様の何と無力なことよ。


 こうなると、ひとりの自由だなんて悠長にことを構えている場合ではない。親切のつもりか知らないが、はたまた過剰防衛と言ったところか、一人旅の方に思いを馳せ過ぎているヤツらの行いは街に溢れかえっているだろう。


 一刻も早くここを出なければと飛び乗ったバスでは「座席は詰めてお座りください。一人旅の方も」と要らぬ強調をされ、これは堪らんとカラオケ店にでも逃げてみれば、「ひとカラオーケー」ではなく「一人旅の方もオーケー」と推奨されてしまう。


 受付ではイチャコラしているカップルの横で、「す、すみません、一人旅パックでお願いします」と、旅行代理店でもないのにそんな申請をし、


「見てあの人、一人旅なんだって」

「俺たちは二人で旅行しような」


 と漂う甘い空気の燃料になってしまう……。


 見たことのないヤツらの攻勢に、我々(ひとりだけど)は後手に回るしかなく、この世界はひとりで生きていくにはあまりにも厳しいのではと、夜になるとつい弱音を吐きそうになる。かといって誰かと旅行に行きたいかと言うと、いやいや、誰かと一緒に行動したくないから一人旅をしているんだと己に言い聞かせる。本末転倒になるのだけは避けなければいけない。


 這々の体で予約を取っていたビジネスホテルに辿り着き、ひとっ風呂浴びて布団に入ると、そこでも我々(だからひとり)は目にするのだ。


「一人旅の方も、ごゆっくりお休みください」


 ここで泣いたら負けだと、歯を食いしばって目を閉じる。思い返すのは旅行の間、鴨川を見て、定食屋でご飯を食べ、バスの窓から知らない景色を楽しみ、カラオケでくつろいだこと……あれ、けっこう楽しめているなと、ここに来てようやく一人旅の良さを噛み締められる。


 我々は、ぼくたちは、こうしてまたひとりで旅の支度をするのだ。そしてついでのように言うのも何だけど、旅支度をしているときが一番楽しいと思う説、あると思う。



「……改めて考えると、なかなかハードル高いかもですね、一人旅。それに泊まりってなると、休み取るのも面倒じゃないですか」

「いいじゃん日帰りでも、鈍行に揺られてのんびり遠出してくるとか」

「や、どうですかねえそれも。まあ、行って宮島ぐらいですかねえ」

「いいじゃん宮島! 厳島神社! 行ってきなよ!」

「鹿に刺されてこいってわけですか」

「だってまっつん角で刺されたら嬉しいでしょ?」

「肯定も否定もしませんよ!」

「否定しない時点でもう色々と残念だよね」

「あ、神田さんに何かしらで刺されるんなら喜びますけど」

「ほんまに刺すぞ。キモいから。刺したところに流し込むぞ。何かを」


 一体何を流し込むというのか、具体的に言ってもらえないとこれほど怖いものもない。それにこの、いざ一人旅の計画を練ろうとするぼくに対する横暴な言いよう、もしかしたら神田さんが謎の組織なんじゃあないだろうか。今、ストンと腑に落ちるものがあった。その貫禄からしておそらく、幹部以上の偉い人だと思う。いや、ボスと言われても納得できる。


 これからもし一人旅をする方は気を付けてほしい。下手をするとヤツらに、何かで刺された挙げ句に流し込まれる危険がある。そうなれば、「俺の屍を越えていけ!」と言う外ない事態に陥る可能性も否めないだろう。


「あ、でも、正直ビジネスホテルに泊まるってだけでテンション上がるっていうか、満足できちゃうところもありますよね」

「お前もう旅行すんなよ」


 そう、外の世界は危険で満ち溢れている。近場の、車で十分とかのホテルで手を打つという選択肢もあるのだ。そうすればひとまず、屍にまでなる危険性は排除できるはずだ。



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