国際化の波は正面から理不尽にやって来る
国際化の波が押し寄せている。
日本の田舎レベルを十段階で評価するとしたら、ぼくの暮らしている処は七点ぐらいの、田舎とド田舎の間を行ったり来たりしていると評してもいいと思う。この程度の田舎にも国際化は迫ってきている。
ド田舎の他に、ド真ん中、ドM、ドS、ド(度)忘れといった表現が世の中には溢れているが、この「ド」という修飾語がぼくは好きで、ちなみにこの話は国際化と一ミリも関係ないけれど、しばし語らせていただきたい。
というのも、いつか友人と話しているとき、どういった流れかは思い出せないが「それがド正面から来るやん!」とぼくが笑って言うと、友人の表情筋が機能を忘れた。静寂に包まれる二人。一分前まで笑っていた友人が無表情で、
「ド正面って何ぞ」
と問うて来る。
「真正面よりもっと正面のことじゃん。聞いたことない?」
「いや真正面でいいだろ。聞いたことあるかあ? あるわけねえだろ」
「いやぼくの頭の広辞苑にはだね、デカデカと、何ならそこだけ違うフォントで載ってるんだが、あれ、知らない?」
「ド正面もお前の頭の広辞苑も知らねえよ。とりあえずそれ海賊版だから捨てとけ、お前の広辞苑」
こんな風に、なんと、ぼくの信じていた広辞苑は海賊版という汚名を着せられてしまった。おかしい。おそらく、度が過ぎていることから言葉の頭に「ド」が付くんだと思っていたけど、確かにぼくはそう感じたのだ。そのとき、尋常じゃないくらい正面から何かが来たのだと。そりゃあ、尋常じゃないくらいの正面って、それこそ何ぞって話なんだけど。
その臨場感を正しく伝えようと相応しい言葉を選んだつもりが、返ってきたのはお前の広辞苑、お前の使った日本語は海賊版だぞという指摘だった。ぼくは人後に落ちないぐらいの純日本人だと自負しているのに、紛い物の日本語を使っていると言われたことには大いに驚いた。せめても、昔の外国語でも使ってるのかと言われたかった。悔しい。
しかし実際、ぼく以外にド正面って言葉を使っている人は未だに見たことがないので、本当に広辞苑の海賊版をダウンロードしてしまったのかもしれない。何処でしたのかと聞かれると、ちょっと記憶にないけれど。
さて、そんな純日本人であるところのぼくは、目にしてしまったのだ。国際化の話である。
連休で朝の忙しい時間帯、一組の外人さんカップルが店を訪れた。夫婦かなと、根拠もなく思ったのでそう仮定するが、旦那さんは中東系の顔立ちで、「今日はターバン忘れたんですか?」って声を書けたくなる容姿。奥さんの方は、いつかの朝の連続ドラマ、マッサンに出てくるエリーさんに似ている。そのエリーさんのうなじに、
「家族愛」
と漢字で刺青が入っていた。
自分の目が届かないところでも家族愛を背負うとか、なんとも粋だねえとぼんやりと見ていると、ぼくのレジにその二人が来るではないか。引き寄せの法則だ(違う)。
飲み物とおにぎりが幾つかカゴに入って、(外人さんが漢字で家族愛……買うものはおにぎりと緑茶……これは何ともグローバルやでえ……)と考えていたら、バーコードをスキャンする前にターバンが口を開いた。
「ごめんやけどコレとコレだけおにぎり、少ーし熱めにチンしてくれる?」
めちゃくちゃ流暢。びっくりするぐらい流暢。家族愛のことなんか完全に忘れるぐらいの滑らかな日本語でお願いされる。あとちょっと動揺してたら「お任せあれ!」とか変な返事してたんじゃないかってぐらい驚いた。こういうの実に困るからやめて頂きたい。ほんと笑っちゃうから。
買い物を終えて店を出ていく二人の背中に、ぼくは「中東の笛やん……反則やん……」と呟いた。
サッカーだかハンドボールだか覚えていないが、「中東の笛」という言葉は妙に耳に残っている。確かサッカーだったのではと、またしても仮定して話を進めるけど(調べろよ)、サッカーには少し因縁がある。
何年か前のワールドカップ、南アフリカ大会のとき、ぼくと神田さんはその話をしていた。
「あれだけサッカー上手い人って絶対モテますよね。特に日本だと学生の頃から、サッカー部のヤツはモテそうって風潮があるじゃないですか。それが、日本代表に選ばれるくらい上手な人だったら尚更ですよね」
「まーた僻みが始まったよ」
「だって考えてもみてくださいよ、日本代表じゃなくても、あの人たちがゴール決めて、スタンドにいる女の子に向かってですよ? お前のために決めたんだ、ラビュッとか言ったらもうイチコロでしょ」
「キモい……まっつんが投げキッスしてラビュッとかマジでキモい……」
ぼくの名誉のために言うけど、今世間で流行っている話をしていて、こんな男にはどんな女もイチコロだという仕草を忠実に再現しただけだ。何も間違ったことはしていない。なのに神田さんは肩を震わせて笑っている。
「いや実際そうでしょ。これがですよ? ぼくみたいな男がコンビニで、買い物のレシートの裏にキッスして、これ、お前のために出したんだ、ラビュッとか言ってウインクしても絶対ダメでしょ」
「もうやめて……キモいから……」
「笑いすぎでしょ。言ってることは同じでやってることが違うだけで、こうもモテ方に差が出てしまう世の中にぼくは苦言を呈したいわけですよ。彼らもぼくも同じ人間で、顔だって、目ん玉二つに鼻と口が一つってパーツの数も同じなんですよ?」
「無理だから……まっつん何やっても無理だから……」
「笑いすぎでしょ」
ふとした疑問を口にしただけで、親愛なる神田さんに何ゆえこうも笑われてしまったのか。是非にぼくはこれを因縁と呼びたい。呼び出して小一時間説教をしてやりたい。耳元でラビュッで囁き続けるぞ。
更に、因縁はもう一つある。
時間は高校生の頃まで遡る。
高校は公立ながらそこそこの進学校(だと思いたい)に通っていたのだが、未来の自分のビジョンを描くという目的で、将来の自分はこうなっているだろうというのを具体的に書け、といったレクリエーションがあった。
とは言ってもだ。もちろんその頃にはぼくの、顔のパーツの完成度はほぼ出来上がっていた。開いてるのかわからない覇気のない目に、しまらない口元。サッカー部にも入っていなかったので当然にモテない。いや、きっとサッカー部であってもモテなかった。イケてない、どころの話ではなかったからだ。
後に大学で知り合った、ぼくと似たような境遇で青春を過ごしてきた友人は、立ったまま足の先から腐っていくような高校時代だったと語ってくれたけど、まさにそんな十代を送っていたのだ。そんな彼と友人になれたのは引き寄せの法則だろう(そもそも引き寄せの法則って何ぞ)。
そんなぼくだから、ビジョンを描くのは簡単だった。五年後の自分は美人局に遭い、十年後の自分は結婚詐欺に引っ掛かると大真面目に書いて提出した。すると先生方から放課後に呼び出しをくらい、大真面目に説教された。今、三十路目前のぼくは残念ながら順当に、女性にフラれたことしかなく、きっともう頭の先まで腐っているはずなので、そこそこイイ線いってると思うのだが、世の中とは何とも理不尽である。
夢がなさすぎると結局書き直しを命じられ、(具体的なビジョンを描くレクリエーションじゃないのかよ!)と憤ったぼくではあったが、開き直りとは怖いものだ。
五年後のぼくは南アフリカ開催のワールドカップの応援に行き、そこで外国の女性と出会う。
十年後の自分は、ブラジルで開催されるワールドカップで、やはり現地まで応援に行った際、南アフリカ大会で知り合った女性と運命的な再会を果たし、一年の交際を経て国際結婚をすると、何ともまあテキトーなことを書いた。
今度は何とそれが褒められた。
真剣に書いたものが徹底的に駄目を出され、テキトーに書いたものが評価されるとは、つくづくやってられない世の中だと当時のぼくは嘆いた。でも、そもそも学校とは理不尽を学ぶために通うものだと聞いたことがあるし、三十路目前のぼくは今になってこれを許そうと思う。ナイスなミドルってほら、バーボン片手に葉巻咥えて何でも「許そう」って言ってるイメージあるし。これからは昔に遭った理不尽を片っ端から許していこう。因縁を乗り越えられる男、と書けば、何ともダンディなナイスミドルっぷりじゃあないか。
ちなみに腐り友達の彼とはたまにバーでお酒を飲むが、ぼくが頼むのはもっぱらカルーアミルクだという事実は棚に上げておく。だって甘いお酒じゃないと飲めないんだもの。
ところで理不尽に対して寛大なぼくは、今日も今日とて神田さんと話をしている。相変わらず彼女は机に向かって発注をしているし、ぼくは丸椅子に座って口を半開きにしている。話題はお客さんの買っていたスポーツ新聞の見出しで、サッカー日本代表選手の移籍がどうのと書かれていた。あれからラビュッ禁止令を出されたぼくとしては、特に言える感想を持たないけれど。
「そういえば、神田さんは誰のファンとかありますか? サッカー選手の、顔だけ見て。プレイスタイルとかぼくわからないんで」
「んー、誰々とか、あと誰々かな」
「おや、意外ですね。もっと甘いマスクの誰々さんかと」
「ああカッコいいとは思うけどね、好みってあるじゃん。まっつんは異性としてサッカー選手の人いないの? 好みの男」
「男のぼくに、異性として好みの男はいないのかって、すげえ質問ぶち込んできますね。そりゃこんな顔だったらなって羨ましい人はいますけど」
「んーん、そうじゃなくて好みの男」
「今日イチの笑顔でそれ聞いてくる神田さん好きですよ」
「まっつんのそういう、ブレないところはわたしも好き……じゃねえな、ただ気持ちわりいわ」
あくまでからかいたい、否、弄びたい、否、いたぶりたい神田さん。でも神田さんにいたぶられるのが好きなんですごめんなさい。
と冗談はさて置いて、せっかく色っぽい話になったので(なったのか?)ぼくは、この頃閃いたことを神田さんに報告してみた。
「神田さん、もしかしたら彼女ができたかもしれません」
「どしたん急に、え、ほんとに? もうまっつんったら、何でわたしに言ってくれんかったん? そんな素振りとかなかったじゃん」
「いや最近ね、どうやったら女の子と出会えるんだろうとか全然考えなくなったんですけど、これって逆に考えたら、自分でも気付かないうちに彼女できてんのかなって。もうできてるから、そういうこと考えなくなったのかなって」
「……聞こう。とりあえず。続けろ」
「神田さんも知ってる通り、ぼくって週に五日とか六日、ここで働いてるじゃないですか。それでね? 偶然ですけど、週に五日とか六日、記憶のない時間があるんですよ。たぶんその時間でデートとかしてるんだと思うんです」
「……記憶には?」
「ないです」
そうなのだ。ここで説得力を出したいので繰り返すけど、計算上あの日のぼくが描いた未来のビジョンでは既に、外国の女性と運命的な再会を果たしているはずなのだ。事実は小説より奇なり。こんな便利な言葉を言いたくなる。
「そう考えると毎日がすげえ楽しいんですよ。たぶんですよ、たぶんですけど、めっちゃ恥ずかしがりな彼女なんです。だからたぶん、鈍器的なナニかで毎回、ぼくの記憶を消してるんじゃないかなって」
「殴られ過ぎてハッピーなおつむになったんだね」
「ところがですよ、実は策士な一面もあるんですよ、ぼくの彼女。毎回物理的に記憶を消すことによって、いつでも新鮮な気持ちでデートを楽しんでるわけですよ、ぼくたちは」
「病院行けよ。頭診てもらえよ」
「チッチッチ、神田さん。大丈夫、そのへんの鈍器の扱いはプロなんで、ぼくの彼女。怪我とか一切ないんですこれが」
「じゃあもう精神科行けよ。カウンセラー案件だろ」
鈍器の扱いに長けた彼女なんて、普通の暮らしをしているとなかなか出会えない。けど、未来のビジョンによれば国際結婚をするはずなので、ぼくの彼女は当然に外国人だ。外国にならば、こういう人もいるだろう。うん、大丈夫。まだ説得力ある。
「ああ、ぼくの彼女って響き、いいですねえ! 次こそは顔を覚えてたいなあって思ってるんですよ。趣味とか何なんだろうなあ、パッチワークとか、もしかしたらブブゼラかもなあ」
「……ブブゼラ?」
「あのめっちゃ喧しい楽器、覚えてません?」
「いや全く」
なんと、社会現象にまでなったブブゼラを神田さんは覚えていなかった。こうなったらぼくが、うなじに漢字で「舞武是裸」って刺青を彫るべきか。いやそれは違うか。アマゾンとかで買ってプレゼントしてあげればいいのか。そっちだな。
ブブゼラ問題もぼくの中で解決を見たあたりで、優しい神田さんは鬱陶しそうに教えてくれた。
「もう、ツッコむのもダルいんだけどさ、まっつん。それ寝てるだけだから。記憶がない時間。お前に彼女とかいねえから」
「……は? いない?」
「その見え見えの芝居も鬱陶しいわ」
「いやだって、あんなにデートもしたのに? デート以外にも、こう、何かいろいろ、色っぽいこともしたはずなのに?」
「記憶には?」
「ないです」
「そこだけ真顔でテンポ良いのがムカつくんだよ。したはずなのにってのがもうおかしいでしょう?」
驚愕の事実が判明した。なんと、あれだけイチャコラしたはずの彼女がいなかった。顔も見たことはないけれど、可能性だけは信じていたのに、そもそも可能性ですらなかった。押し寄せてくる国際化の波に乗って、ぼくも国際結婚を遂げるつもりでいたけど、ただただ健全にぼくが寝ているだけだったのだ。でもある意味では良かった、まだ招待状の準備などはしていなかったから。
それでも、悔しい思いをしたことに変わりはないわけで。「ド理不尽!」とぼくが言うと、神田さんは真顔になって言った。
「どりふじんって何ぞ」