1.プロローグ
ピコン、という規則的な音が聞こえた。
消毒液の、少し鼻につく匂いもした。
全身が痛い。
薄ら目を開けると、白い天井が見えた。
ああ、そういえば、赤いセダンと衝突したんだっけ。
ここまできてようやく、彼―――伊吹弥栄は、自分が交通事故で入院していることに気が付いた。これまで健康そのもので一回も入院したことはなかった弥栄であるが、規則的な音、消毒液の匂い、白い部屋という状況下においては、自分の置かれた状況に気づくのは容易であったらしい。
意識が覚めてからしばらくすると、コンコンとドアがノックされた。間髪入れずにドアは開き、白衣を着た大柄な男と、看護師のような女が入ってきたのを彼はまだ明瞭ではない視界でとらえた。彼らは少し驚いたような様子であった。
看護師風の女はあわただしく病室から出て行った。大柄な男がゆっくりと話しかけてきた。何を言っているのかはよく聞き取れなかったのだが、何となく自分の名前を言われた気がしたので首を少し縦に振った。
しばらくその大柄な医師から彼自身の置かれた状況について説明を受けた。まだ少しはっきりとしない意識の中、三か月もの間眠っていたこと、家族がとても心配していたこと、また退院には少なくとも一か月はかかることはなんとか理解できた。
そうこうしているうちに、先ほど出て行った看護師が、眼鏡をかけたスーツ姿の男と、明らかに急に来たであろうという格好の女を引き連れて帰ってきた。おそらくこの二人が父と母なのだろう。
両親はしばらくおいおい泣いた後、医師から弥栄の状態について説明を受けると、これから何か欲しいものはあるかと聞いてくる。弥栄が漫画雑誌と、携帯ゲーム機を持ってくるように頼むと、両親は少し笑って、わかったよ、というのだった。
それから一か月はあっという間に過ぎていった。リハビリは順調に進み、すっかり身体の機能は戻ったように思う。そして退院の日がやってきたところで―――彼は、今病室の外で自分を待っている両親の名前が、病院から渡された書類の中に書いてある「伊吹弥栄」という自分の名前であるはずの文字列が、記憶の中のものとは全く違うことに気づいたのである―――。
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私たちが今自覚している世界には、大きな一本の道筋というか、「あらかじめこういう風に世界は進んでいく」という軸が存在していることを知っているのは、ごく一部の限られた生命だけだ。それを知る者は、この軸のことを「世界軸」と呼んでいる。
私はその世界軸を管理し調整する役割を持つ、「時守社」と呼ばれるもののうちの一人である。管理するといっても世界軸はめったなことが起きない限り揺らぐことはほとんどなく、多少の変動は世界軸が持つ自己修復機能によって自動的に調整されるようになっている。例えば朝にパンを食べるかご飯を食べるかといった些細な選択や、総理大臣が選挙によって変わったくらいの出来事は、自己修復の範疇で対応ができ、世界軸が大きく揺らぐことはないのだ。
しかし、例外的に大きな選択や出来事があると、世界軸の自己修復の範疇を超えることとなる。過去の例では火の発見、蒸気機関の発明、もっとも最近のことだと第二次世界大戦などが挙げられる。
ここで活躍するのが私たち時守社で、限度を超えたものに関しては世界に介入して調整したりだとか、世界軸を分岐させる(第二次世界大戦時には、連合国軍が勝った世界軸と、枢軸国側が勝った世界軸に分岐させた)などして対応するのである。この時に分岐した世界軸は並行世界として常に存在し続けていて、時として他の世界に干渉することがある。そのもっともたる例が今回のような―――「招かれざる客」の来訪である。
その者のこの世界軸における名前は伊吹弥栄。その青年は別の世界軸からの来訪者であり、この世界においては異質な存在であった。
だが、これまでそうした来訪者は世界軸からの影響を受けて、前からこちらの世界にいたかのように錯覚していた。つまり今回で言うならば、人格が入れ替わる前の「伊吹弥栄」として振る舞い、多少の違和感を伴いながらも普通に暮らし死んでいくようになっていたはずなのだが。
今回は少し違うようだった。彼がこちらの世界軸に来て四か月というところになる時に、どうやら彼は「伊吹弥栄」ではないと自覚したらしい。世界軸が大幅に揺らいでいて、自己修復の範疇を超えそうになっていた。
・・・このままではまずい。
私は重い腰を上げて、とりあえず彼に話しかけてみることに決めたのだった。
次回投稿は未定です。末永くよろしくお願いします・・・。
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