表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 佐藤敦

友よ、私はいま語ろう。

 美しい婦人が説教壇に立って、堂内の視線が一点に集まる。外では季節外れの風雨が激しい。まるで堪え難い産みの苦しみのようだ、救い主がお生まれになるまでにはあと数時間待たなければならないというのに。風雨が激しいのは外からの音で知れる、ものが倒れる音、風が窓を叩く音、遠くの海がごうごう鳴る音がする。壇上から、喜ばしい知らせを婦人は会衆へもたらそうとする。婦人はどこで生まれたのだろうか、黒い髪、白皙な肌理、涼しい眉根はどこか北の方、雪を頂く青い山岳と暗い海を思わせる。しかし、深い目庇の下で輝くふたつの燃える瞳。眉間は高貴な憂いを含んでいる。これがどうしても情熱的で扇情的な南海の島々を連想させやしないだろうか。婦人は神に愛されていると会衆は思う、神は美しい者、強い者、賢い者を愛されるからだ。創造の神秘を証しし、神の善をよく行うのはかような者たちだからだ。朝日のように、山脈のように、五色に輝く雲のように、婦人は尊ばれる。その婦人が読み上げんとする預言書も、婦人の口から出て、その権威はいや増しに増す。

 学生がひとり会衆に紛れている。顔はやつれているが目が輝いていて、壇上にいる婦人を見つめている。手元には聖書も典礼聖歌集もない、ただ懐手して座っているだけだ、一体彼は何をしているのだろうか。服の下で彼は自分の十指を確かめるが、確かに彼の手は婦人を覚えている。婦人の湿気と体温と吐息と、仄暗さ、ビロードの手触り、音消しのための音楽、あの音楽はなんというのだったか。彼は椅子の上であの夜を反芻するのだ。婦人との? 婦人は不貞を働いたのだろうか? 婦人が結婚しているか学生は知らない、招き入れられた屋敷は造作が良かった、あの屋敷を婦人が一人では維持し得ないだろう、もしくは大きな遺産があるのかもしれない、あの夜と、この夜、この一見矛盾し得ないかに見えるふたつが学生の精神にて一致し、何か聖的な者の訪れを受けたような感慨を学生は噛みしめていた。どうとでもなれ、彼はそう思った、このまま壇上に上がって、太った司祭を突き飛ばし、祭壇の上にある燭台や聖体ごとクロスをひっくり返してしまえ、全てを滅茶苦茶にしてしまった後に、婦人をさらって、彼の故郷、暖かい土地、ここと違って冷たい雨も雪も降らない山深い谷の、海に向かって開けた鮮やかな花が咲く寂しい漁村に連れ帰ってしまいたい、そう思って衝動的に立ち上がった。自然、そうすると会衆に頭ひとつ抜けた形になる、婦人の瞳が彼を捉えた。彼はその底知れぬ仄暗さを恐れた。

 娘が講義室で老人の話を聞いている。講義室はスチームで暖かい、管から幾筋も蒸気が漏れて、白熱電球に照らされて複雑な模様を描き、跳ね上げ窓を曇らせるのが見える。老人は人生の終わりに、彼の頭脳と彼の閉じた意味のつながりでなければ、ほとんど彼以外は理解できない孤独な価値の体系を際限なく語る。娘は老人の話を理解しているのだろうか? AがBであるのは彼の頭の中でだけであるというのに。つまり、彼のロゴスの対偶対照関係は、彼の複雑な人生遍歴の紆余曲折の襞からでしか導き出せないというのに。実は、娘は理解しようとしてさえいない、ただその言葉を一言半句たりとも聞き漏らすまいと注意深く耳を澄ましている。老人の学説を完成されたものとして、ひとつの「総体」として受け入れようとしている。老人の学説を閉じた体系として理解すれば、細部まで意味を持ったものとして理解できると信じているし、その意味で娘は、この孤独な頭脳の無意味な営為を愛している、娘はこの老人の名前さえ知らないが、これは愛がなければできないし、今夜はこの老人を愛するのが自分の使命であるような気がしている。もちろん老人には、自分のロゴスしか見えていない。結局、娘は講義室を出た後に、大学の門に乗りつけられた車の中で、迎えに来た若い実業家の腕に抱きすくめられた時に、過去一時間に聞いたことをタバコの煙が窓外に逃げると一緒にきれいさっぱり忘れてしまった。

 不幸な女がいる。彼女は春を鬻いで身過ぎ世過ぎをしている。女の家は貧しく、18歳になった秋に灰色の田舎町を抜け出てこの都市にやってきた。身寄りもいなかったし、道徳的に頽廃した故郷にとっくに処女を置いてきた、家にいても日がな一日惚けているほかやることもなかったし、彼女の唯一の資産と言っていい、その挑発的な美貌とすばらしいおっぱい、これが故郷の女友達たちを遠ざけた、真実を知るより何も持たない自分たちの惨めさを知らされず、内を向いていたほうが楽だったのだ、また鏡が女を傲慢で孤独にさせた、落ち葉をめくった時に湿った場所を好む虫が数知れず蠢いているのを見て鳥肌が立ったことがあるだろう、女は故郷の女友達をそういう目で見ていた。ここまで書けば客観的には女は不幸であると言える。秋口に駅を降りた女はひとりぼっちだったし、気候はどんどん寒くなっていったし、悪い男に騙されてこの仕事を始めたし、週に5人から10人の異性のオモチャにされているのだ。しかし女はそんなことなんでもないように、週に三回、事務所のソファに座って雑誌を読みながらタバコを吸って電話を待ち、指示されたホテルの一室へ行く。そのとき本当に感じることがある、因果なことだと考えることもあるが、頭の奥がジンジンするのは仕方がない。窓の外では町が輝いているし、親密な室内は暖かい、美味しい酒が出てくることもある、抱きすくめられてひっぺがされて言われたことをやってあとは向こうが勝手に死んでくれるだけだ。いつの間にか貯金がいくらかできたので、夜間大学で文学を学び始めた。同時に電脳空間で知り合った写真科の学生に自分の身体を写真に撮らせて、ポツリポツリと収入を得るようになった。彼女の祖母は花嫁衣装に身を包んだまま、雪をおして越後から九つの峠を越えて嫁に来た。祖母は死ぬまで女の家で暮らしていたが、女は祖母に似てむっちりした白い肌をしている、瞳は灰色がかっている。

 青年は思わず十字を切ってハッとした。晦に渋谷の単館で見たポルノ映画のワンシーンで男がセックスの際に音を消すためレコード盤に針を落としたかと思えば、掛かったのは「ディエズ・イラエ」だった。映画の中では、そのせいで女はグレゴリオ聖歌がなければ感じない身体になってしまった。女は神を信じていないし、絶頂に叫ぶのは男の名前だ、しかし聖歌を聞くとき女は濡れて悶える。女は「これを聞くと内に熱いものがこみ上げてきて、上から何かが降りてくるような気がする、身体のことだからどうしようもない」と言う、間違ってはいないと青年は思う。しかし、絡みでいい具合にムラムラしていたものを、聖歌が彼を乾燥した砂漠へ連れ戻し冷水を浴びせられたように興奮が冷めてしまった。どろどろした男の欲望を受容して一段と輝く、これは聖母というか観音様だろう、観音経の声明でも使ってくれていたらいいのにと、青年は灰色の町の冷気に頬を冷やしながら毒づいた、雪が降りそうだ。

 さて、話を前に進めなければならない、立ち枯れたいのでない限り私たちに立ち止まっているという選択肢は無い。都会の深海にこの店はある。窓はラグで覆われてしまい、薄暗さを和らげるのは天井からいくつも吊るされたガラス細工のランタンだけだ。ソファが向かい合ったり、並行したりしてフロアに置かれていて、全体がシーシャの煙でぼやけている。客が吐き出す白い濃煙と、機械から出るシューシューいう煙がそこかしこで上がるのが見える。青年はつい先刻から偶然隣の席に座った女と世間話をしている。「あなた神様を信じているの?」「信じています、というかそこにいるのです」女は口角をあげてにわかには信じがたいという表情を作った。「あなたの内面の話をしているのですよ、信じているかどうかと、神様が実際にいるかは関係がない問題ではないですか?」「うん、なんというか、説明が難しいのだけれど、黒子みたいにくっ付いているものなのですよ。ものの考えの前提なのです」「ふむ、それにしても、わたしには啓示とか救いとかは曖昧模糊として訳がわからないことを言っているようにしか思えないのだけれど」「そうだね、『不合理なゆえに我信ず』ですよ。不合理なものはそもそも理解するものではないという意味です。世界は意味のつながりに分節できるにしても、この膨大な世界を分節し尽くすには一生が千年あっても足りません、分節され尽くされていないものを全体として不合理なものとして受け入れる、これが信仰じゃないかな」女は、詭弁じゃないかなと口の中で自問してシーシャを肺いっぱい吸い込んだ、ごぼごぼという音とともに瓶に入れた真っ赤なワインに泡が立って、女は真っ白な煙を大量に吐き出した、学生も倣う、ふたりの周囲に暫く芳醇な霧が掛かった。「話題を変えよう、神様もイエス様もユダヤ人じゃない、異邦人に救いは来ないのでしょうか?」ああと思った、青年は型通りの答えを知っている、神様の話をしている以上、神様の論理で話さなければならない、郷に入りては郷に従え、文学的なモチーフとしての神には興味がない。「イエスがお生まれになったときに、これを最初に啓示されたのは東方、いまのペルシアの博士たちでした。聖書は初めから全世界に開かれている、もっとこのことについて話したい?」「いや、わたしが迂闊だった、もういい」女はにこにこした。

 ふたりがそそっかしかったために終電がなくなって、あるいは終電を無視したのかもしれないけれども、その日はちょうど金曜日で、クラブの入り口は楽しげに輝いていて、セキュリティの黒人は執事か門衛に見えないこともなくて、ここは夜を美しくしてくれる。入り口で女は「あなた神様なんか信じてないでしょう?」と聞いた、青年は神妙な顔で暫く考えて「信じていないよ、大の男が神様だとか言っている暇はない、もっと他に考えなければならないことがある」と答えた、女はにっこりして手を引いて長い廊下を奥へ奥へと誘って行く。そして、先頃大教授の講義を食い入るように聞いていた娘も、その時若い実業家とそこの壁際のVIP席にいたのである。クラブという場所は不思議なところであるが、この記述はご都合主義ではない。ここが偶然結びつけ、偶然結びついた男女がどういう人間であるか結果論的に順を追って説明しているに過ぎない、誰でも例外なく誰かである、誰についてでも語ることができる。そのとき中天には満月が掛かっていて、娘はそれに感応して生理だった。実業家もそれを知らずに娘と甘い一夜を過ごせるものとばかり思っていて、知った途端他の女に優しくしだしたのが娘には気に食わなかった、音楽で頭がガンガンするのも気にくわないし、フロアで蠢く有象無象も気に食わなかった、生理痛の薬を飲み下すためにショットグラスであおったテキーラは気分を悪くしたし、タバコの煙は単なる悪臭だった。要するに今回のは重かった。不機嫌な娘は仏頂面で葉巻をふかす、紫煙があたりに立ちこめ、実業家と他の娘たちが咳き込んだ、そんなことも御構いなしだ、ぶかぶかと吹き出す、ようやく苦言を呈されて、娘は拗ねる口実を与えられた、あんたは私のあそこにしか目がないんじゃないの、あたしのもこの子のも同じ穴よ、言われた通り股を開くだけ話が早いじゃない、そうして片手にショットグラス、片手に葉巻を持った娘はふらふらと旅に出た。パンティには血がにじんでいる、まるでスモークで霞んだ赤い空間が娘の秘所にまで染みてきたようだ。どこで何を間違ったんだろう、と娘は考える。そのすぐ脇を女と青年が楽しげに通り過ぎた。

 同じ頃、程近い大学構内で、学生が研究室から出て分厚い法律書を小脇に抱えたままタバコをふかしていた。学生は大学に入って絶望的な気持ちになったことが一度だけある。図書館の地下書庫に入った時のことだ。地下書庫には文字通り膨大な数の蔵書が、数十年に一度棚から引き出されるかされないかという顔をして並んでいた。学生は大学に入ったからには学問で何か一事を成そうと意気込んでいたのであるが、学び終わるということはないと瞬時に悟った。蔵書は様々な言語で書かれていた、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、中国語、ロシア語、ラテン語、古語、漢文、そして様々な時代のものがあった、異なる時代ごとに用語法や文法とともに人々の精神の仕組みが大きく異なり、権威があるとされている本も読んでみればほとんど意味不明であることも一再ならずあった。そこには世の中に忘れ去られた本があり、一度も顧みられなかった本があり、排除されてきた本があった。彼が先ほど後にした研究所には一人の老人がいる、旧校舎の時代からの木製の本棚とそれを埋める膨大な本の山に囲まれて。老人は専門領域をすでに研究し尽くした、彼の理論は最高度に洗練され完成されたという確信を得た。そうして彼の蔵書は全て学生の所有に帰したのである。一両日中に宅配便で彼の狭苦しい下宿に全て送りつけられる予定になっている、そうしてカラになった本棚を、老人は生涯を費やした研究の果てで開けた全く新しい地平と未知の大陸に関する文献で埋めることにした。学生は彼の研究に注釈をつける仕事を向こう十年は行うだろう。老人の講義を単位の辻褄合わせのために取ったとはいえ、何かの縁だ、そう学生は煙を満月に吹き付けながら考えた。

 激痛と、額を焼く灼熱の太陽と、カナンの砂漠から吹いてくる風の中で彼は思い出していた、カナの地で彼が行ったことを。そこには彼の友人たちがいて、やさしい母がいて、親戚たちがいた、中庭に面した露台の上にはブドウの茂る棚があって、彼は幸せだった。婚礼の席で彼は最初の奇跡を行った。甕に満たした水を極上のワインに変えたのだ。ワインは新郎と花嫁を酔わせ、一座を酔わせ、二人の幸せな門出を祝った。どこで間違えたのだろうと思った。世が世ならと彼は思った、しかしユダヤは異教のローマに支配されていたし、カイザリアには僭主がいて無責任な王が享楽に溺れていた。国中には貧しさから故郷を捨てた人々が流浪していたし、興廃した村々にははやり病が流行していた、人々が彼を放っておかず、とうとう政治的な(ポリティカルなという意味では公的な)生活へ押し出してしまった。

 ユダヤの習慣には、彼らがカナンの地に至ったその歴史の最も古いところから続いている儀礼がある。「犠牲の子羊」という絵画を目にしたことがある人がいるかもしれない。年に一度、最も年老いて病を得て弱った山羊に氏族全体の罪を着せて荒れ野へ放ち、神の怒りを避けようとするものだ。彼の頭上には一枚の木片が打ち付けられている、そこにはヘブライ語とラテン語で「ナザレのイエス、ユダヤの王」と書かれている。この木片が彼を決定してしまった、彼の全ての栄光と全ての苦悩や苦難をもたらした、聖典で彼は一貫してその呼び名を拒否しているにしても。そうでなければベツレヘムの肥沃な谷間で一生を一介の大工として過ごしていたのかもしれないのに。ユダヤの史家ヨセフスは、イエス(ヨシュア)という名前は当時どこにでもいたありふれた名前だとしている。だがしかし、やはりいくらそう考えても詮無いことだ、私たちの文明全体はすでに彼に負ってしまっている。ただ、彼自身はその力を、婚礼の席で足りなくなったワインを作るために使ってみたような善良な者である。そこに本当の姿が見える気がしてならない。

 さて、友人たち、私は棄教しようと思う。その理由はここで述べたつもりだが、非常に曖昧な内容になっているから、どうぞ部分部分を論ったりせずに全体として受け取ってもらいたい。不完全な人間のいいところも悪いところも全てひっくるめて受け入れることが人を愛することだとすれば、私を愛してもらいたい。私のいいところは誠実で折り目正しいところだが、悪いところは根本的な部分で嘘つきだというところだ。




























評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ