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(4)

 ルシファーは深夜の急な訪問者に瞳を丸くした。

 それでも迷惑な様子もなくいつものように朗らかに笑って、扉の奥へと招き入れてくれた。ルシファーの後ろで灯りを落とした廊下は暗く、海の底のように青く濃い夜が横たわっている。

 アスタロトは少し躊躇い、微かに吐息を落として玄関を潜った。主邸ではなく敷地内にある別邸で、彼女はそこを気に入って大抵はこの別邸にいた。

 唯一廊下を照らす銀細工の燭台をほっそりした手に掲げている。ルシファーは必要以上に侍従達が控える事を好まず、こうした行為も自分でやってしまう事が多い。

 だから、アスタロトは余計彼女に共感を覚えていたと言ってもいい。

 彼女が公爵の立場と自分自身とを両立させているのを見ると、力を貰える気がする。

 先代――アスタロトの母の友人だったが、彼女は今のアスタロトにも好意を(いだ)いてくれている。

「どうしたの? 急な相談?」

 今も屈託なく、透明な笑顔をアスタロトへ向けた。からかうような、軽やかな口調が彼女の特徴だ。

「あんまり遅い時間に起きてたらお肌に悪いわよ~」

「あ、ごめんなさい」

 咄嗟に謝ったのは、彼女の休息の邪魔をしてしまったと思ったからだった。時計の針はもう深夜の十二刻を回っている。

「あら、私はいいのよ、夜が好きだから。でも貴方は若いしね?」

 ルシファーはふわりと燭台の灯りを揺らめかせ、アスタロトに顔を寄せた。微かな花の香りが届く。小さな灯りに奇妙に大きく投影された黒い影が壁の上で揺れる。

 深い暁の色でありながら、透明な、風の色を思わせる瞳。果ての無い空。

「悩んだカオして」

 アスタロトの瞳を覗き込む。

 深紅の瞳に躊躇いと不安が浮かぶのを見て、ふふ、と微かに笑った。

「まあ座ってゆっくり話しましょう」

 再びふわりと背を向け、柔らかな布地の衣装の裾を引き、短い廊下を歩くと折れ曲がった階段を上がった。

 今は夜の闇でよく見えないが、壁や柱にもほとんど飾り気の無い、簡素な作りの館だ。

 のどかで鄙びた農村にありそうな。

 ルシファーは居間の扉を開け、アスタロトを先に入れた。

 もう寝室にいたのだろう、居間は暖炉の火も落ちて冷え込んでいる。

「ごめんなさいね、今暖かくするから」

「いいよ、気にしない」

 アスタロトはそう言ったが、ルシファーは暖炉へ首を巡らせ、ふぅっと唇から息を吹き掛けた。

 風が渦巻き、暖炉の中の薪が一本直立したと思うと、独楽のように回転を始める。

 チッと小さな音を立てて火花が散り、夜の中に赤い小さな光が生まれると、すぐにパチパチと音を立てて薪に火が灯った。

 炎はアスタロトの頬を柔らかく照らし出し、青い陰を少し払った。

「すごい……今どうやったの?」

「貴方の炎とは比べ物にならないけど」

 いたずらっぽく笑う。

「でも消す時はもっと簡単よ。酸素を断っちゃえばいいから」

 アスタロトは改めて感心した。火に関しては、他の四大公より抜きん出ているつもりだが、それでもルシファーは苦もなく火を灯して見せた。

 風の王。

 西方公はそうも呼ばれる。

 風は炎に力を与える。

(だから、母さまも私も、ファーが好きなのかも)

 アスタロトの様子を見つめ、ルシファーが微笑む。

「まあお座りなさいな」

 アスタロトは籐を編んで作られたゆったりした椅子に腰掛けた。

 座ると椅子はふわりと浮かび、床から少し離れて微かにゆらゆらと揺れた。

「揺り籠みたいでしょ。それとも海の中に浮かんでるみたいな感じかしら」

 法術ではない。やはりこれも彼女の力だ。

「落ち着くのよ。切り離されて」

「え、何?」

 周りを見回していたアスタロトは聞き返したが、ルシファーはまた柔らかい微笑みを浮かべた。

「紅茶が来たわ」

 かちりと扉が開き、湯気の立つ紅茶の杯を載せた盆が漂うように入ってきた。人はいない。

 今は彼女以外、この館には誰もいないのかもしれない。

「こんな事ばっかりやってて身体を動かさないと、太っちゃうかしらね」

 そう言いながらアスタロトに紅茶を注いだ杯を差し出し、自分も腰掛けた。

「さて、可愛いお嬢さんの悩みを聞こうかしら」

 柔らかい、誘うような口調にほっと息を吐く。

 昼からずっと、同じ事を考えていた。

 気にしないようにして、――でもどうしても気になって、こんな時間に訪ねて来てしまった。

 彼女なら、答えてくれると思ったから。

「その――皆が言うから気になって」

「皆? 何を?」

「皆って言っても、二人くらいなんだけど……」

 タウゼンとブラフォード――いや、エレノアも、かもしれない。

「別に大したことじゃないんだ、――笑わない?」

「保証はできないわね」

 ルシファーは唇を綻ばせた。

「う……」

「やあねぇ、冗談よ」

 この女性(ひと)は年齢不詳だ。見た目はアスタロトより十歳くらいしか上に見えないのだが、ずっと、永い間ずうっと、西方公としてこの位置にいる。

 ただ印象はアスタロトが幼い頃から変わらず、少女のようにも思える。風のような気ままさ。

「なあに?」

「え……と……、――例えば、ホントに例えばだけど……、正規軍将軍と、近衛師団総将って、結婚できないもの?」

 ルシファーは美しい瞳を見張った。

「まあ、あなたアヴァロンと結婚したいの? 渋い好みねぇ。でもちょっと渋すぎやしない?」

「違ーう! 私が言ってるのは……っ」

 つい口にしかけて、アスタロトは慌てて口を覆った。鈴を振るような笑い声が弾ける。

「判ってるわよ、レオアリスでしょ」

 はっきりと名前を出されてアスタロトの頬がさっと朱に染まる。

「ち、違っ、そんなんじゃ……でも皆言うからっ」

 皆。いや、はっきりとそう言ったのはブラフォードだけだが。

「そんなこと、何で言うんだろうって……べ、別に私はそんなこと考えてないのに」

「何て?」

 籐の揺り椅子から身を起こし、ルシファーは椅子の縁に両手を付いた。

「皆は何て言ってるの?」

 問いかける言葉は柔らかい。心を(ほぐ)すようだ。

「……できないって」

 そう言って、アスタロトは息を吸い込んだ。

「――王が、認めないだろうって……」

 口の中で消え入るような微かな声も、ルシファーには空気を伝って届いたようだ。

「王が――、認めない?」

 すうっとルシファーの纏う空気が冷えたような気がしたが、瞳を向けるとすぐにクスクスと喉の奥で転がる笑い声に変わった。

「そうねぇ、もしかしたら」

 ルシファーは再び椅子に深くもたれ、煌めく瞳でじっとアスタロトを見つめた。

「エアリディアル王女を降嫁させようと思ってたり?」

 アスタロトは束の間言葉の意味を考えてから、驚いて顔を跳ね上げた。

 くらりと椅子が揺れる。

「そ――そんな話、あるの?」

 夜の静けさの中で心臓が音を立てている。

 関係ないのに。

 エアリディアル王女の可憐な面が思い出され、鼓動はもっと早まった。

 優雅な立ち居振る舞いと言葉遣い。月の光を宿したような絹の髪に、王妃と同じ淡い紫の瞳。

 アスタロトより二つ下で今十五歳だが、聡明で優しく、アスタロトも彼女を好ましく思っている。

 貴婦人という言葉が彼女ほど相応しい者はない。貴婦人など少しも似合わないアスタロトとは違って。

 昼の園遊会でレオアリスが伯爵令嬢と話をしていた姿が思い起こされる。とても絵になっていた。

 多分それ以上に、良く似合うと思う。

 それにファルシオンが、レオアリスを兄のように慕っている。

 王がそう考えるのは当然のように思えてきた。

 どんどん考えを巡らせているアスタロトの心の中を見透かしたのか、ルシファーはいたずらっぽく瞳を閃かせた。

「やあね、冗談よ。そんなにびっくりしないで。まあ有り得ない話じゃあないけど――、それよりも、貴方にそれを言った人が何を言いたかったかは私も判るわね」

 聞きたいのか聞きたくないのか、自分でも戸惑った様子で椅子の中で身動いだアスタロトに、ルシファーはあっさりと告げた。

「要は貴方がアスタロトで、彼が近衛師団だからよ」

 アスタロトが唇を噛み締める。

「……どういう事? それが一番、判んないよ」

 ずっとそれを言われていて、例えば王がエアリディアルをと考えているならまだ判るが、それではどうしても納得がいかない。

 ルシファーはアスタロトの様子を見つめ、軽く息を吐いた。

「まだ表立って言える話じゃないから皆はっきり言わないのね。でもいずれはレオアリスがアヴァロンの後を継いで近衛師団総将に任ぜられるでしょう。そうなれば、近衛師団総将と正規軍総将の婚姻というのは、ちょっと有り得ないわね」

 有り得ない。

「――」

 レオアリスが近衛師団総将になるだろうとは、アスタロトもそう思って――確信している。

 皆が口に出さないのは、それが王の意志に依る事柄であり、王が明言しない限り言及を憚る事だからだ。

 けれど、だからと言って、何故、ブラフォードが言った言葉に繋がるのだろう。

「――どうして……? そ、そりゃ結婚とか、そんな事考えてる訳じゃないけど」

 何故「アスタロト」ではいけないのか。

 王が認めないのか――。

「うーん」

 ルシファーは溜息をついて見せたが、本気で呆れている訳でもないようだ。

「まだ子供ねぇ。――いい、常識的に考えてごらんなさい。近衛師団と正規軍、その最高責任者が婚姻を結べば、二つの軍事力が一極に集中する事になるでしょう。単なる個人の婚姻とは違う。国として認められないわ」

「――でも――、そんなつもりじゃなければ」

 話が大き過ぎて、上手く飲み込めない。

 軍事力の一極集中――

「そう考えるものよ、国はね。というよりは、そう考えられなくては、時に国を危うくする。何にしろ、容易く頷ける事じゃあないのは事実ね」

 だから、王は認めない、と――そう言う事なのだ。

 過去は払拭できるかもしれない。

 けれど、今アスタロトが立つ場所、そしてこの先立つ場所は変えようが無いものだ。

 アスタロトはずっとアスタロトのまま、そうでなくなる事などできやしない。

 そしてレオアリスにとって、王布を纏う事は王の全面の信頼を得る事であり、彼という存在そのものにとって、最大の喜びだろう。

 レオアリスが近衛師団総将に任ぜられる場合、アスタロトはそれを喜びこそすれ、止めさせたいなどとは全く思わない。

 ブラフォードやタウゼンが言った言葉は正しい。

「アスタロト」だから。

 炎帝公であり、正規軍将軍だから。

 だから、認められない――

 胸が心臓を掴まれたように痛む。鼓動が重く早い。

「貴方が、炎帝公じゃあなかったらね、多分全く違ったわ」

 椅子の中に落ちた影に青く染められた姿で、ルシファーが憐れみを含んで囁く。青い大気に乗って、アスタロトの心に届く。

 不安定にゆらゆらと、水面(みなも)のように揺れる。

「それとも、彼の主が王でなかったら」

 密やかな声なのは、それが成り立たない仮定だからか。

 レオアリスの剣が王を選んだからこそ、レオアリスは今王都にいる。

「でも、主は必ず一人とは限らないんじゃなくて?」

「――」

 ふっとアスタロトは肌が粟立つのを感じ、首を竦めた。

 それ以上考えるのは、何故か、少し怖かった。

「いいんだ、そんなんじゃないから」

 ルシファーはじっとアスタロトを見つめた。

「気持ちを隠したって意味がないわ。それは変えようがないものだから」

 アスタロトの心の中の葛藤を誘うように響く。ルシファーは密やかに微笑んでいる。

「……でも、本当にそんなんじゃないから」

「――そう?」

「帰るね、変な事聞いちゃってごめんなさい。ありがとう」

 アスタロトは逃げ出すように籐の椅子から飛び降り、ルシファーに頭を下げた。

「送るわ」

「いいよ、大丈夫。おやすみなさい」

「そう? おやすみなさい」

 揺り椅子の中で、ルシファーは白い手を振った。

 部屋を出ようと扉を開けた時、もう一度ルシファーの声がアスタロトを追った。

「でも多分、未来なんて変わるわ」

 振り返った先のルシファーの微笑みに、アスタロトは何故だかぎこちなく笑い返した。

「時に思いもかけない変化をするものよ」

 青い夜の影に沈んで柔らかく、密やかに微笑む。

「きっとね」

 囁く言葉を残して、扉が閉ざされる。

 自分で閉めたのかルシファーが閉じたのか、それも意識しないまま、アスタロトはしばらくの間ただじっとその扉を見つめていた。




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