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7 ウォール・オブ・ディナイアル

 結果から言えば、私はそのポール=サイモン氏が出演しているという深夜番組を観る事はできなかった。長湯し過ぎたせいで湯疲れしてしまい、放送まで仮眠を取ろうとベッドにもぐりこんだら、そのまま朝まで熟睡してしまったのだった。

しかも、愛用の目覚まし時計を壊してしまったために寝過ごしてしまい、ママに起こされるという、私にあるまじき大失態のおまけつき。

…情けない。これが「鉄血宰相」とまで呼ばれた女の所業とはまったく情けない。

やはり、朝は大切な時間だと再認識させられた。

朝は、一日の基軸を決める大切な時間である。

朝のうちから弛んだ気持ちでいれば、そのまま一日を無為に過ごしてしまいかねない。

私が壊してしまった、あの独逸製目覚まし時計の無骨なベルの音の様に、緊張感を伴うアラーム…いやアラート音こそが、朝のひと時には相応しい。

今朝はこの重なる大失態のおかげで、気分がすぐれなかった。

自己嫌悪だけが積み重なってゆく。

今は、愛おしい志賀君の顔を、一時でも早く見たかった。

…さすがの私も、多少は気弱になっているらしかった。

うん。今朝も校庭清掃の約束をしているから、彼も早めに登校してくるはずだ。

おそらく、彼は、(くだん)の深夜番組を観て、眠そうな顔をしているだろうな。

それでも、きっと満足そうな顔で、ご機嫌なのだろう。ふふ。

その、覚えたての新曲のメロディーを鼻歌で歌いながら、「自由の翼」号に乗って登校してくるに違いない。

正直な所、時にはうんざりさせられる事もある彼のギター談義だが、今朝は思う存分つき合ってあげようと思う。

楽しそうな顔の志賀君のお話を、私は笑顔で聞いてあげるのだ。

…そうなのだ。落ち込んだ私を癒してくれるのは、彼の笑顔しかない。

そんな事を考えているうちに、およそ5キロの通学路は、とっくに踏破していた。

気がつけば、私の目の前には通いなれた我が校の校門。

私としてはいつもより遅い登校時間だったが、校内にはまだ誰の姿もなかった。

これはあくまでも自主的な日課なので、誰に気を遣う必要もないのだが、体面を保つ事ができて安堵する。

――体面…?誰に…?

…もちろん私自身に、だ。

今朝の大失態から名誉を挽回するためにも、自らに課した日課を妥協させる様な、安易な真似だけは、決してしてはならないのだ。

自分の甘えに妥協してはならない。

生徒の範たる会長職を拝命したわが身の、これは「矜持」と言ってもよい。

生徒用通用口は、南側校舎の外階段を上がった2階に位置している。

会長権限として貸与された校内各所の鍵で、毎朝ここの鍵を開けるのも、そしてもちろん放課後に閉めるのも私の役目だ。

開設以来、まだ3年目の新設校の玄関の扉は、キィィ…と軽い音を立てて開いた。

私たち2年生の教室もこの階にある。

一度教室に行き、鞄を自分の席に置くと、私は再び外に出て、掃除用具が置いている物置小屋へと向かった。

志賀君はまだかな…?と駐輪場に目を向けたが、彼の「自由の翼」号はまだ留まっていなかった。

くす。よっぽど夢中で深夜番組を観ていて遅刻…ですか?

もっともまだ朝の6時半。一般の生徒はおろか先生方や部活の朝練組さえ登校していない時間ではあるのだが。

…よくよく考えれば、志賀君の協力はありがたい。この活動を自らに課した私ならいざ知らず、彼の参加はあくまでも自主的な物に過ぎないのだ。

私はそれを強要できないし、もしも彼に一言、「そんなのはもう面倒です」と言われたら、それを(なじ)る権利もない。

…にもかかわらず。

私と交際する様になってからの彼が、この日課を放棄した事は一度もない。

周囲が私と志賀君との交際を好意的に見てくれているのは、彼のこの献身に依る所も大きいのではないかと推測する。

そしてそれは、私にとっても喜ばしい事であるし、それ以上に彼との時間を共有できる事が、何よりも楽しかったのも事実だった。

もしも…もしも志賀君も、この私と同じ様な気持ちを抱いてくれているのだとしたら。

それは私にとって最大の喜び…いや待て、鮎子おねえちゃんと一緒にいられるという事が、「鬼橋 文」としての最大の幸福ではあるし…むむむ?これは甲乙つけ難い選択肢である事だな。

志賀君と鮎子おねえちゃん。

私にとってこの二人は、今や肉親と同等の大切な存在である。

今は亡き、実の姉にも匹敵する存在なのだ。

その二人に、置いてけぼりにされているのではないか…?という不安。

そう、私がここ最近感じているもやもやした感情、その根源はこの「不安」だった。

しかしそれは、私の臆病な懸念に過ぎないだろう…とは思っているのだが。

あの二人に限って、決してそんな仕打ちはしないと断言できる。

「絆」で結ばれている鮎子おねえちゃんはもとより、あのお人好しな志賀君が、そんな腹芸めいた器用な色事師の様な真似をできるわけもない。

そうだ。そうに違いないのだ。

…ああ、早く志賀君来ないかな。早く彼の笑顔が見たいのだ。

ちょうどその時、聞きなれた自転車の車輪の音が聞こえてきた。

―――来た!

「鬼橋 文」の聴力は、常人よりはるかに優れている。きっとまだ、校門までには数十メートルくらいの距離を走っている事だろう。

あの自転車の音が聞こえただけで、私の胸の鼓動は高まってきた。

私はいてもたってもいられなくなって、校門の外に飛び出した。

おお、やっぱり彼の「自由の翼」号だった!

そうなのだ。私があの音を聞き間違えるはずがないのだ。

その座席には、背中にギターケースを背負った、わが愛しき「彼氏」の姿。

まだ、彼は私の姿に気づいてはいない様だ。

私は彼の元に駆け寄りたい衝動に駆られた。

…いやいやいや、待て待て待て。

ここはひとつ、駐輪場の陰にでも隠れていて、自転車から降りた彼を驚かせてやろうか?

驚く彼を、私は精いっぱいの笑顔で迎えてあげるのだ。

そして、「昨夜は楽しかったでしょう?」なんて声を掛ける。

彼はきっと、最初は面食らった様な顔をするだろう。しかしすぐに私の言葉の意味を理解してくれて、それからは堰を切った様に、御得意のギター談義を始めるのだ。

私は、そんな彼の話を、楽しそうに聞いてあげる。

そんな私の様子に気づいて、彼はこう言ってくれるだろう。

『今朝の文ちゃん先輩、何だかご機嫌ですね』

…それはキミのおかげなんですよ…とは、さすがに恥ずかしくて言えないが。

…ふふ。朝から何とも楽しそうな時間になりそうではないか。

私はそんな妄想に浸りながら、まだ1台も止まっていない駐輪場の壁の陰に身を潜めた。

こういう時だけは、己の矮小な体躯が役に立つ。

…それ以外では、まるで役に立ってくれないが。

彼の自転車がやってくる音を聞きのがすまいと、意識を集中する。

む…今止まった…うん、スタンドを立てて…サドルから降りたな。

荷台から鞄を下して…歩き始めた。

…よし、今だ!私は陰から飛び出す。

「おっはよー志賀くぅーん!」

「…ほわっ!?あっ、文ちゃん先輩っ!?」

予想通りの彼の表情。

私はそのまま、彼に抱きついた。

まるで…というよりも、昨日の再現そのものだった。

自宅から自転車を漕いできたばかりの彼の身体は、火照っていて暖かい。

昨日よりもずっと汗の匂いが強かったが、それがなぜだかとても心地よい。

ごろにゃーん。私の仕草は、もはや主人に甘える仔猫の如くだった。

「…どっ、どうしたんですか?」

「おはようにゃん」

「にっ…にゃん?」

「……あ」

しまった。いくら仕草が猫化したとしても、語尾まで猫になる必要はなかった。

急に恥ずかしくなって、私は慌てて彼から離れた。

…何という軽率な行動を取ってしまったのか私は。

校内にいるのはまだ私たちだけで、誰の目にもとまらなかったであろう事だけが、せめてもの救いだった。

こんな所を誰かに見られでもしたら、生徒会長としての私の立場は地に堕ちる。

「…あー、こほん。おはようございます志賀君」

「お…おはようございます文ちゃん先輩」

志賀君はまだ呆気に取られていた。それもむべなるかな。

「き…今日も早いですね」

「え…だって文ちゃん先輩と約束してますから」

それを律儀に守ってくれているのかキミは。

何と健気な少年だろう。そんなキミを彼氏にできた私は幸せ者だ。

「き…今日もお掃除、頑張りましょうね」

「あ…はい」

…何となく、気のない様な返事をするのだな。

私たちは、掃除用具を置いてある物置小屋に向かった。

いつもの様に扉の鍵を開ける。

一瞬、昨日の様に鮎子おねえちゃんが潜んでいないかと身構えたが、さすがに今日は何事もなくてひと安心。

彼に竹箒を手渡してお掃除開始。

志賀君は、どことなく大人しかった。どうしたというのだろう?

毎朝掃除を続けているおかげで、さほどのゴミも落ちてはいない。ちょっと前の時期までは、落ち葉を集めるのにも苦労したものだが。

これがもう少しすると、今度は桜の花びらが舞い踊る様になって、美しくも手間のかかる季節が訪れる。

それはそれで、作業も楽しくなるとは思うが。

掃除もひと段落ついて、彼が掃き集めたゴミを、私が塵取りで集める段階になった。

この作業中、二人の距離が最も近くなる瞬間だ。話題を切り出すのは今しかない。

「ね、志賀君?」

「あ、はい?」

「昨夜の深夜番組、楽しかったですか?」

「あ…ああ、あれですか…」

どうしたのだろう。彼にしては元気がないな。

「ポール=サイモン氏、出演していたのでしょう?」

「ええ…まあ」

彼はため息をついた。

「…楽しくなかったの…ですか?」

「いいえ、そんな事はないですよ。彼のこれまでの映像とかも流してましたし…もちろん新作アルバムのライヴ映像もありました…でも…」

…それにしては、あまり元気がないな。内容に不満でもあったのか。

「…でも?」

「新曲の…『追憶の夜』って曲なんですけど、ポール、エレキ・ギター弾いてたんですよ」

「エレキ・ギター…?」

「ええ…よりによってエレキ・ギターなんです」

…どういう事なのだ?彼の言っている意味が理解できない。

「エレキ・ギター…エレキ・ギターじゃダメなのですか?」

「うーん…ダメってわけでもないんですけど、ちょっと違うなーって…」

「違う?」

「これまでは、ポール=サイモンといえばアコースティック!みたいなイメージがありましたからねえ…何だか裏切られたって感じで…」

「え…でも、エレキ・ギターもアコースティックも、ギターはギターじゃないんですか?だって弦も同じ6本ですし、弾き方だって…」

「全然!違いますよ!」

彼は声を荒げた。何だ?私は間違った事を言ったというのか?

「違うって…でも、どちらもピック…でしたっけ?あれでじゃかじゃか弾いて音を鳴らすのでしょう?私には区別がつきませんが」

私の当然の疑問に彼は、はぁぁぁ…とため息で応えてきた。

「文ちゃん先輩。文ちゃん先輩はもうちょっと理解ある、聡明な人だと思ってたのですけど…」

な…何を言うのだキミは?

「いいですか?エレキとアコースティックって、形は似てますけど、弾き方も用途も、まったく!全然!違った楽器なんです。一緒にしないでください」

「え…でも、どちらも弾きながら歌ってる人がいるのですし、そんなに大した違いなんてある様には見えませんよ?」

「あーあ。文ちゃん先輩って、何も見てないんですね。アコースティックは音を歪ませて弾きますか?バンドの伴奏もなく、エレキ1本だけで弾き語りする様な歌手がいますか?」

「…そ…そんなの私が知るわけないでしょう?ギターの事なんて、私は素人なのですし」

「だったら、そんな想像だけで言わないでください!これだから素人は」

ぷつん、と私の心の中で何かが切れる音がした。

キミはいつだっていつだって…いつだってギターの事ばかり。

そんなにギターの事が大切なのですか。

…私よりも…この私よりも…?

「…志賀君」

「何ですか文ちゃん先輩」

「ひとつお聞きしたいのですけれど」

「はい?」

「キミは、何で私の唇を奪ったんですか…?」

「え…?」

「あの時、私の事を好きだと言ってくれたのは…あれは嘘だったんですか?その場しのぎの命乞い、ただの時間稼ぎの出まかせだったんですか…?」

あの時。たしかに私は彼の命を狙っていた。自らに掛けた暗示のせいで、それは完全な殺意以外の何物でもなかった。それを崩してくれたのは、彼の口づけと告白だったのだ。

「え…ええ…?何で今さらそんな話が出てくるんですか?」

「…今さら…?」

「だって、今はギターの話をしていたのに、何であの時の話になるのか…って」

「分からない…?分からないのですか…?」

「だって関係ない話じゃないですか」

「ふーん。そうですか。関係ない話なんですね。じゃあもうひとつお聞きしますね」

「あ…はぁ」

「もし…もしもですよ?私がそのギターを捨ててって言ったら、キミはどうしますか?」

「はぁ…!?そんな事できるわけがないでしょう?いくら文ちゃん先輩の頼みでも」

「そうですか。できないんですか」

「できるわけないです!」

あ。そうか。そうですよね。やっぱりそうですよね。キミの答えは、実はとっくに分かっていたのですよ、私は。

「ホント、文ちゃん先輩ったら、冗談でもそんな事言わないでください」

ほー、私は冗談を言っていたのですか。気がつきませんでした。

私はすぅ…と息を吸い込んだ。

「そんなに大事なギターだったら、そのギターにキスしてればいいじゃないですか!私なんかじゃなくて…こんな面白味のない私なんかじゃなくって!!」

「え…えええっ…!?」

「ばーかばーか!志賀義治のばーか!おたんこなす!トウヘンボクのスットコドッコイ!」

「あ…あの、文ちゃん先輩…?」

「文ちゃん先輩って呼ぶなこの朴念仁!」

私は彼に背を向けて駆け出した。

何だろう…目の奥がすごく熱い。

すごく熱くて……悲しい。

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