6 ワン・トリック・ポニー
「おかえりーっ…て、文ちゃんどうしたの!?」
帰宅した私の顔を見るなり、ママはそう言った。
「…別にどうもしてませんけれど。私の顔に何かついてますか?お母さん」
「おっ…『お母さん』ですって…!?ホント、どうしちゃったの!?」
ママは私の両肩に手を置いて、再度聞いてきた。
「ですから、どうもしてませんってば。お母さん」
「……!?」
ママの顔色が変わったかと思うと、いきなり玄関先に走って行った。
何事だというのだろう。
…じーごろ、じーごろ。
む、ママはどこかに電話しているみたいだが。
『もっ、もしもし御主様っ?私です唯ですっ!』
…む?相手は鮎子おねえちゃんなのか?
『…ああはい、いつもお世話になってますけど、今はそれどころじゃなくってぇ…』
本当に、ママは何を取り乱してるのだろうか。
『大変なんです!文ちゃんが…文ちゃんが悪い子になっちゃいましたあっ!』
…………はあぁぁぁぁ…!!??
マっ、ママは何を言っているのか?
私は慌てて駆けつけた。
最初に目に入ったのは、うろたえながら受話器を握っているママの姿。
よく見れば、目にはうっすら涙まで浮かべているではないか。
私はママの手から受話器を奪い取った。
「もっ、もしもしおねえちゃん!?」
『あー、文ちゃん?どうしたの?家に帰るまでに不良グループでも結成した?』
電話の向こうの鮎子おねえちゃんの声が、明らかにこの状況を楽しんでいるみたいに聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
「そっ、そんなわけないでしょお!」
『くす。ご機嫌ななめみたいだね』
「そんな事ありませんってば!」
『そうカリカリしないでよお。別に志賀くんを取ったりしないから』
かぁぁぁぁ…
志賀君の名前を聞いた途端に、顔が熱くなるのを感じた。
私の気持ちを汲み取ってくれているのは、さすがはおねえちゃんだと思うのだが。
私が仲間はずれになっているのを気にしている事は、ちゃんと分かってくれているのだろう。
…とはいえども、こんなストレートな切り返しには、どう対処していいのか分からない。私は機転が利く様な器用な人間ではないのだ。
『…だから、ね?いーこいーこ。…ちょっと唯ちゃんに代わって?』
私は俯いたまま、無言でママに受話器を差し出した。赤面したであろう自分の顔をママに見せるのが恥ずかしかったのだ。
「…うう…ぐすん。…お電話…代わりましたぁ…え?ああはい…そうですかぁ…
でもわたしの事、『お母さん』だなんて…え?あ、はい…分かりました…ぐすっ」
ママは受話器を切った。
あ、そういえば、私はママの事を「お母さん」って言ってたっけ。
志賀君にもからかわれたことがあったが、私は母の事を「ママ」と呼ぶ…いや、
昔からそう呼ぶ様に、ママ本人から言われていた。
子供の頃は別に何とも思わなかったのだが、中学に入学した頃になって、周囲の子たちがみな、自分の母親の事を「お母さん」と呼ぶ様になってきた事には違和感を覚える様になった。その時はまだ「…よそのうちではそう言うんだぁ」程度にしか思わなかったのだが、決定的だったのは、父兄参観で作文を朗読した時だった。
私が自作の作文の出だしで「わたしのママは…」と第一声を発した時に起きた悲劇は忘れがたい。
…一瞬の沈黙の後、教室中を覆う爆笑の渦。
その渦の中心。爆心地が私だった。
もちろん帰宅した後、私は猛抗議したのだが。
…ママは、逆に開き直ってしまった。
「ママって言ってくれないのなら、ママはもう口をきいてあげません!」
ヘンな所で意地っ張りな我がお母様はそれっきり、私が折れるまで一週間、本当にだんまりを決め込んでしまったのだった。
私は鮎子おねえちゃんにも相談してみたのだが、おねえちゃんには、
「唯ちゃんは昔から頑固でねー、先代の文ちゃんですら、唯ちゃんには敵わなかったんだよ」
…などと言われてしまったのだ。
歴代の中でも最強と呼ばれた先代様ですら太刀打ちできなかったのならば、この私ごときが勝てるわけがない。
…もっとも、おねえちゃんに言わせれば、私の頑固な所は、間違いなくママ譲りなのだそうだが。
この顛末の後。わが鬼橋家の母親の代名詞は「ママ」で完全に固定したのだった。
…今ではそう呼ぶ事も、すっかり日常化してしまっていた。
時折、この言葉を何の衒いもなく口にしている自分に気づいて、無性に恥ずかしく
なるのだが、私の抗議はまだ一度も聞き入れられてはいない。
そんな経緯があったこのドメスティックな呼称問題だが、図らずも今、その暗黙のルールが破られていたのだ。
…私にとっては永年の懸案事項のひとつだったこの問題だが、達成感はなかった。
…いや。そもそも、なぜ私は「お母さん」などと言ったのだろう。
誓って言うが、これは決して意識的な発言ではなかった。
まったくの無意識。
私は、それほどまでに情緒が不安定だったのでも言うのだろうか。
ママはまだ、ぐすんぐすんと泣いている。
「あ…ママ、ごめんなさい。ちょっと動転していたみたいです」
呼称をひとつ変えた途端、ママの顔がぱぁぁ、と明るくなった。我が母親ながら現金なものだと思ってしまう。
「そ…そうよね?文ちゃんが悪い子になるわけないもんねっ?」
「その通りですよ。ですから安心してくださいね?お・か・あ・さ・ん」
「え…え…えええ…?」
呆気にとられているママを脇目に、私は自分の部屋に向かった。
「あの…文ちゃん?」
「ああ、私は今夜はご飯要りません。ちょっと疲れたので、このままお風呂に入って休ませていただきます。おやすみなさい、ママ」
「あ…うん。おやすみなさいね、文ちゃん」
…何だったのだろうか。
私は、ママが驚くほど、そんなにヘンな顔をしていたのだろうか…?
部屋に戻り、鏡で自分の顔を見てみた。
…いつも以上に気難しい顔の自分が、こちらを睨んでいた。
む…たしかに、これはママも驚くだろうな。
私は荷物を置くと、そのまま今度は浴室へと向かった。
脱衣所で服を脱ぐ。
制服をハンガーに掛けて、ホック式の簡易ネクタイを外す。
シャツのボタンに手を掛けた時、ふと思い立って、脱いだ制服をもう一度手にして匂いを嗅いでみた。
あれだけ強く抱きついたのだから、もしかしたら…と思ったのだが、残念ながら志賀君の残り香は分からなかった。
その直後に己の変態的行為に気づいて、慌てて制服をハンガーに戻した。
…誰にも見られていなかったろうな…?
誰に聞かれるでもないが、咳払いをひとつ。
気を取り直してシャツを脱ぐ。
目線を下にやれば、己が慎ましやかな突起物。
身長と同様、私のコンプレックスのひとつだ。
生徒会でいつも行動を共にしている兼子も真子も、女子としては背の高い方だ。
立場上、二人の間に立つ事の多い私だが、あの二人と並ぶと、どうしても私の背の低さが際立ってしまう。
「ツインタワーの間の平屋」。「ロンドン橋をくぐる船」。「山折り谷折り」。
どれも私たち3人を揶揄した表現だ。何が言いたいのかは推して知るべし…くうっ。
「FBIに捕まった宇宙人」とかいった表現も耳にしたのだが、これはまるで意味が分からない。分からないが、褒め言葉でない事だけは想像するに難くない。
生まれたままの姿になり、熱いシャワーを浴びる。
2月の冷え切った浴室の空気は、すぐに湯気で覆われた。この季節の群馬は風が強くて埃っぽい。おまけに乾燥している。
乾いた肌を優しく潤わせてくれる、この湯気が実に心地よい。
汗を流すと、私は湯船に浸かった。
「ふぅ……」
思わずため息が出てしまう。
体が温まってゆくにつれて脳細胞も活性化してゆくのか、今日一日の出来事がありありと思い出されてくる。
これは今日に限った事ではない。特に冬場は体が冷え切っている分、入浴による細胞の活性化の度合いが著しい様な気がする。
…志賀君にとって、私とは何なのだろうか。
彼と親密になってからの2ヶ月というもの、私はそれまで知らなかった、実に様々な事を知ることができた。
「鬼橋 文」として生まれ、その定めに生きる事を人生の第一義としてきた私は、その事については、何の苦しみも伴ってはいない。
それこそが、私が「私」としてこの世に生を受けた理由であり、意味であり、目的なのである。
「鬼橋 文は生まれた時から御主様のお傍に付き添い、仕え従い、そして死んでゆく」
志賀君と出会うまでの私は、それしか知らなかった。
他に生きる道を知らなかったのだ。
たったひとつの生き方しか知らない女。それが私。
他に選べる選択肢すら知らなかったのだ。人様の言う、「鬼橋 文は堅苦しい」という印象も仕方あるまい。
挙句の果てに付いた徒名が「鉄血宰相」で「アイアンメイデン」だ。
…何ともはや、いかにも堅そうではないか。
繰り返して言うが、その事について、私は苦痛と思った事はない。
選択肢をひとつしか持たない者は、他の選択肢の価値など想像もできないものだ。
17年間…特に鮎子おねえちゃんと出会ってからの私の11年間は、まさに「鬼橋 文として生きる」…それしかなかった。
―――ただし。
ただし、と付け加えさせていただく。
その11年間は、同時にかけがえのない、充実した物でもあった。
これも、「私」の人生なのである。
「鮎子おねえちゃん」に出会えた事は、私にとって喜びでもあった。
それは何も「鬼橋 文」としての使命だから…というだけではない。あの夏の日以来、この十年の間、私は常におねえちゃんの傍にいる事ができた。
ちょっと我がままで、自由奔放で、それでいて私を包み込んでくれる優しさを持った、「鬼橋 文」たちにとっての永遠のおねえちゃん…御主様。
御初様以来のすべての「鬼橋 文」も、きっと私と同じ様な気持ちを抱いていたに違いなかった。
記憶を受け継いでいなくても、確信できる。
鬼橋 文は、鮎子おねえちゃんが大好きなのだ―――と。
そうだ。「苦痛」などではなかった。
「鬼橋 文として御主様…鮎子おねえちゃんと生きてゆく」。
既定事項でありながら、慌ただしくも新鮮で充実した日々。
それは他の誰も経験できない、私だけの人生。
ただ、「それしか知らなかった」というだけ。
それが「四代目・鬼橋 文」の、これまでの17年間だった。
そこに、ある日突然飛び込んできたのが志賀義治君だった。
先にも触れたが、最初は「変わった下級生」としての、ささやかな好奇心からだった。
フォークソング部員でもないのに、放課後の屋上で、独り黙々とギターを弾いている不思議な下級生。しかも、聞けば彼は美術部員だったという。
…何故だ?
好奇心はやがて疑問へと昇華していった。
そこに、鮎子おねえちゃんという「接点」ができた。
さらに、当時私が抱えていた、とても大きな悩み…いや「後悔」の元となる出来事に、彼は関わってしまった。
私は、彼から何か解決の手段でも得られないかと、ここで初めて私の方から彼に接触してみた。
…ふふ。最初の頃は、彼も戸惑っていた事だろう。
何せ、校内でも悪名高いあの「鉄血宰相」が、よりによって彼を紋切り型で質問攻めにしてきたのだから。
…正直に言おう。
あの時の私は、自分の失態を償おうと必死だった。
倉澤さんを襲った怪物「泥口」を、この手で倒すための情報を得るために夢中だったのだ。
「泥口」―――この名前を知ったのも、志賀君からの情報だったのだが―――に襲われて九死に一生を得た志賀君から、何とか有力な情報を得たいと思った。
ところが。
当の志賀君は私から逃げようとしてばかりいた。今になっては笑い話の様だが、どうやら彼は、「鉄血宰相」の異名を持つ強面の生徒会長に目をつけられたと恐れをなしていたらしいのだ。
…いや、もちろん、彼が逃げていたのはそればかりが理由ではない。
ごく普通の高校生に過ぎない志賀君には、あの「泥口」という怪物との遭遇は、およそ現実の出来事とは思えなかったのだろう。それが、私があまりにしつこく質問したものだから、彼の脳裏の記憶を呼び覚ましてしまった。
正気を失い、ゲシュタルト崩壊一歩手前に陥った彼を前に、私は動転した。
倉澤さんに犯してしまった過ちを、私はもう一度繰り返してしまったのだ…と。
私は精神安定の呪文を唱えて、彼の理性を呼び戻すことに成功したのだが、その時、思わず本音が口から出てしまった。
『…私はまた過ちを繰り返してしまう所でした』
そう言った事を覚えている。
私の記憶では、これが彼に対して初めて口にした本音だった。それが堰を切った形となって、後はもう、押し殺してきた私の気持ちが、次から次へとにじみ出るだけだった。
核心部分こそ暈してはいたが、私の犯してしまった過ちや罪を、彼に告白したのだ。
そんな話は、それまで兼子や真子にもした事はなかったのだが。
初めて口に出した本音を、事情もよく分からないはずの志賀君は受け止めてくれた。
――ああ、この子となら、私はこんなにも正直な気持ちを話す事ができるのだ――
今にして思えば、この時私はすでに、彼の事を意識しはじめていたのだろう。
ところがその後。
倉澤さんの事件に、次第に深く関わってきた志賀君の存在が、私にとってプレッシャーとなってきてしまった。
事件の核心に迫りつつある彼に、私が犯してしまった過ちが露見してしまうのではないか…?という不安が生じてしまったのだ。
日に日に身近になってゆく、私にとって初めての「身近な男の子」。
そんな彼に、私の愚かな部分は知られたくなかった。
…思えば、この頃からだったな。私が彼に「敬語」を使う様になったのは。
もっとも、彼に対してははじめから「です・ます」口調を使ってはいたが。
これは私の悪癖なのかもしれないが、人に対する口調はいく通りかある。
私が敬語を使う相手は、まず当然の事として目上の方か、よほど親密で大切な存在か、あるいはよほど疎遠な方々くらいだ。
目上の方々へは「礼儀」として、大切な人たちには「敬意」として。
そして疎遠な方々へは、「慇懃」として。
決して「慇懃無礼」を働きたいわけではない。念のため。
ある程度身近な存在…たとえば兼子や真子たち生徒会の仲間には、見様によっては尊大に感じられる様な口調を使ってしまうのだが、兼子に言わせれば、これが一番私らしいのだそうだ。
…つまり志賀君への態度は、「慇懃」から過渡期を経ずして、ほぼ一気に「敬意」へとシフトしたのだった。
これは私としては異例の事態である。
私はそれまで、異性に対して、さほどの関心という物がなかった。
「鬼橋 文」として生まれた以上、異性へ関心を持った所でどうにもならない、とても根本的な事情があるのだが、これについては、私はどうでもよいと思っていた。
それに私自身の問題もあった。
この性格である。
こんな堅物で面白味のない女に、関心を持ってくれる様な奇特な男性がいるとは思えなかった。前にも触れた事だが、私にとっての「彼氏」とは、「神話か伝説上にしか出てこない存在」に過ぎなかったのだ。
それに…この外見も。
どういう因果なのか、私の周囲には女性的な魅力にあふれた知己ばかり。
鮎子おねえちゃんはもとより兼子、真子。亡くなった倉澤さんだって、明るくて人を惹きつける魅力を持っていた。
…男性を魅惑する様な容姿や肉感的な魅力。
書店に足を運んで棚に並んだ雑誌の表紙を見れば、洒落た服の芸能人やモデルの子たちが、これでもか!とばかりに満面の笑顔を浮かべている。
男性週刊誌のページをめくった事もあるが、あれは…その…何だ…何というのかな、あられもない格好のグラマラスな女性が、実に扇情的なポーズを見せつけている写真が、これまた目のやり場に困るくらいあふれていた。
…どちらも私には、決定的に欠落している物でしかない。
…たとえば、である。
この私がある日、志賀君の前で「せくしーなぽーず」を取って「うっふん」などとウィンクのひとつでもしてみたとする。
…………。
それがどういう悲劇的…あるいは喜劇的な結果を招くかは、想像に難くなかろう。
…堅物で面白味のない女。
それがこの私、鬼橋 文という女なのだ。
志賀君だって、そんな私よりも、趣味も合って魅力的な鮎子おねえちゃんの方が、一緒にいてずっと楽しいに違いない。
…そういえば、さっき二人が話していた、ポール=サイモン氏の新作とやらの題名はたしか「ワン・トリック・ポニー」とか言っていたな。
「One Trick Pony」。…「一芸のみの仔馬」か。
…何かで読んだ事のある慣用句だな。
サーカスなどで、たったひとつの芸しかできない不器用な仔馬。
面白味のない、つまらない仔馬。
その芸に飽きられたら、その仔馬の居場所はない。
「あは…まるで私の事みたいじゃないか…」
…ぴちゃっ。
湯船に水滴が落ちる音がした。
それは私の汗なのか、それとも瞼の奥から流れ出した物だったのか。
気がつけば、沈思黙考するあまり、いつも以上に長湯になっていた様だ。
…「ワン・トリック・ポニー」、か。
ややもすれば悔しい事だが、私もそのポール=サイモン氏の新作に、少しだけ関心が出てきた。
…遅くとも夜の10時には床に就くのが日課の私だが、今夜は少し夜更かしをして、志賀君の言っていた番組を観てみようか。
む…?これはなかなかいいアイディアかもしれない。
そうだ。無理をしてでもしっかりと番組を観て、明日の朝は、彼にその感想を言ってやろう。彼も喜んでくれるだろうし、何より「共通の話題」ができる。会話も弾むだろう。
うん。これはいいアイディアだ。
今夜はコーヒーでも飲んで、しっかりと起きていられる様にせねば。
…そもそも、「夜に弱い魔導師」など、格好のつく事ではないのだ。