5 夕方遅く、屋上で。
朝の校庭清掃と同様、下校時刻の校内見回りも、生徒会長就任以来、私が自主的に始めた事だったが、今では私にとっての日課となっていた。
思えば志賀君と初めて出会ったのも、あの日、巡回途中で屋上から聴こえてきたギターと歌声が気になって、何事かと行ってみたのがきっかけだった。
…いや、彼が放課後によくあそこでギターの練習をしていた事は、以前から知ってはいたのだが。
最初の頃は、どうしてフォークソング部があんな所で練習しているのだろうかと不思議に思った。なぜ音楽室を使わないのだろうか?と。
そのうちに彼はフォークソング部員ではなく美術部員である事を知り、疑問はさらに増した。…なぜ彼は、絵筆ではなくギターを手にしているのだろうか?
世にいう「幽霊部員」という存在なのだろうか…いや、そもそも彼は、なぜにフォークソング部に入らなかったのだろう。北側校舎の3階にある音楽室は、美術室の正に向かいにあるというのに。
その音楽室では、曜日交代で吹奏楽部とフォークソング部が使用している。
フォークソング部の部員たちが、音楽室で和気あいあいと合奏している同じ時間に、志賀君は屋上の片隅で一人、黙々とギターを弾いているのである。
一度、フォークソング部の子に、その疑問を問うてみた事がある。
彼の答えはこうだった。
『…ああ、1年の志賀ですか?前に誘った事があるんですけど、あいつ、”みなさんとは音楽性の相違があり過ぎるので”とか言って断られたんですよ。まあ、ギターの腕はそこそこあるとは思いますけど、ちょっと変わり者ですね』
そうか。彼は「志賀」君というのか。
その時、私はあの少年の名前を知った。
彼が本来所属しているという美術部の方にも聞いてみた。
あそこの副部長の倉澤さんは私のクラスメイトだったので、彼女に尋ねてみたのだ。
『え、志賀君?…そうねえ…はっきり言って、絵はそんなに上手くないよ?春先に描いた榛名山もどき、あれは凄かったなあ…悪い意味で。ホント、何でウチに入ったんだろうね。最近じゃあ部室にも顔を出さないし、今じゃ公認のユーレイ部員よ』
倉澤さんは呆れた様な声で笑っていたが、副部長としては、彼の事もそれなりに気にかけていた様でもあった。
その倉澤さんが…私のつまらない慢心の結果、あの様な不幸に見舞われてしまった事は悔やんでも悔やみきれない。
…そう。彼女の「死」は、私が招いたのだ。
彼女は、この土地の地下深くに古くから棲息しているという怪物を目撃した。
その事を知った私は、「魔導師・鬼橋 文」としてその怪物を退治しようと思い立ち、愚かにも倉澤さんを囮にしてしまったのだ。
…その結果。彼女はその怪物…『泥口』に捕食されてしまった。
無残な肉片と化した彼女の亡骸を前に泣き崩れる私の前に現れたのは「御主様」、鮎子おねえちゃんだった。
おねえちゃんはその「カミサマ」の力で、彼女を『元の姿』に戻してくれたのだが。
…それが、事態をより悲劇的な物にしてしまったのだった。
倉澤さんには、三度も「死」を経験させてしまった。
それも、最期の死は…無残な異形の姿になって。
「人外」のセカイは、「ニンゲン」の理の外側にある。
「魔導師」としての私にできるのは、彼女をこれ以上苦しませない事だけだった。
…しかし、私は生涯悔いるだろう。
あの事件の真相は、私と鮎子おねえちゃん、そして志賀君しか知らない。
彼は、私とはまったく異なった立ち位置から、倉澤さんの事件に係ってしまった。
彼の協力なしには、あの事件はもっと混迷していたかもしれない。
さらにつけ加えれば、あの事件を経た事で、私と彼の間は急接近した。
…窮地に陥った男女がお互いを意識しはじめるという、いわゆる「吊り橋効果」と
いう物なのかもしれないが。
もちろん、あの事件の後、私だけが幸せになってよいのか…?と落ち込みもした。
その私を救ってくれたのは―――
「…文ちゃん先輩?」
「ん…?ああ、どうしましたか?」
「どうしましたか?じゃないですよ。何か、考え事でもしていたんですか?」
志賀君は、私の顔を覗き込んだ。
背の高い殻が私を見下ろすと、まるで壁が立ちふさがっている様にも見える。
私の視界は彼で覆われてしまうのだ。最初は圧迫感めいた物もあったが、今では
むしろ、私を包み込んでくれている様で心地よい。
心の在り方次第で、こうも違った印象になるのだろうか?
また新たな発見ができた。
「…ふふ。ちょっと、キミと出会った頃の事を思い出してました」
もうずいぶんと前の事にも思えるが、彼と初めて会話を交わしたあの屋上での
一件から、実はまだ、ほんの二ヶ月程しか経過していない。
その間に、二人の間は予想以上に親密になったと思う。
そもそも、私に「彼氏」なる、神話か伝説上でしかなかった存在ができる…
などという事自体が奇跡の様な出来事だ。
「あー、あの時の事ですかぁ…」
彼はそれっきりで黙ってしまった。よく見れば、頬が幾分紅潮している。
きっと彼も、私の唇を奪った時の事を思い出してくれているのだろう。
くす。可愛い奴め。
目下、私とギター・ケースを背負った彼は、校内の見回り中なのである。
まあ、「見回り」などとは言っても、そう御大層な物ではない。
創設以来まだ3年目のわが校には、たとえば風紀の乱れとか手のつけられない
不良生徒とかいった問題は、そうそう起きてはいない。
先の倉澤さんの一件があったが、表向きは「恋愛問題を悩んでの自殺」という
事になっている。…新設校としては、これも十分に不祥事ではあろうけれども。
故に私のこの行為も、一応「見回り」と定義づけているのだが、実質その内容
と言えば、必要個所への施錠と電気関係のスイッチや火元の確認くらいである。
志賀君が私のこの「日課」に参加してくれる様になった当初は、廊下ですれ違
う生徒たちの注目を浴びたものだ。
「『あの』鉄血宰相が、よりによって彼氏同伴で歩いている?!」
このニュースは、生徒間に多大な衝撃をもって伝播したらしい。
彼の悪友だという…何と言ったかな、森竹君だったか…?彼などは、私を見る
なり「何で義治なんですかぁ…!?」と絶叫していたっけな。
…「私」が異性と談笑しながら歩いているという出来事が、それほどまでに
異常な事態だというのか…?とは、他ならぬ私自身も思っていたのだが。
「…えっと、あの、文ちゃん先輩?」
しばらくの沈黙があった後、彼はいきなり私の目を見て切り出した。
「む…何でしょうか」
「…実は、前から気になっていた事があるんです」
意外にも、彼の目は真剣だった。
「…文ちゃん先輩は、何で僕にだけ敬語なんですか?他のみんなに対するのとは、
明らかに違った口調になるのはどうしてなんですか?」
…おお。今朝、ママが言っていた、キミの悩みの事だな。
くす。安心してくれたまえよ志賀君。キミが懸念する様な事ではないのだよ?
ここは「おねえさん」であるこの私が、キミの悩みを解決して差し上げよう。
「…ふふ。気になりますか?」
「え…ええ、まあ」
「実はですね、キミの事が嫌いになった―――」
「ええっ…!やっぱり…!?」
「―――から、ではありませんよ?くすくす」
私としては、この浮かれ気味なギター莫迦さんに、ちょっと意地悪したくなったのだ。
…今の志賀君の顔と言ったら、くすくすくす。
「…脅かさないでくださいよお」
「ふふ。ごめんなさい。ちょっとキミをからかってみたかったのです」
「ひどいなあ」
キミだって私の事をそっちのけで、ギターにばかりうつつを抜かしているのだから、これくらいの事は大目に見てほしい―――とは、口に出さなかった。
「で、本当の所はどうしてなんですか?」
志賀君はちょっと真面目な顔になった。ママが言っていた通り、けっこう気にして
いるみたいだ。
「…私はですね、志賀君。…キミの事は特別に思っているのです」
「…特別…ですか?」
「はい。私にとって、キミはもう掛けがえのない、とても大きな存在になっているのです。それはそれは大きな、大切な存在です」
彼の顔が赤くなった。おそらくは、私の顔も同じ様な色になっている事だろう。
「そんなキミに、私は最大限の敬意をもって接してゆきたいのです。この言葉遣いは、その意志の表明と受け取っていただければ幸いなのですが」
私は彼をまっすぐ見つめた。
視線をそらすわけがない。照れて言葉を濁す必要もない。
この気持ちこそが、私の偽らざる気持ちなのだから。
そしてこの言葉は、私の決意表明でもあるのだから。
「…ホント、ONとOFFがはっきりしている人なんですね、文ちゃん先輩は」
志賀君は頭をかきながら苦笑した。
「僕は、文ちゃん先輩の『特別な存在』…なんですか。そのお気持ちは嬉しいです…でも」
「でも…?」
「でも、やっぱりちょっと堅苦しい気もしますよ」
…え?
「もうちょっと気楽に、肩の力を抜いてくれてもいいかなあ」
…何を言っているのだ、キミは。
「…そりゃあ、他の人たちに話す時の口調も、あれだって堅苦し過ぎるとは思いますけれど、僕と話す時くらいは、もうちょっと気軽に話してくれてもいいんですけど」
…私の敬意が…「堅苦しい」?「堅苦しい」と言うのか?キミが?
なぜ、私の敬意を分かってくれないのだ…?
その時の私は、一体どんな顔をしていたのだろう。
覚えているのは、体の奥底のどこかに、何かが熱を帯びた様な感覚があって、その熱が眼鏡の奥の瞳にまで滲み出してきた様な感触だった。
「あ…すみません。ちょっと気に障った言い方…でしたよね?」
そんな私の異変に、志賀君は気づいてくれた様だが。
彼は、私の肩に手を置こうとした。
その時、私の体は、反射的にぴくん!と小さな痙攣を起こしてしまった。
…え?拒絶したのか?私が、彼…志賀君を?…この、私が…?志賀君を?
私の肩に触れる寸前に起きたこの反応に、彼の手も止まってしまった。
気まずい気配が流れてゆく。
私だって、どうしてそんな反応を示してしまったのか分からなかった。
「…え?」
志賀君が、明らかに戸惑っているのが感じ取れた。
「…あ…ご、ごめんなさい。私、突然だったからちょっと驚いてしまって…」
私は苦笑した。
…それが取り繕いの物に過ぎなかった事は、私自身が一番よく分かっていた。
「い、いえっ僕の方こそ!ちょっと生意気な言い方だったかもしれません」
…生意気…?そんな事はない。そんな事はないぞ志賀君?
キミは私の口調が堅苦しいという。私がキミに、気を遣っているとでもいうの
だろうか。
逆に、キミが私に生意気な口をきいたというのなら、それはむしろキミの方が
私に気を遣っているという事ではないのだろうか?
キミは私にもっと甘えてくれていい。
…私もキミに甘えていたいのだ。
…だって、私たちは「すてでぃ」な関係なのだから。
…よぅし。
私は周囲を見回した。うん、今なら誰もいないな。
私はすぅ、と深呼吸すると。
「…えい」
彼の胸元に抱きついた。
「へ…?あっ、文ちゃん先輩…?」
私の突拍子もない行動は、よほど彼を戸惑わせているらしい。くすくす。
彼の幅広い胸の温もりが伝わってきて心地よい。
かすかに汗の匂いもするが、不思議と不快感はなかった。
あ…彼の心臓の鼓動も聞こえる。ふふ、高鳴ってる高鳴っている。
「あ…あのぉ…?」
「私を驚かせた罰です。キミも驚かせなくては不公平です」
「罰って…罰になってない様な気も…」
「いいの!これは私が決めた罰なのですから、キミは黙って受けてなさい」
傍から見れば、私が電柱にでもしがみついている様に見えたかもしれないが、
幸いな事に、この廊下にいるのは私たちだけだった。
この、駆け出しの恋人たちの甘い時間を、いま少し享受していたい。
む…?
すると志賀君は、私の髪の毛を優しく撫でてくれた。
反撃のつもりなのか?
…志賀君、キミはいつの間にこの様な高度なテクニックを身に付けたのだ…?
いや、こんな事は前にもあったが、今ここでれをしてくれるというのか?
「はぅ…」
ああダメだ。力が抜けてしまう。
身も心もふにゃふにゃになってしまうではないか。
腰も砕けてしまいそうだ…ぁ…
私は負けじと、しがみつく腕に力を込めた。
「…ぐぇ!」
む?何だその声は。この雰囲気には、少しばかりそぐわない珍妙な声だな。
「あ…文ちゃん先輩!ギブ!ギブですっ!」
見上げてみると、青い顔をした志賀君がいた。
どうした志賀君?いくら何でも、そこまで驚きの表情を見せなくても。
「そ…それサバ折り!ってかベアハッグですってば!」
「…あ」
私は、彼の胴を締め上げている己が両腕を慌てて放したのだった。
「うぇ…文ちゃん…先輩って…意外に力あるんですね…」
「日々の鍛練ですよ」
くす。お互い恋愛初心者の二人では、色気もあった物ではないという事か。
「…そんな所でいちゃついてるお二人さん。ねえ、まだー?」
聞きなれていた声が、天井から聞こえてきた。
「…うわほぅ!」
見上げた志賀君が、素っ頓狂な声を挙げた。
声の主は、やはり鮎子おねえちゃんだった。彼女は、首だけを天井板から突き
出して、逆さまになったままでこちらを見ていたのだ。
今朝方と同様に、またもや空間を自在に渡れる能力を使っているのだろうが。
…さすがにアレは、志賀君にはまだインパクトが強かったか。
「カミサマ」である彼女は、ほとんどの「物理法則」という物を無視する事が
できてしまう。
…何となれば、この「セカイ」は、鮎子おねえちゃんと存在を等しくするという
「カミサマ」が、深い深い海の底にあるという神殿の中で微睡ながら見ている夢の中の出来事に過ぎないから…らしい。
その「カミサマ」が目を覚ました時こそ、セカイの終焉が訪れるのだという。
巷では五島何某とかいう作家が、「何とか騙す」とかいう人物の予言を引き合いに出して、来る1999年7月にそれが訪れるとか言っているみたいだが、当の鮎子おねえちゃんに言わせれは、そんな予定はまるでないらしい。そういえば、「文ちゃんたちが大学生になる頃には、露出度の高い服着た女の子たちが、羽根の付いた扇子を振り回しながら、腰をくねらせて踊り狂う様な時代が来るよ」なんて事を言っていた事もある。
…何だそれは?その少女たちは、何かの宗教的行事に参加でもするのだろうか?
「あ、それと2回くらい、とっても大きな地震が来るけど、それは私のせいじゃ
ないからね」とも言っていた。…こちらの方は用心するに越した事はない。気を
つけておこう。
そんな(ほぼ)万能の「カミサマ」たる鮎子おねえちゃんの、目下のブームは
この「空間転移」らしい。
おねえちゃんの悪癖で、その人知を超えた様々な能力の使い方には、どうも偏り
…というか、その時々の「傾向」があるみたいだ。
先に触れた「予言」もそのひとつ。
私がまだ幼かった頃、おねえちゃんの言った、とある予言がとても恐ろしかった
ので、怯えてしまった事があった。
たしか…「浅間山が噴火する」とか言った内容だったと思う。
その予言を聞いた翌日には、本当に噴火騒動が起きたので、私は「御主様って
やっぱりすっごーい!」と、怖れつつも感嘆したのだが、これに気を良くしてし
まったおねえちゃんは、その後、事あるごとに予言を聞かせてくる様になった。
当時の私は、まだ政治とか経済の事は理解できなかったが、やれ「トイレット
ペーパーがなくなるよ」とか「そうりだいじんが代わるよ」なんてグローバルな
物から「あそこの家の猫が来年4匹の子供産むよ」とか言った至極ローカルな
話題まで、うんざりするほど散々聞かされたものだった。
それ以外にも、私が寝坊して学校に遅刻しそうになった時に、それまでやった事
もなかった「翼」を練成して、私を抱え上げながら猛スピードで空を飛んでくれ
だ事がきっかけとなって、それ以降は、夜な夜な蝙蝠の様な翼を生やして夜空の
空中散歩が日課になった…とか。
…もちろん、私もそれにつき合わされた事は言うまでもない。おかげで、私はすっ
かり風邪を引いてしまった。
そうなると、今度は「治癒能力」を使う事が一気に増えた。これは有難かったが、
私がたとえ38度の高熱を出して学校を休んでも、おねえちゃんの力で翌朝には
回復して何事もなかったかのように登校した事で、周囲から仮病の疑いをかけら
れてしまった事もあった。
…よくよく考えれば、私は昔からおねえちゃんに振り回されてばかりきた様な
気もしてしまう。…それも「鬼橋 文」としての宿命なのでしょうか?代々の
先達の皆様方?
「おねえちゃん!何て所から顔を出しているんですか!?」
「だぁーってぇ、いつまで待ってても、ちっとも来てくれないからつまんないん
だもん」
わが一族のお仕えする「カミサマ」は、少々ご機嫌斜めなご様子だった。
「だからといって、そんな所から顔を出す人がいますか!」
「あは。ゴメンね?わたし、ニンゲンじゃないから」
「そんな事は分かってますってば!誰かに見られでもしたら…」
―――また、「鬼橋 文としての使命」を果たさねばならなくなってしまうではないか。あんな事は、志賀君の時だけで勘弁願いたい。
…少なくとも、この校内では。
「あ、それなら大丈夫。意識を拡散させてみたんだけど、この校舎内に残ってい
るのは、今日はもう文ちゃんと志賀君くらいだから」
天井から首だけ突き出した鮎子おねえちゃんは、逆さまになったままでくすくす
と笑った。
…もう!またそんな事に「能力」を使っちゃうんだから。この確信犯。
もし、事情を知らない生徒がこの有様を見たら、きっと卒倒するだろうと思う。
「ねー文ちゃーん。はやく屋上においでよお。志賀君も」
「んもう!分かりましたよ。さあ志賀君、行きましょう!」
「あ…あの?文ちゃん先輩?鮎子先生…?」
私と鮎子おねえちゃんとの応酬に、ひとり取り残された形になった志賀君は
ただ戸惑っているばかりだった。…一般人としては、至極当然の反応であろう。
「志賀君。さ、行きますよ」
私は彼を促した。
…あ、また彼のネクタイを引っ張ってしまった。反省。
私たちは、「カミサマ」の待つ屋上に向かった。
実はこれも、ここ最近の私たちの「日課」のひとつとなっていた。
「待ってたよー」
さっきとはうって変わって、満面の笑みの鮎子おねえちゃん。
「…で?今日は何をやってくれるの?」
目を輝かせながら、おねえちゃんは志賀君に話しかけてている。
「うーん…そうですねぇ…『キャシーの歌』、なんてどうです?歌えますか?」
「あ、いーねぇ。わたしもあの歌、好きなんだ」
「じゃあ、それいきますか」
志賀君は、ケースから愛用のギターを取り出して調律をはじめた。
私たちの、放課後の日課。
それは校内の見回りの他に、もうひとつあった。
いつの頃からか、見回りの最後には必ずこの屋上に上がって、鮎子おねえちゃんと
待ち合わせて時間を潰すのだ。
これには目的がある。
私の知らないうちに、鮎子おねえちゃんと志賀君は、彼がギターを弾いておねえ
ちゃんが歌うという、ユニットめいた活動をはじめていたのだった。
どうやら二人は、音楽の趣味が見事なくらい合致している様子である。
おねえちゃんとはもう十年以上の付き合いになるので、その嗜好などはとっくに
把握していた。…ある意味、これも「鬼橋 文」としての嗜み…なのだろうか?
彼女は…彼女も、サイモン&ガーファンクルが大好きらしい。私が生まれる前に
渡米して、1960年代の半ばから70年代の中頃に帰国するまで、彼女は全米
各地を旅していたという。ポール=サイモンとアート=ガーファンクルの二人が
活動していたのは、まさにその時期だった。おねえちゃんに言わせれば、「あの頃
はどこへ行っても、聞こえてくるのはビートルズか彼らの曲だった」のだそうだ。
もちろん、1970年に解散してしまった彼らのステージも、会場で聞いた事が
あったという。この事は、志賀君が本気で羨ましがっていた。
思い返せば、この二人が意気投合したのもこの屋上だったという。
志賀君が、私たちの世代には少々古い時代のヒット曲であるはずのサイモン&ガー
ファンクルの曲に関心を持った事情は、実はよく知らなかったのだが、彼が以前
からこの屋上でギターの練習に勤しんでいた事は知っていた。
私と同様、鮎子おねえちゃんも彼のギターに関心があったという。…というよりも、私以上に興味を抱いていたらしい。
で、ある日我慢ができなくなって、こっそりと屋上に上がって彼の弾くギターに
合わせて歌ってしまったのが、二人の出会いだったのだ。
…その場に偶然出くわしてしまったのが、この私だった。
いわばこの屋上は、私たち3人にとって記念すべき邂逅の場所なのであり、今では
おねえちゃんの「聖域」である保健室と並んで、3人でくつろげる場所になってい
たのだった。
もうひとつの保健室の方では、おねえちゃん目当てで押しかける生徒たちで落ち着いて話もできないのに比べて、この、放課後の屋上は、私たちだけの空間である。
…人には教えられない「秘密」を共有しているこの3人だけでくつろげる場所、と
いう物は貴重なのだ。
…であるのにもかかわらず。
最近はこの場所も、実はあまり居心地がよい物でもなくなってきたのが、私の偽らざる心境なのだった。
鮎子おねえちゃんと志賀君は、実に楽しそうだ。
志賀君のギターは、あたかも鈴の鳴る様な美しい旋律を奏でているし、鮎子おねえ
ちゃんの歌声だって、どこまでも届く様な透明な響きが耳心地良い。
今二人が演奏している曲など、特に美しい曲ではあった。
…しかし、そこに私の居場所はない。
二人が演奏している間、私はただ横でそれを聴いているだけ。
最初の頃は、私の数少ない心許せる二人が奏でる数々の楽曲の美しさに、私も心
安らげるものがあった。
しかし、いつの頃からだろう。
私は、心の奥底に、何かもやもやした感情が芽生えてゆくのを感じる様になった。
演奏をはじめると同時に、二人は楽曲のセカイに行ってしまう。
私は置いてけぼり。
二人の演奏は美しく、聴く人の耳を引き込んでゆく魅力があった。
私の耳は楽曲に惹きつけられてしまうのに、心だけが置き去り。
鮎子おねえちゃんが歌う。
“ジ・オンリー・トゥルー・アイ・ノゥ・イズ・ユー”
…「キミだけが僕の真実」、か。
ね、志賀君。
私はキミの「真実」になれるのだろうか。
…じゃらん。
私が切ない想いに浸っている間に、演奏は終わった。
「…ふぅ…。やっぽいい曲だね、この曲」
フル・コーラスを歌い終えてご満悦の鮎子おねえちゃん。
「ですよねー」
こちらも満足そうな志賀君。
「でも、鮎子先生の歌があっての曲ですよ。うん、これは本家を超えたかも」
「くす。それは言い過ぎだよお。…文ちゃんはどうだった?」
「…え?あ、ああ、とっても良かったですよ?」
私はお座成りな拍手をした。
「…文ちゃーん。心のこもってない拍手は要らないなあ」
う…さすがはおねえちゃん。鋭い。
「え…そ、そんな事はないですよ?いい演奏でした」
うん。本当にいい演奏だった。
…心がとっても切なくなってしまうくらい、心に響いた曲だったのは間違いない。
「…ふぅーん。そう」
ちょっと気まずくなってしまって、私は話題を変える事にした。
「…そういえばおねえちゃん。今朝、物置で探していたのって、何だったのですか?」
「へ?ああ、大した物じゃないよ」
「でも、公共の物置に、私物は置かないでほしいのですけど」
「あはは。別にあそこに置いたってわけじゃないんだ」
「じゃあ、何であそこを探していたのですか?…わざわざ空間まで渡ってきて」
「うーん…もしかしたら、あそこに隠れてるんじゃないかなーって」
…む?「隠れている」?
今、おねえちゃんは「隠れている」って言ったのか?
…探し物とは、よもや生き物ではあるまいな?
「…あのう、さすがにペットとか生き物の類を、勝手に校内に持ち込むのは、生徒
会長としては看過できないのですけれど…」
「へ…?生き物?ああ、アレ、生き物じゃないから」
鮎子おねえちゃんはくすくすと笑った。
…「カミサマ」たるおねえちゃんだ。
その周囲にも色々と、人知を超えたクリ-チャーどもだって付き従ってはいる。
先日の一件の時だって、鮎子おねえちゃんは異界から「ナイト・ガーント」という
無貌有翼の真黒な怪物を召還した。
…あの時、アレと闘う羽目になったのは、実はこの私だったのだが。
「…また怪物騒動はゴメンですよ?」
「あはは。アレはそんなのじゃないから」
鮎子おねえちゃんは屈託なく笑ったが、彼女がこういう笑顔を見せた時に限って、
ロクでもない事が起きるのは、私の経験則から言って、そう珍しい事でもない。
―――そしてそれは、今回も―――
「あーそうだ、鮎子先生?」
ギターをケースにしまった志賀君が、思い出した様に言った。
「知ってます?今夜、テレビでポール=サイモンの特集があるんですよ」
「わぉ!それホント?どこで?何時から?」
「えっと…深夜の1時半からの…」
またもや同好の話題で盛り上がりはじめてしまう二人。…何なのだ、まったく。
…面白くない。
「そういえば、鮎子先生は新作のアルバム、もう聴いたんですか?」
「あー、”ワン・トリック・ポニー”かぁ…アレはねえ…」
「…志賀君!おねえちゃん!?」
自分でも驚くくらいの大声が出た。
呼び止められた二人は、揃ってきょとんとしている。
「そ…そろそろここも、鍵を掛けたいのですけれど?」
「えー、もうそんな時間?」
おねえちゃんは、明らかに不服そうだったが。
「…さ、志賀君も!…帰るのが遅くなっちゃうと、また何かの事件に巻き込まれて
しまいますよ?」
「あ…はい」
私は二人を追い立てる様に屋上から追い出すと、通用口に施錠した。
面白くない。
何だかとても面白くない。