3 魔導少女と女神のいる日常。
…救援どころではなかった。
事態はむしろ、悪い方向に向かってしまった様だ。
「…ししししししし志賀君!」
調子はずれの裏声が、私の口から勝手に飛び出してしまった。
思考能力は停止したままである。
「…はい?」
「ここここんにちは…ではなくて本日はお日柄もよく」
「…ちょ、かいちょ。何言ってんですかぁ?まだ朝ですよぉ?」
「そそそそんな事は理解しているしていますっ!」
私は融通という物が利く様な器用な性格ではない。咄嗟の機転が働いてくれないのだ。
「…あの、文ちゃん先輩?」
ギター・ケースを背負った志賀君が、怪訝な表情で私を見下ろしている。
私と彼との身長差はおよそ30センチある。
そんな彼が、私に覆いかぶさってくる様に見下ろすその様は、あの日、初めて唇を
交わした…奪われた時の事を思い出してしまう。
「あ…あ…あ…」
……。もうダメだ。何も考えられない。
私は志賀君の制服のネクタイをつかむと、一目散に走りだした。
「…あ、逃げた」
後ろからは、真子の呆れた様な声が聞こえてくる。
常人以上の聴力が、今は少々恨めしい。
「…うわちょちょちょっと文ちゃん先輩…?!」
覚束ない足取りで、それでも必死に私についてくる志賀君。
「今は何も言わないでください。呼吸を整えてますから」
「走りながらどうやって呼吸整えるんですかぁ~!?」
「鬼橋式呼吸術というのがあるんですっ!」
…本当はそんな物などありはしないが。
県道沿いの歩道を一気に駆け抜けて、気がつけば、私たちは校門を通過していた。
…もういいだろう。私は立ち止って振り向いた。
よし。もう真子の姿も見えなくなった。
「…ちょ…文ちゃん先輩…いったい…何だった…ん…です…かぁ…」
息も絶え絶えな志賀君。鍛錬を怠っているからそうなるのだよ?
「…いきなりこんな無礼を働いてしまった事は謝罪いたします」
私は素直に頭を下げた。
「しかし、こうせざるを得ない事情もあったのです」
「事情…?」
「はい。それはそれは深い事情です。重篤な事態を引き起こしかねない事情が」
「…どんな…?」
「…えっと…」
しまった。その先など考えていない。
「……」
志賀君は呆れた様な顔で、黙りこくってしまった。
…何故だろう。彼の考えている事が、手に取る様に分かる…気がする。
これも「以心伝心」という、「すてでぃ」な二人の間ならではの事なのだろうか。
…違う様な気がする。
「…あの、それはそうと文ちゃん先輩?」
「な…何でしょうか」
「…そろそろ、僕のネクタイ、放してくれませんか?」
言われて気がついたのだが、私はまだ彼のネクタイをつかんだままだったのだ。
彼と出会った時から、私は彼のネクタイをつかんで引っ張る癖ができてしまっていた。
もう何度も、事あるごとにこんな事を繰り返してしまっている。
わが校のネクタイは、通常の物と違って、シャツの襟元にホックで引っ掛けるだけの簡易型だ。無理やり引っ張れば、すぐに外れてしまう。
ところが、この私の悪癖で、彼のネクタイが外れたことはない。
何度目かの時に、それは引っ張る私に、彼が歩調を合わせてくれていたからなのだと気づいて、彼の事がいっそう好きになったのだが。
「こ…これは重ね重ね失礼を」
私は慌てて手を離した。
「…まあいいですけど…いつもの事ですし」
志賀君は苦笑した。その笑顔にもどきりとさせられる。
…む?
その時になって気づいた。
「…そういえば志賀君。自転車はどうしたのですか?」
そうだ。彼は、自転車通学だったはずだ。なのに今日に限って、彼はなぜ私の前に徒歩で現れたのだ?
そんな事にも気づけないでいた程、先程の私は動転していたというのか。
「あ…昨日の帰りに、パンクしちゃったんですよ。時間も遅かったし、今朝も文ちゃん先輩とのお約束があるから間に合わないので、珍しくバス通学です」
慣れないから疲れましたよ、と彼は笑った。
「『自由の翼』がないと不便ですよね。遠出もできないし」
「ふふ。上手い事を言いますね」
彼の物言いが面白くて、私は笑ってしまった。
彼は、その愛車に「自由の翼」号と名付けたそうだ。そのロック・キーには、私と
御揃いの達磨のマスコットのキーホルダーが付けられている。これは意図したわけ
ではなく、私も偶然同じ物を持っていたというだけの事だったが、二人の趣味が
合うという事も嬉しかった。
以前、その「自由の翼」というネーミングの由来を尋ねた事があったのだが、
彼は「それは文ちゃん先輩と大きく係っているんですよ」と、苦笑交じりに答えてくれた。
…そうかそうか。詳しい事情は分からなかったが、私は彼にとって、きっと「自由の翼」的存在であるという事なのだな。
何と可愛らしい発想をしてくれるのだろうか。
む…?もしかすると私は、彼に対して、たとえるなら子犬に向ける様な類の愛情を抱いているのだろうか?―――さすれば、彼のネクタイを引っ張る私の悪癖も納得できてしまう。
アレはきっと、子犬を散歩に連れてゆく様な意識が働いているのだろう。
ネクタイが、リードの代わりという訳だ。
…そこまで考えて、身長差を考えれば、むしろ子犬に見えるのは私の方だという事に気づいてしまった。
散歩に出た事が嬉しくて、飼い主を引っ張る様に突っ走ってゆく子犬。それが私。
…何という事だろうか。この身長差が恨めしい事この上ない。
「…どうしたんですか?」
「…何でもありません。年上の私は、身長の差なんて気にしないのです」
「へ…?何で自転車の話から身長差の話になるんです?」
「…あ」
…失点続きである。
どうも私は、彼の前になると、ヘンな方向に思考が傾いてしまう模様だ。
…これが民間伝承に聞く、伝説の「揺れる乙女心」という奴なのだろうか?
私にはまるで縁のない物だとばかり思っていたのだが。
そうかそうか。この私の元にもようやくやってきたのか乙女心。
…もっとも、対する志賀君も、これまでは女の子に縁がなかったという。
そんな彼に、異性の心の機微はまだ難しかったか。
「…乙女心です。分かってください」
「…………。はぁ」
志賀君の表情からは、まるで理解していない風が手に取る様に分かったのだった。
…ふぅ。私たちには、まだまだ色々と学ばねばならない課題が多い模様だ。
前途多難だとは言うまい。
そんな他愛ない話をしながら、私たちは北側校舎の片隅にある物置小屋の前まで
やってきた。
今朝は彼と、校内の敷地の早朝清掃をするという約束をしていたのだ。
これは別に生徒会長の職務のひとつ…というわけでもないし、ましてや生徒会に属しているわけでもない志賀君には義務でも何でもない。
私が会長に就任して以来、自主的にやっていた事を、最近になって志賀君も手伝ってくれる様になったのだ。
こればかりではない。彼は、同じく自主的にやっていた放課後の校内見回りも手伝ってくれる様になった。
さすがに私一人では手間のかかったこの見回り業務も、彼が参加してくれる様になってかなり楽になったのだ。
それに…彼と共に時間を過ごせるのが、何よりも楽しかった。
昨年末に私が彼の試験勉強を手伝ってあげた事もあったが、その頃から、すでに私たちの事は、校内でも「公認」となっていた様だ。
しかしながら、あの時点では、実は私たちはまだ交際などしていなかった。
文系科目はともかく、理系科目がまるで壊滅的な彼を、放っておけなかっただけなのだ。
…何せ彼は、元素の周期表を覚えるのに、「水兵りーべ僕の船」と「漢字」で書く様なレベルだったのだぞ?
あまつさえ、言葉の切れ目を「水兵」に「りーべ」と、馬鹿正直に単語ごとに区切る様な体たらくだったのだ。
「…いいか志賀君!『すい』は水素、『へい』がヘリウム、『りー』はリチウム、『べ』がベリリウム!単語ごとに囚われると余計に訳が分からなくなるぞ?」
「…いやだって、一番最初の『すい』は分かりますよ?次の『へい』も。でも…ええっと、5番目の奴ですか?『ボ』が何だか分からなくて…」
「『B』…?”ボロン”。ホウ素だ」
「じゃあ次の『ク』は?」
「『C』。カーボン。炭素」
「…何で4番目までその頭の音をそのまま使ってたのに、5番目から急に違う呼び名になっちゃうんですか?理不尽だ」
「そういう語呂合わせになってるのだっ!」
「『水兵りーべぼたん』でもいいじゃないですかぁ!?」
「む…ではその次の『N』と『O』はどうする?窒素と酸素だぞ?」
「ええっと…『ち』と『さん』?…『遅参』ではどうですか?『水兵のリーベは制服のボタンをかけ違えて遅参してきた』というのは?」
「む…では聞くが、その次の『F』はどうするのだ?フッ素だぞ」
「うーむ…『リーベは遅参してきたのに、フッとニヒルに笑った』?」
こ…この子は…
「…志賀君。私はキミを見捨てたりはしない。共に最善を尽くそうではないか」
…あの時、私はため息をつきながら、そう言ってあげる事しかできなかった。
ふふふ…あの頃はまだ、彼との会話もよそよそしかったな。
ママは親しい間柄に敬語はヘンだと言う。…でもそうだろうか?
私は彼の事を大切に思っている。掛け替えのない存在だと感じている。
掛け替えのない存在だからこそ、疎かにはできない。
最高の敬意をもって接したい。
そう。もはや彼は、私にとって失ってはいけない存在なのだ。
あの時、自らにかけた暗示で彼の命を奪おうとして―――できなかった。
あと一歩という所まで追いつめておきながら―――できなかった。
『…僕を…殺さないんですか?』
切実な顔で私に問いかけてきた志賀君。その時私の口から出たのは、
『殺します。殺しますから、もうちょっと待っててください』
…そんな言葉だった。
ふふ…あの時、すでに彼は私の心の中にしっかりと住み着いていたのだな。
「…何がおかしいんですか?」
その志賀君が、またもや怪訝そうな顔でこちらを見ている。
こんな彼の表情を見ているのも心地よい。
「…くす。何でもないですよーだ」
私はちょっと意地悪な気分になった。
この鈍感な後輩君が「乙女心」という物を察してくれる様になるまで教えてあげない。
「…ヘンな文ちゃん先輩」
…ふ。まだまだ子供だな、キミは。
私は物置小屋のカギを開けて扉を開けた。
この中に置いてある竹箒と塵取りと鮎子おねえちゃんを…………え?
「あっ、鮎子おねえちゃん…!?」
「ん?文ちゃん。おっはよー。今日も早いね」
がらがらと音を立てて開いた小屋の中には、なぜか鮎子おねえちゃんが―――いた。
「…何で鮎子おねえちゃんがここにいるんですかっ!?」
「ん?ちょっと探し物してただけなんだけどね」
鮎子おねえちゃん―――わが校の養護教諭、剣城鮎子先生は微笑みながらそう言った。
鮎子おねえちゃん…剣城鮎子様は、私の一族にとっての「御主様」である。
「御初様」以来、代々の「鬼橋 文」がお仕えすべき尊き存在。
カミサマと存在を等しくする御方だ。
人類の歴史の終焉まで、ずっと変わらぬお姿で、その移ろいを見続けるべく運命づけられた御方。
…埃まみれの白衣で、朝から物置小屋に籠っているその姿からは、崇高さの欠片も
感じる事などできないが。
「あれ?鮎子先生。カギは掛ってましたよね?まさかずっとこの中に?」
志賀君も呆れている様だった。
「うぅん。きたのはついさっきだよ?ちょっと空間を渡って入っちゃった」
「へー、さすがはカミサマ。器用な事できるんですねぇ」
彼は、先の事件がきっかけで鮎子おねえちゃんの秘密を知ってしまった。だからこそ私が、自らに暗示をかけてまで彼の命を狙う羽目に陥ったのだが。
…当の志賀君はおろか鮎子おねえちゃんも、秘密が露呈した事など些事だと、ロクに気にもしていない模様だった。
…これでは、律儀に「使命」を果たそうと悲壮な決意をした、私だけが馬鹿みたいではないか。
「で、探し物って何ですか?」
私の内なる葛藤も知らず、志賀君は呑気な質問をしていた。
「んー?大した物じゃないんだ、気にしないで」
この時鮎子おねえちゃんは、確かにそう言った。
その「大した物じゃない」逸品が今回の騒動を巻き起こす元凶になろうとは、神ならぬこの私たちには知る由もなかったのだ。
…そう、神のみぞ知る…いいや、この時は「カミサマ」である所のはずの鮎子おねえちゃんだって、きっと予想もしていなかった事だろう。
「それよりも、二人はいつものお掃除?ご苦労様。じゃあねー」
鮎子おねえちゃんはにこやかに手を振ると、そのまま物置の床に沈んで―――消えた。
ここにやってきた時と同様、また空間を渡っていったのだろう。
鮎子おねえちゃんの前では、どんな密室トリックも破綻してしまうに違いない。
「さ…さすがカミサマ。大したモンだ」
志賀君はしきりに感心している…いや、少しは驚いてもいいのだぞ?
最近のキミは、どうもオカルトとか超常現象に免疫ができ過ぎている気がする。
「好奇心、猫を殺す」という諺もあるが、好奇心を持って危ない橋を渡るのに慣れてしまった猫は、もはやそれが日常になってしまうのだろうか。
「…そんな事よりも志賀君。さっさと掃除を済ませてしまいましょう」
彼を促す私の声には、少々不機嫌な響きも混ざっていたかもしれない。
いくら志賀君が参加してくれる様になったからとはいえ、少人数で校内の全区域を掃除するのは容易な事ではない。遅れてやってきた真子もこの奉仕作業に参加してくれたのだが、それでも人手が足りるというわけでもない。
こんな時、副会長の兼子がいてくれれば、こんな作業も段取りよく仕切ってくれるのだろうが、残念ながら遠距離通学の彼女は、この時間にはまだ登校してこない。
今日は、南側と北側の両校舎の間が掃除の対象だ。
この南校舎側の1階には、鮎子おねえちゃんがたむろする保健室もある。
竹箒で地面を掃きながらそちらを見ると、鮎子おねえちゃんが窓辺で手を振っていた。
「あー、剣城先生!おっはよーございまーす!お早いんですね」
何も知らない真子が手を振り返す。
…あのにこやかな養護教諭が、ついさっきまであの物置小屋に籠っていたなどとは
露ほどにも思わないだろう。
その真子は、私たちとは少し離れた所を掃いていた。先ほどの続きとばかりに、またもや志賀君に根掘り葉掘り聞くものだから、私が遠のけさせたのだ。
…それにしても、鮎子おねえちゃんは何を探していたのだろうか。
まあ、大した物ではないと言うのだから、気にする必要もないか。
志賀君を見ると、何やら鼻歌など口ずさみながらゴミを掃き集めていた。
どうやら、彼の好きなサイモン&ガーファンクルの曲の様だな。
「…む?志賀君、何やらご機嫌ですね」
「あはは。分かります?」
「よほど良い事があったみたいですね」
「え…まあ」
「よろしければ、聞かせてくれないでしょうか?」
それが私の事だったりすると嬉しいのだが。
「実はですね、今夜やる深夜番組で、ポール=サイモンが特集されるみたいなんですよ」
彼が敬愛する、サイモン&ガーファンクルの方か。
何だ、私の事ではなかったのか。
「ソロになった後の彼が、日本のテレビで紹介されるのってけっこう珍しいんですよ。それに、ちょっと前に出た彼の5年ぶりのソロアルバム、僕はまだ聴いてないんですけど、その曲のライヴ・シーンも観れるとかで、もう楽しみで」
「そーですか。それはよかったですねー」
…ふんだ。私の事にも、もうちょっとそれくらいの情熱を向けてくれればいいのに。
「…文ちゃん先輩?何か怒ってます?」
「怒ってませんよ?別に。くすくすくす」
年上の余裕で、私は微笑み返して差し上げた。
遠くから私を見ていた真子が、なぜか箒を落として震えていたみたいだが。