2 ラヴ・オア・コンフュージョン
私は余程のことがない限り、徒歩で通学することにしている。
自宅から学校まではおよそ5キロ程度の距離だ。歩いて歩けないほどではない。
その気になれば…というより魔力を使えば一般道を走る自動車程度の速度で走る
ことも可能ではある。
つい先日も、とある事件で私は走り回ってばかりいた。
一度など志賀君を追いかけ、勢い余って校舎廊下の天井を、逆さまになったままで走ってしまった。度が過ぎた。いくら暗示にかかった状態だったとはいえ、あれは少々やり過ぎたと反省している。
これも、先代から引き継いだ「鬼橋 文」としての力のひとつだ。
…とはいえ、まだまだであろう。ママから聞いた話だが、全盛期の先代は急行列車を追いかけて、そこに飛び乗ったそうだ。記憶以外の知識や能力を受け継いだこの私にも、彼女と同様の力が秘められている…はずではあるが、いまだにその自覚はない。
第一…その、何だ、先代は背が高くて美しい女性だったという。
…比して己が姿を見つめれば。
身長はいまだに150センチに届くこともなく、体重だって40キロを超えたことがない。
目元にはお世辞にも洒落たとは言えない眼鏡…これは、実は伊達ではあるが。
そして一番の問題は…言いたくないが、己が胸部の慎ましやかなる突起物ふたつ。
…こればかりは鮎子おねえちゃんが心底羨ましい。
…志賀君の好みはどっちなのだろう?
むぅ…そういえば、彼は以前、こんなことを言っていた覚えがある。
『…胸、ちっちゃいんですね。でも僕はどっちかっていうとそっちの方が』
うん。たしかにあの時そう言っていたな。間違いない。
しかし…『そっちの方が』―――どうなのだ?
…肝心の続きが抜けているではないか。
疑問があれば即、解消!が信条の私だが、こればかりは、志賀君本人に聞くのも
はばかられる。
―――『志賀君。キミは、胸の小さな子は好みだろうか?』
……。そんな事を聞けるわけがない。
述語が文章の最後にくる、日本語の言語上の不備を感じてしまう。
むむ…?しかしその前に「でも」という言葉があったな。
この場合の「でも」は、「しかし」などと同様、後の文節に逆接の意をもたらすための接続詞であると想像できる。間違っても順接ではない。…ないと信じたい…という私の願望が極ごく少量、加味されているのは認めよう。
志賀君は…理系はまるで壊滅的ではあるが、その分、文系科目には目を見張るものがある。
その彼が、たとえ日常会話であるとはいえ、誤った文法を用いるはずがない。
それに彼の得意とする文系の「文」の文字は、他ならぬこの私の名前そのものではないか。
…いかんいかん。
思案に没頭できるのが徒歩通学の良い所だが、時には思考の袋小路に迷い込んでしまうのが難点であるのだな。
私のくだらない妄念の最後の部分だけは、単なる思いつきだとはいえ、ほんの少しだけ心地よい気分になれたのだが。
彼のことは別としても、この「鬼橋 文」という名前には「意味」が込められている。
鬼橋の家は、元をただせば戦国期に日本にやってきたスペインの異端派宣教師にたどり着くという。
紀州の勝浦の奥、熊野古道の奥地にある土地に居を構えた一族は、代々その地に定住し、「鬼橋」という日本名を称して人知れずひっそりと暮らして幕末を迎えた。
開国そして文明開化。明治の御代になり、私たちの一族もこの新しい時代に迎合していった。
「御初様」…初代の鬼橋 文が生まれたのは明治も終わりを告げ、大正という、西洋文化とこの国固有の文化とを、奇妙な配合で融合させた時代だった。
様々な異端の魔法を司っていた鬼橋家の中でも、彼女は特に優れた魔導師だった。
その彼女が外道と化した時、彼女の前に立ちはだかったのが「御主様」剣城鮎子…鮎子おねえちゃんだったのだ。
己が非道を悔やんだ彼女は、その後の人生を御主様に捧げた。
…いや、自らが死した後も。
神と同一の存在である御主様は、この世が終わる時までずっと人類の有様を見続けている。
その御主様をお守りすることを誓い、御初様は自らに呪いをかけた。
―――何度死んでも、自分は御主様の御傍でお守りする―――
ただし、これには大きな問題があった。
ニンゲン一人の人格・記憶は、膨大なデータの蓄積によって形成される。
その容量を一気に他の肉体に移植することなど不可能である。ましてや「転生」という手段で新しく生まれてくる赤子の中に、そんな情報量を流し込んだらどうなるか。
次第に己を蝕んでゆく病魔と闘いながら、彼女は悩んだ。
やがて彼女は、ひとつの方法を構築するに至った。
―――必要なのは、御主様をお守りしてゆくための力と知識のみ。それ以外の一切は切り捨ててしまえばよい―――
人生という膨大な経験の元に構築されてゆく人格や記憶などに較べれば、知識などほんの数パーセントしか容量を必要としない。
「余計な物」を削ぎ落とし、それだけを特化させた「転生」ならば何とかなる。
いわば、御初様は自らを削り落とし、「鬼橋 文」としての「核」だけを遺したのだ。
「知識と力さえあれば、経験の方はいずれ後からついてくる」という、紀州人らしい鷹揚さもあったのかもしれない。
この呪いを構成する為に、彼女は自らの名前を利用した。
「神と同一の存在」、「異形」「霊的存在」――すなわち「鬼」である御主様と。
「ニンゲン」の姿を表象した文字である――「文」。
彼岸と此岸。
対極に位置するこの二つの存在を結ぶ「桟」。
御初様は、自らの名前にそういった意味を持たせたのだ。
―――こうして、「鬼橋 文」は御主様の守護者となった。
先代の「鬼橋 文」が落命すると、一族の中からその力を受け継いだ女の赤子が生まれる。
下腹部に、その証である刻印を刻まれて。
四代目のこの私にも、もちろんそれは刻まれている。
分家に過ぎない私が、なぜ四代目に選ばれたのかは分からない。
もっとも、一族の中には「自分の家の娘が選ばれなかった」事に安堵する者も多い。
なぜならば、この運命を背負うためには、それに応じた負担もあるのだ。
「鬼橋 文」は、基本的には短命である。
御初様は別として、二代目は27歳、三代目は17歳でこの世を去った。
…私は何歳まで生きることができるのだろう。
それについての不安はない。「鬼橋 文とはそういう存在なのだ」と割り切っている。
そんな事は、生まれた時から「知識」として受け継いでいる。
私にとって、それは単なる既定事項に過ぎなかった。
所詮は取るに足らないこの命。
志賀君と出会ってからは、そんな達観が多少揺るぎもしているが。
それよりも、もうひとつ。今の私には切なくなる「負担」がある。
―――なぜ、「鬼橋 文」を受け継ぐ者が、直系でなくてもよいのか―――
それは――――――
「かーいちょ」
突然、肩を叩かれた。
見れば、我が生徒会の有能なる書記、1年生の水嶋真子だった。
彼女の名は「まこ」ではない。「しんこ」と読む。
聞けば彼女には双子の弟がいて、その名前が「真悟」なのだという。
「しんこ」と「しんご」。
…語呂合わせの様な名前だと思うが、どうやら姉弟の仲はよいらしい。
「なーにぼんやり考えてるんですかぁ?あ、分かった。最近できた彼氏さんのことでしょ?」
む?…確かに彼の事も考えてはいたが、指摘されると妙に気恥ずかしくもなる。
「あっははー!図星ですかぁ。いーなぁ」
「何を言う。私だって、いつも彼の事ばかり考えているわけではないぞ?」
「えー、だって最近のかいちょは、ずいぶんと可愛くなってますし」
「そ…そうなのか?」
「はいです。もう校内でも有名ですよ?まさかの『鉄血宰相』に、ひと足早い春がきた、とか」
「何だそれは」
「それとか『アイアンメイデンの棘がなくなった。後は優しいやさしい抱擁だけ』なんて声も聞いてますよー」
「鉄血宰相」に「アイアンメイデン」。
どちらも、この私に贈られたニックネームであることは知っている。
前者は我が校の生徒会長を拝命したこの私の職務に対する、そして後者は私の印象からきているらしいことも。
プロイセンの辣腕宰相に比されるのは、生徒会の運営を任される身にとっては誇らしくもある。…しかし後者の方は素直には喜べない。
「アイアンメイデン」。中世ヨーロッパの拷問器具の事だ。
「ヴァージン・オブ・ニュルンベルグ」とも呼ばれている。ドイツ語では「アイゼルネ・ユングフラウ」。
女性の姿を模したこの棺桶の様な形状の器具の内側には、無数の棘がびっしりと植え込まれている。この悪趣味な器具の中に放り込まれた哀れな罪人は、その蓋が閉じられると、無数の棘に圧迫されて…。
ご丁寧な事に、この器具の上部には笑みを浮かべた女の顔まで作られている。
「聖母の様な笑顔の処女に抱かれたまま、罪人は死に至る」…という、何とも悪趣味な道具なのだ。
時には辛辣な意見も口にしてしまう、この私を揶揄した悪評だと思う。
…少なくとも、決して好意的な呼称ではあるまい。
私は…というよりも私の一族は、この悪趣味な玩具にはあまりいい印象がない。
何となれば、かつて欧州の地で「異端」として断罪されたわが一族の祖先たちは、この厭らしい笑みを浮かべた女人像と無縁でもなかったからである。
真子が言いたいのは、そんなアイアンメイデンも、内側の棘がなくなれば…という事なのだろう。
「…ちょっと待て。棘がなくなったら何だというのだ?」
「えー?そりゃあ、狭い密室で男女がやる事と言ったら…えへへ」
「…む?」
「…お互いの肌が触れ合う狭い空間。気がつけば相手の熱ぅ~い息が首筋にふっ…ってかかってきて、ああ何だか胸が熱いくるしい…『文ちゃん先輩』『どうしたのだ志賀君?』『もうちょっと近くに寄っていいですか』『ああ、私も、もっとキミの温もりを感じていたい』『文ちゃん先輩?』『何だ』『文ちゃん先輩の瞳、潤んでますよ』『キミの胸の鼓動だってさっきから高鳴っているじゃないか』『文ちゃん先輩!』『志賀君…いや義治!』…やがて二人の唇はどちらからともなく接近して…うひょお~…!」
「…いい加減にしろぉ!!」
ぽかり。
私はこの不埒な後輩の頭を小突いた。
悲しいかな、私の身長では真子の頭に手が届かないので、少しばかり「力」を使わせてもらった。ご先祖様ありがとうございます。
「いったぁ~い!…って、今、かいちょ、2mくらいジャンプしてませんでしたか?」
「気のせいだ」
「えー?」
「心にやましい所があるから、相手に必要以上の恐怖を感じてしまうのだ」
「でも…だって…?」
「そもそも、だ。その様な不埒な行為を、この私が許すと思うか?」
「そりゃまー、生徒会長自らやっちゃあ…マズイですものね」
「当たり前だ」
「…じゃあ、その彼氏さんとは、まだ何にも?」
「き…決まっているだろう!?その様な破廉恥な事は…その…高校生としてあるまじき行為だ。…ましてやキスなど…私からは迫った事などない」
「私…からは…ですか?」
「む…?あ、ああ。その通りだが何か?」
「『からは』…なんですね?」
「む…無論ではないか。その様な事がある訳がない」
じゃあ、と真子は少々意地悪い顔になった。
「―――じゃあ、その志賀君の方からは求めてきた事があった、とか?」
「う…」
…しまった。迂闊であった。
先日の事を思い出してしまったではないか。
そうだ。あの時、私は半ば強引な方法で彼に唇を奪われてしまったのだ。
あの時は、暗示によって彼の命を奪おうとしたものの、彼の思わぬ反撃を受けて床に組み伏せられた挙句…奪われてしまったのだった。
そのお蔭で愚かしい暗示も消え失せ、彼を失うどころか、こうして彼と近づけたのだからそれはとても喜ばしい事ではあるのだが…
あの時の事を思い出すだけで、思考能力も働かなくなってしまう。
この時ばかりは、私は「鉄血宰相」でも「アイアンメイデン」でも、ましてや「魔導師鬼橋 文」でもない、ただの17歳の娘になってしまうのだ。
「あれ…?赤くなっちゃってますよかいちょ?…もしかして図星だったとか?」
…い…いかん。どう答えたらよいのだろうか。まるで頭が働いてくれない。
こら!私の頭脳よ、今我々は非常な危機を迎えている!こういう時こそ起死回生の策を提示するのだ!何のために日々勉強に勤しんで知識をインプットしているというのだ?
こういう時こそ仕事するべきではなかろうか?!
その時だった。
「あ、文ちゃん先輩!おはようございます」
救援の手が、意外な所から差し出された。
…いや、これを救援といってよいのかどうか。
私に声をかけてきた主は、今まさに話題になっている私の交際相手、1年後輩の志賀義治君本人だったのだから。
…あああ、頬の火照りが収まらない。