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結 月夜に舞う雪。そして――

「――まぁーったく、あの夜はどうしたかと思いましたよ僕ぁ」

志賀君が間延びした声で言った。

「もう過ぎた事です。それより志賀君、問題集の方は終わりましたか?」

「そんな、ちょっとくらいお休みしましょうよ」

「くす。じゃあ、あと5ページ分進めたら、ちょっとお休みしましょうか」

「うへぇ。…今日中に終わるかなぁ」

「キミの努力次第、ですよ」

彼は、再び数学の問題集を凝視しだした。

「…あー、象形文字なんかより、僕はこんな数字の羅列の方が分かりませんよ」

「そうですか?数式って整然としていて、とっても美しいじゃないですか」

「いやだって、象形文字だったら、まだ元のカタチが想像できるじゃないですか」

「それが何か?」

「数字なんてゼロから9までしかないのに、何でわざわざアルファベットなんてくっつけちゃうかなあ。全くもって理不尽だ」

「はいはい。そんなのは数学者に文句を言ってくださいね」

私は彼の頭を、丸めたノートで軽く小突いた。

 今日は私の部屋で、来たる学年末試験に備えたお勉強会。

年末の学期末試験で、理系科目に轟沈した志賀君を今度こそ「男」にすべく、前回に続いて私が教官を買って出たという次第である。

それからしばらくの間、私の部屋にはうんうん唸る志賀君の声ばかりが響いていた。

「ふぅ…。何とか終わりましたぁ教官殿」

「お疲れ様。…どれどれ…あーあ、ここ間違ってる。あ、ここも。ここもだ」

我が彼氏殿が「男」になるのには、まだいくつもの山を乗り越えてゆかねばならないみたいだ。がんばれ志賀君。鬼橋 文はキミをいつでも応援しているぞ?

そう――いつまでも。


 魔人形「慰撫」を葬った夜。私はそのまま志賀君の家まで駆けていった。

およそ10キロはある彼の家までの距離も、鬼橋 文の脚力ならば、ほんの10分弱で走破できた。

…彼はまだ起きているだろうか?それとも寝てしまったかな。

彼の家の前に立った時、私はそんな不安に駆られていたのだが、見れば幸いな事に彼の部屋の明かりはまだ点いていた。

実家が農業兼植木屋さんの彼の家の敷地は比較的広く、その中心に位置するお宅は平屋建てだった。彼の部屋はその一番東側の片隅だ。

なるべく音を立てずに部屋の前までやってくると、部屋の中から微かにギターの音が聞こえた。こんな夜中まで練習熱心な事だ。

気づいてくれるかな?と思いつつ、私は彼の部屋の窓ガラスを叩いてみた。

ほんの数十分前、魔人形が私の部屋を訪れたのと同じ様に。

こつこつ。こつこつ。

何度か窓ガラスを叩くと、部屋のギターの音が止んだ。

ああ、気がついてくれたみたいだ。

レースのカーテンが開けられて、ジャージ姿の志賀君が姿を現した。

私の姿に驚いた彼は、すぐに窓を開けてくれた。

「あれ?文ちゃん先輩?どうしたんです、こんな夜遅くに」

「…こんばんは志賀君」

「あ…ああ、こんばんはです、文ちゃん先輩」

「…ご両親は?もうお休みですか」

「ええまあ。ウチは朝が早いから、二人ともとっくに熟睡してるはずです」

「そうでしたか。…ね、志賀君。ちょっと私のお話を聞いてほしいのですが…お時間、いただけますか」

彼は何事かと驚いた様子だったが、私の真剣な顔に何かを察してくれたみたいだった。

「…ちょっと、外でお話ししましょうか。いつぞやのお礼に、今度は僕が缶コーヒー驕りますから」

「ありがとう」

私たちは、そのまま近くの自動販売機の所まで歩いて行った。

「今夜は明るいですね」

自動販売機にコインを落とすと、彼はそう言った。

「そうですね」

「あ、お好きなのをどうぞ」

「じゃあこれを」

私は一番右端のコーヒーを選んだ。適当に選んだはずのそれは、奇しくも以前、私が彼にプレゼントした物と同じブランドの物だった。

そういえばあの時キミは、すっかり温くなってしまったコーヒーを、美味しそうに飲んでくれたのだったっけな。

取り出し口から拾い上げたばかりの缶コーヒーは、あの時と違って熱いくらいだった。

「いただきます」

そう言って飲み口を開けたものの、なかなか口にすることができない。

私は缶を持ったまま、しばらく無言でいるしかなかった。

「…文ちゃん先輩?」

「はい」

「その…お話って…?」

「あ…うん」

何度か口に出そうとして…その都度言葉に詰まってしまう。

「……」

「別に、今夜話さなくてもいいですよ?文ちゃん先輩、すっかり身体も冷えてるみたいですし」

彼は自分の着ていたジャージの上着を脱ぐと、私の肩にかけてくれた。

「そんな!それではキミが風邪を引いてしまう!」

「あはは。これでも中学時代は元・柔道部ですからね。毎年の寒稽古で、寒いのは慣れてるんです」

彼はガッツポーズをしてみせた。

「くす」

彼の優しさが嬉しかった。

そうだ。そんな彼の優しさに、私も応えねばならない。

たとえそれでこの恋が終わってしまっても、彼をたばかる様なままで、この先どう接してゆけるのか。

ええい、しっかりしろ鬼橋 文!

「志賀君。実は、とっても大切なお話なんです。これを聞いて、キミがどんな態度に出ようとも、私はそれを受け止めます。嫌いになってもいい。これからお話するのは、この私、鬼橋 文の全て…です」

まだ躊躇しながらも、私は恐る恐る自らの宿命を彼に語った。

私の肉体には子宮がなく、したがって子供を作ることができない事。きっとおそらくは…短命で終わってしまう事も、全て包み隠す事なく語った。

最初の頃こそ躊躇いがちだったものの、話の核心を過ぎた辺りには、自分でも驚くくらい冷静に、淡々とした口調になっていたのは…きっと諦観という奴だったのだろう。

私が全てを語り尽くすまで、彼はただずっと黙っていた。

「――これが私の秘密の全て…です。黙っていてごめんなさい。本当にごめんなさい。そして今までありがとう志賀君。…私はいつまでも…君の事が好き…です」

あ…目頭が熱くなってきた。泣くまい泣くまいと思うにつけ、逆に涙が溢れてくる。

志賀君は、ふぅ…とため息をついた。そしてこう言った。

「…ああ、何だその事ですか。そんな事、ずっと前から知ってますよ?」

こんな場にはそぐわない様な、不思議に明るい声だった。

「え…知ってた…って?」

「実はですね、倉澤副部長の一件があったちょっと後くらいだったかなぁ…ああそうだ、ウチの美術部の部展のちょっと前の頃だったっけ。僕、鮎子先生に呼ばれて、そのお話、先生から直に聞いてたんですけど」

…はぁ…?

「『志賀君。君は文ちゃんと本気でお付き合いする覚悟、ある?』なんて切り出されましてね」

「そ…そんな事が…おねえちゃんが?一部始終を?」

「ええ、まあ」

「そ…それで志賀君。キミは何とお答えしたの…ですか」

「そんなん、決まってるじゃないですか。『僕は文ちゃん先輩が好きなんです。それだけじゃダメなんですか?』って言いましたよ僕」

「え…だって私、たとえキミと結婚したとしても…子供が…」

「う-ん…まぁ、最近は結婚しても子供作らないご夫婦も多いそうですし…でも嬉しいなあ」

「え?何が、ですか?」

「いやあ。もう結婚の事を考えてくれるなんて、幸せ者だなあ僕ぁ」

「いえ、そういう意味ではなくて…」

「文ちゃん先輩みたいな綺麗で可愛くて、優しくて強くてそれでいて気が利いて、そして…こんな僕を慕ってくれる最高の女の子は、ここにいてくれる文ちゃん先輩以外には、たぶんもうこの世にいないのではないかと」

あはは、と志賀君は照れ臭そうに笑ったのだった。

「…もう…莫迦…くしゅん!」

気がつくと、自動販売機の明かりに照らされて、雪が美しく舞っていた。

思わず夜空を見上げる。

え…?あんなに月が輝いているのに…雪が?

「あー、吹っ越しですね。伊香保辺りから飛んできたのかな?」

「…綺麗…」

私はそのまま、彼の大きくて広い胸にもたれかかった。

静かに目をつむる。

ふと、彼の暖かな掌が軽く私の頬に触れて。そして唇が重なった。

私と彼は、二回目の本格的なキスで、お互いの気持ちを確かめ合う事ができたのだ。


「…あの時は優しかったのになあ…」

志賀君がぼやく。その姿すら可愛いと思えてしまう私は、ずいぶんと丸くなったと自分でも思ってしまう。

「過ぎた事、ですよ?今は問題集を進める事だけを考えましょうね?」

「はぁーい…」

その時、私の部屋のドアが開いた。

『お茶の時間、ですわよマスター・アヤ』

小さな体で、器用にもティー・トレイを運んできたのは、忌むべき魔人形・慰撫だった。

「へ…?コレ…あの問題の人形…ですか?」

慰撫はトレイをテーブルの上に置くと、優雅な仕草で志賀君に会釈した。

『改めまして御機嫌ようヨシハルさん。わたくし、この度、マスター・アヤの使徒となりました慰撫・弐式と申します。不束者ですが、どうぞお見知り置きを』

「えっと…?あ…ども、です」

慰撫はそのまま、私と志賀君の間に腰を下ろした。カップが3つある所を見ると、ちゃっかり自分もティー・タイムに参加しようというのだろう。

「えっと…あの…何でこの子がいるんです?たしかお話じゃ、壮絶に戦って…ええと、その…壊し…死んだ…じゃなくて、お亡くなりになったんじゃ…?」

『ええ、死にましたよわたくし。でも、マエストロ・マノリのお蔭で、こうしてばーじょん・あっぷして蘇る事ができたのですわ』

慰撫は自然な表情で微笑んだ。


そうなのだ。

よもや、こんな展開が待っているとは、鮎子おねえちゃんも想定してはいなかったのではないだろうか。

あの後。

私はご本家の従妹、傀儡師の真礼宛で、手紙と共に慰撫の残骸を宅急便で送った。

「この手の異形の処分は、さすがに私の手に余ります。専門家の貴方のお力をお借りしたい」との文面を添えて。

それから数日後。私の家に真礼から電話があったのだ。

「あ…真礼?荷物届いた?お手数かけるけど、お願いします」

『くくく…結構な素材に感謝する。アレは、きっと我が最高の傀儡となるだろう』

「あ…あの真礼?アレ、あなたの手で処分してくれればいいのであって…」

『我が神秘なる秘技の数々を施せるに最良の逸品だ。すでに第一工程は終了した。その過程で用いたのは我が技法による疑似マナなのだが、その製法についてはだな、大気の精霊と四種の薬草由来の成分を24時間煮沸した後に…』

「いやだから、そんな手間を掛けなくても…」

『この時点で、同時に第二工程の準備もしておかなければならない。特に破損した頭部の再練成は実に困難だった。そのままでは修復不可能なので、本家の蔵の片隅にあった先々代様の書かれた図面を基に、私が独自の素材を用いる事でコレに表情をつける事に成功したのは画期的であったと言えよう』

「あ…あのね真礼?そんなレシピみたいな事はいいから…」

『あと数日で、此奴にも再び魂が戻る。もちろんベースは其方(そなた)の申した象形文字にしているが、毒の部分は抜いておくから安心してほしい。ちゃんと仕上げて送るから楽しみにしているがよい…くくく』

「え…ちょっと待て真礼!?今何て言った!?」


…まったく、真礼とは会話にならない。いつもの事ではあるが。

それからきっちり10日後。

私を散々な目に遭わせた張本人…原因は、ママにもすっかり気に入られて、ちゃっかりと我が家の住人になったのだった。


「…噛みついたりしないんですか?このお人形」

志賀君が恐る恐る聞いてくる。

『失礼ですわね。わたくし、そんな下卑た真似は致しませんことよ』

「…私に襲いかかってきた時も、たしか似た様な事を言っていた気がするけど?」

『あの時はあの時、なのですわ。今のわたくしは、マスター・アヤの使徒に過ぎませんもの、主人をお守りする事はあっても、刃向かう様な真似はできませんわ』

「あ…そですか」

「そういう事なんです。どうか宜しくしてあげてくださいな、志賀君も」

「あ…はあ」

慰撫・弐式は、愛くるしい笑顔で微笑んだのだった。

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