序 Tick Tock
どうも。瑚乃場茅郎です。
前作「逢魔が刻の深淵挽歌」の続編、スタートです。
今回は一挙掲載でなく、連載形式で進めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
それでは、いずれ後ほど。
―――私は6歳の頃に戻っていた。
普段はめったに着ることもない着物姿だった。
外では蝉がじじじじじ…と耳障りな鳴き声を響かせている中、その季節には不釣り合いな厚着の着物を着て…着せられている私。
それで理解した。
『…ああそうか。これはあの日の思い出なのだな』
これが過ぎ去った過去の記憶の中の出来事なのだ、ということを自覚できている時点で、自分が今いるのは夢の中なのだと理解できた。
外見は6歳だが、意識はそれから11年後、17歳になった私のままだった。
とはいえども、夢の中の私はあくまでも6歳の少女でしかなかった。
それが今見ている夢の中の私が演じるべき役柄なのであり、私が置かれている立場は、いわば台本を与えられた役者の様な物なのだろう。
この、「台本を与えられる」という比喩は好ましくない。
なぜならば、それこそがこの夢を、いささか「不愉快な物」にしてしまっている元凶なのだから。
…本人の役を本人が演じるのだから、本人以上の本人にはなれないということを、本人が一番理解している。
…言葉遊びが過ぎたか。
む…?舞台はそろそろ開幕の様相を示してきた模様だ。
それでは、本人役をせいぜい精一杯演じさせていただこうか。
どうせ、夢の中では私自身が主役なのだし。
あの日。そう、初夏の日差しがひたすら眩しくて、目が痛かったあの日。
永い間外国に行かれていた「御主様」が、久方ぶりに日本に帰ってこられるというので、一族皆が総出でお迎えしなければと大わらわだったのを覚えている。
その大騒動の中心にいたのが、「鬼橋 文」の名前と使命を受け継いで生まれてきたこの私だったのだが。
わずか6歳の小娘に、一体何ができようものか。
お迎えの準備やら歓迎の馳走、「御主様」のお住まいになるお屋敷の手配に当面のお世話係云々、云々。
それらはみな、和歌山のご本家が手配してくれていたらしい。
鬼橋の家でも分家、それも末席の高崎の家に生まれた私だったが、この名前を受け継いでしまった以上は、この厳かしくも手間だらけなお迎えの場において、そのもっとも大切なお役目を担わなければならなかったのだ。
もっとも大切なお役目。それは四代目の「鬼橋 文」として、「御主様」にご帰国のご挨拶を申し述べることだった。
私はこの日まで、一度も「御主様」にお会いしたことがなかった。
「難しい事はぜんぶおじさんたちに任せておきなさい。文ちゃんは、きちんとご挨拶を覚えておいてくれればいいんだよ。ただ、くれぐれも『御主様』に失礼のないようにね」
本家の寛一おじさんはそう言ってくれたのだけれど。
その「ご挨拶」という物が、これがまたひたすら長い長い原稿に文字がこれでもか!とばかりにびっしりと綴られた内容で、それも渡されたのが三日前では、いくら私でも覚えきれるものではなかった。
繰り返すが、私はまだ6歳だったのだ。
小学校に入学したばかりの小娘に、墨痕鮮やかな文字がびっしりと綴られた半紙を十枚も二十枚も覚えろという方が無茶という物である。
4歳年上だったおねえちゃんが亡くなったあの日、もう決して人前では泣くまいと固く心に誓った私だったが、この時ばかりは布団の中でこっそり涙を滲ませたものだ。
しかも、その日の私は普段着つけない着物を何枚も重ね着させられた上、それまでやったこともないお化粧なんて物までされてしまっていたのだからたまらない。
ご対面に用意された部屋は風通しが良かったはずだが、座布団の上にじっと座っているだけでも汗だくになった。
その時の私は、暑さだけでなく、原稿暗記のためにほぼ徹夜してなかば朦朧となった頭で、これからお迎えする「御主様」のことを色々と考えていた。
十年近く前に先代の「鬼橋 文」がとある事件に巻き込まれて亡くなられた後、「御主様」は日本を離れたのだという。
…「御主様」とはどんな方なのだろう。
何十年も生きていながら、まったくお歳を召されていないとは聞いていた。
いや、聞くまでもなく「知って」いた。
「鬼橋 文」の名前を受け継ぐ娘は、この世に生を受けた時からその事を知っている。
もちろんこの私も、だ。
自らのお役目、為すべきことは知っている。
しかし、記憶だけは受け継いでいない。
誤解されやすいのだが、代々の「鬼橋 文」は、よく聞く「生まれ変わり」とは違う。
「御主様」を守り、お助けするための存在。
そのお役目を全うするに足る力と知識を受け継いで生まれてくるだけなのだ。
元々が複雑きわまりない構造の上、無数の経験や思考の上に構築される「人格」や「記憶」を、まるごと全く別の肉体に移植させるということなど、人間の持つどんな魔法や技術を持ってしても不可能に近い…いや、仮にもしそれが可能だとしても、代を重ねてゆくうちには、次第にぼやけた物になってしまう可能性は大きい。
コピーを重ねてゆくうちに、像が歪んでくる様なものだ。
それを怖れた「初代鬼橋 文」、私たちの一族では「御初様」と呼んでいる彼女は、自らの死に及んで、「次の代」に必要最低限の能力と情報だけを特化させて継承させることを選んだのだ。
だから第四代目の私も、お会いした事もない「御主様」の事など、お顔も声も、まるで存じなかった。それでいて「知識」だけはあるという、いささか奇矯な立場ではあったが。
「御主様」については、以前から色々と想像していた。
きっと神秘的で近づきがたい、女神様の様に厳かな方なのだろう。
こんな小娘など、相手にもしていただけないのではないか?
しかしその方こそ、私がこれから生涯お仕えすることになるのだから、万が一にも失礼があってはならない。
6歳の小娘にとっては、十分過ぎるプレッシャーだった。
…結果から言えば、それは私の杞憂に終わったのだが。
頭の中で、ご挨拶の文面をもう一度反復した。もう何度目になるのだろうか。
いくら繰り返しても、不安だけが増してゆく。
刻一刻と迫りくる予定時間に、私の緊張も高まるばかりだった。
終わることなんてないのでは…と感じるくらい、永くながく感じた待機時間の後。
「御主様、ご到着」
何の予告もなく、沈黙を打ち破る声が外から聞こえて、私のいる部屋に近づいてくる大勢の足音が聞こえてきた。
さあ、いよいよ本番だ。
私は正座して深くお辞儀をした姿勢のまま、ただその時を待った。
すっ…と静かに襖の開く音。
誰かがそこに立っている。
ああ、この方なのだ。
姿は見えなくとも、気配で分かった。
気配だけで懐かしさを覚えてしまうその事こそが、私が「鬼橋 文」である証なのだろう。
そう。「御主様」と「鬼橋 文」は、初代からそういう間柄なのだ。
緊張で、ともすれば頭の中が真っ白になってしまいそうだったが、必死に覚えたご挨拶の出だしを、頭の中で一度諳んじてから、私は切り出した。
「…こっ、このたびはようこそおっ、おかえりなさいませっおんぬし様っ!わっ、わたしがよんだいめ…うひゃあ!?」
私はそれ以上、続きの言葉を言えなかった。あれだけ何度も繰り返し覚えたのに。
「御主様」のお顔を拝見する間もなく、いきなり抱え上げられてしまったのだ。
そのままぎゅっと抱きしめられる。
「え…ええっと…」
「Oh!あなたが今度の文ちゃんね!かーわいいっ!べりー・きゅーと!まーべらーす!」
「お…おんぬし様ぁ?」
顔と言わず首と言わず浴びせられる、無数のキスの嵐、嵐、嵐。
わ…私が抱いていたイメージって……????
きゅう。
その後は覚えていない。暑さと緊張、そして混乱のあまりに私は失神してしまったのだ。
…それが「御主様」。
剣城鮎子様こと、鮎子おねえちゃんとの初めての出会いだった…
じじじじじ…じじじじじ…じじじじじ…じじじじじ…
外から聞こえるセミの鳴き声が、やけに耳に響いていた―――