胸、焦がる
好きな俳優さんのCMは、食事中お箸を止めてでも観る価値があると云うものよ。
その声がテレビから聞こえてくると、私は会話も食事も止めて、食い入るように画面を見つめる。たった三〇秒の逢瀬。終わって、他のCMになるとまた元の動作に戻る。さっきよりもにこにこ顔になって。
そんな私を見て、恋人の土屋君はいつもちょっとだけ嫌そうな顔をする。何よ、自分だって好みのグラビアアイドルがテレビに出てれば同じように眺めてるくせに。私だけなんでそんなムッとされなくちゃいけないのよ。
この間観ていた時はお酒が入ってた。赤い顔で、いつもよりもっとにこにこしてたら、向かい側に座ってた筈のあなたがいつの間にかすぐ近くにいて、乱暴にキスされた。
おっきいすじすじの手で、後頭部をいともたやすく掬い上げられて、逃げられないまま深く仕掛けられたキス。荒々しいのに舌の動きは怖い位に丁寧に私の舌を嬲る。逃げれば追いかけて、追い詰められて、逃げ出すことを放棄すれば、ご褒美みたいに優しく撫でて。
甘い声が漏れ出たことでようやく満足したのか、ゆっくりと解放された。絶対ぽーっとなってただろうから、ちょっと悔しい。
こら、とおでこを痛くない強さでこつんと合わせられた。土屋君の目が近すぎて、どきどきする。見ていられなくて視線を外せば、ちゃんと目を合わせるまで、いつまでも罰のように軽いキスを落とされた。
「美波、ちゃんと、こっちを見て」
「見てるよ」
「よそ見もしないで」
「……あのCMだけは無理。だってかっこい」
いんだもん。は、やっぱりキスで封じられた。今度は、キスだけじゃ済まなさそうだと、押し倒されながら床で痛くしないように背中へ回された大きな手に嬉しくなった。
本当は、土屋君がムキになるって分かってて観てる、あのCM。
あれを観た後は、必ず乱暴なキスで始まる、夜。いつもは壊れ物みたいにこわごわ触れてくるくせに。そんなのもすごく大事にされているみたいで嬉しいけど、女としてちゃんと好かれているのかは分からなくて、言葉で確認するのも怖くて、ひたすら優しいキスを受けとめていた。
こんな、たった三〇秒のCMでこんな風になるなんて。土屋君の中に激しさが潜んでいたとは、付き合いもだいぶ長いのに知らなかったよ。
隠してることが、もう一つ。
すごく似てるんだよね、あの俳優さんとあなたの声。顔はあんまり似てないのに、不思議だ。あ、土屋君の声だって、つい耳がピクンて反応しちゃう。――そう云ったら、照れる? 喜ぶ?『全然似てないだろ』ってちょっと嫌そうな顔して、そのあとキスしてくれる?
云わないでやきもち妬かせるなんて子供っぽいけど、手放し難い。
だって、『キスして』なんて、云えない。
いつもそう。『別に、会えなくて大丈夫』とか、『大人だし分かってる』とか、我ながらほんとにいちいち云うことがかわいくない。云いたいことほど云えてない癖に。
そんな私が、キスをねだるかわりに観るあのCM。
もっと私を見て、夢中になってて欲しくて、俳優さんを観る。
今日も今日とて、テレビでそれを観た。
あのCMだ、と思った瞬間さっと恋人の手にリモコンを取り上げられて、当たり前のように電源をオフにされてしまった。
「何するの」
「見ないでって云ったのに、美波ちっとも聞かないから」
だって、あのCMなしにあなたをどう煽ったらいいのか知らないんだもん。
「……好きなのに」
それは土屋君の耳には違う風に聞こえたみたい。
「そんなのはゆるさないよ」
言葉とは裏腹に、優しく告げられた。云い終ると同時に、キスが降る。
「どんな、ふうに」
落とされるキスでもう体があついのにまぜっかえせば、無駄口は口で塞がれる。
「こんな風に、だよ」
その黒い目を見ていると吸い込まれてしまいそうで、目を伏せれば叱られた。
「ちゃんと見て」
啄むキスが、貪るものに変わる。
観ていたCMはバレンタインに合わせたものだから、明日からはオンエアされなくなる。ならば、今度は自分の言葉でこの人に気持ちを伝えて、自分で引き出さなくちゃいけない、激しいあなたを。
どんな言葉でどんな私なら、土屋君は私を求めてくれる?
頭でいくら拵えてみても、作り物なら届かないかも。それなら、苦手だし恥ずかしいけど正直なところを頑張って伝えるしかない。
思えば、長く友達でいて、最近になってなんとなくくっついた私たちだから、愛の言葉なんて交わしたこともなかった、私も土屋君も。
長いキスになったその間、なんて云おうか考えようとするたび心を撹拌するみたいにキスをされるから、ちっともまとまらない。
このままキスだけでは終わらないと、胸のあたりに下りてきた土屋君の手が私に教えている。でも、今日は。
「ちょ、ちょっと、まって」
とんと胸を押せば、簡単に恋人は拘束を解いてくれた。――ああ。
そんな顔させたかったんじゃない。あなたとしたくないんじゃ、ないよ。伝えることは苦手だけど、こんな時に云わないなら言葉なんて要らない筈だ。
胸を押した手は拒否じゃないから、そのままそっと触れていた。
呼吸に合わせて上下する胸に頬を押し付けてしまいたいけれど、俺を見てと云われたからじっと見つめる。
キスですっかり上がってしまった息と赤い頬と、緊張で震える声がみっともないな。自分を落ち着かせるために深呼吸して、ようやくその言葉を口にした。
「……好き」
ああ、声も顔もぶっきらぼうなままだ。こんな日にも私は駄目だなあ。
土屋君もびっくりしてるみたい。急にそんなの云うキャラじゃないのは知ってるだろうから、余計にびっくりさせたかも。
『何云ってるの』とか、『ふざけてるの』とか云われたら泣く。そう思って、云わせないように矢継ぎ早に言葉を紡いだ。土屋君の体から一旦離れて、バッグの中に入れておいたお目当ての物を出す。
「今日、バレンタインでしょ? 一応、付き合って初めてのイベントだし、チョコも用意したんだ、ここのおいしいって、」
評判なんだよと云う言葉は、きつく抱き締められたせいで云えなかった。
手にしたチョコレートの小箱が、ことんと床の上に落ちる。かわいいと云うよりはリアルな猫の絵のその箱の角が潰れてないか拾って確かめたいのに、数分前あっさりと解かれた筈の囲いは、ぐいぐい押してもびくともしなかった。
さっき告白をしたのと、今こんな風に抱き締められているので心臓が煩い。
くっついてるから土屋君にもバレバレだ。と思ったら、服越しに伝わってくる鼓動も私と同じ位に大きく響いてきた。
「美波、もっかい、云って」
「……好き、だよ」
そう伝えたら、いつもは力の加減をしてくれるのにもっとぎゅうぎゅうにされそうだったから、「くるしいよ」と申告して、ようやく息を出来る分だけ離してもらえた。
言葉もキスもそれ以上もなしで、なのにハグされてるだけでこんなに幸せ。好きと一言伝えてみたら、怖がっていたのがバカみたいに思えるくらい、嬉しさを隠そうともしない土屋君に会えた。
それでわかった。あなたも私とおんなじ気持ちだって。大好きだって。
フローリングで膝をついたまま抱きすくめられてるから、そろそろ膝も痛い。でももっとずっとこのままでいたい。
高校の時は友達の友達で顔見知り程度。卒業してから飲み会でぼちぼち話すようになって、二人とも東京で就職してからは同郷のよしみで加速度的に仲良くなって、でも長いこと友達だった。
互いの家を行き来して、DVDを見てもお酒を飲んでもどうにもならなかったし、互いに恋人も作ったし。
なのに、二人とも似たようなタイミングで一人になって、失恋の痛手が消えたある時ふと、隣にこの人がいるわって互いに気付いて、今までとは違う気持ちでちょっとずつ近付いていった。でも今更燃え上がるような恋にはならなくて、密かに胸を焦がすような思いを抱えていた。
土屋君の隣は居心地がいいから、我儘を云って拗れたくなかった。
これまでどおりの穏やかな関係を望むなら、それでいいと自分をそう納得させてた。
意識する前からいいなと思ってた。一つの物を長く大事にする人。もう何年も同じサンダルを愛用していて、一足買える位のお値段の修理に幾度となく出しては、すっかり変色してしまったその革のサンダルを毎年夏に登板させてる。それを履いた土屋君と、上水沿いにお散歩するのが好き。ビール片手におしゃべりしながらどこまでも歩ける、あなたとなら。
そんな、今までどおりも、激しく求められるのも、欲張りな私は両方欲しい。だって両方好き。
がちがちに拘束された体が限界ですと音を上げるまで、ずっと抱きしめられたままでいた。いつまでもこうしてたらいつか溶け合って一人の人間になっちゃうんじゃないかって云うくらいに、長く。
黙っていたけど、手が、心臓が、体温が、ちゃんと気持ちを伝え合っていたから大丈夫。
そして、いいかげん離れないと床についたままの膝であるとか、軋みそうに抱き締め続けられている体だとか、二人してあちこちが痛いので、離れがたい思いのままそっと互いを引き剥がした。その最中に、「……俺も」と云う言葉が、キスと一緒に降ってきた。
「うん」
嬉しくて、今離れたばかりのその胸にまた飛び込んだ。すると、ずっと同じ姿勢でいたからか、いつもはびくともしない恋人が私のタックルめいたハグを苦笑して受け止めながらそのまま床に仰向けで倒れ込む。
きらきらしてる真っ黒い目。いつも穏やかに微笑んでいる口元は、今日は思いっきり楽しそう。私の一言でそうなったのなら嬉しい。
いつも気持ちよくしてくれるその唇を、労うみたいに指で触れた。リップも塗ってないのにかさかさじゃない感触が気持ちよくて何度も往復させているうちに、土屋君の唇がぱく、とお迎えしてくれて、私の指は関節一つ分食まれる。
喉元にキスをして、「食べちゃいたい」と囁いたら、「それは俺の台詞でしょう」と云う言葉とともに、ぐるりと視界が入れ替わって、今度は私が組み敷かれた。
何やってるんだろうね、いい年した人達なのにね。
さっき食まれた指がまたつまみ食いされる。手首を土屋君の大きな手で緩く掴まれて、手の甲に頬をすり寄せられた。愛おしげなその仕草のままこちらに微笑まれると、嬉しい反面見せつけられてるみたいで面白くない。
手じゃなく私を愛してよ。掴まれていた手首を振り切って、両手であなたの後頭部をぐいと引き寄せた。
夢中になって欲しくて、何度も唇を啄む。そうしているうちに、私の好きにさせていた土屋君にも熱が移って、いつものように深いキスになる。
そうなって、気付く。――CMを観ていた時と、逆だ。でも、同じだ。
煽られたのは私。でも、激しい気持ちが湧いてきたのはあなたと同じ。
目が合えば、俺の気持ちが理解出来たかと問われているのが分かる。こくりと微かに頷くと、満足げに黒い目が笑った。
甘い夜のはじまり。再び、土屋君の手が私の体に下りてくる。
「もう、美波の『待って』は聞かないから」
少し焦っているようなその声。さっきのは、なし崩し的に体を重ねてしまう前に伝えたかっただけだってば。
でもせっかくだから、また伝えておく。今まで伝えていない分、たくさん云ってもばちは当たらないだろうから。
「……好き」
さっきよりも柔らかい声と、笑顔で云えた。嬉しくて、もっと伝えたくなる。
「大好き」
行為の最中みたいに、私に覆いかぶさっている土屋君の体に手も足も巻きつけて伝えたら、土屋君は真っ赤な顔を背けて云った。
「……今、ガソリンをたっぷり撒かれた上に火のついたマッチ落とされたからな、俺」
その言葉の真意を問う前にキスが再開されて、一晩かけてその意味を思い知らされる羽目になった。
穏やかなあなたを煽ることが出来たあのCMは、今日限りでおしまい。でも、もうなくても大丈夫。
目を見て気持ちを伝え合えば、それだけでこんなにも私たちの胸は焦がれると分かったから。
――でもちょっとこれは煽りすぎたかなと、今までで一番求められて明け方にようやく解放されたことで思い知った。きっと、起きてから鏡を見れば恥ずかしい位に所有印が散らされている。
いつもはあっさりしているくせにと、私を片手で抱いたまま健やかに眠るその横顔を恨めしい気持ちで睨んだ。一晩かけてされた分のお返しはとてもしきれないけど、とりあえず目の前の首に私からもお返しを刻んだことで満足してから眠りについた。
キスマークを土屋君にいち早く見つけられて、朝から無駄に煽ってしまったのはまた別の話。
14/10/13 一部修正しました。