loop two
どれぐらい走ったのだろうか。
ただただ高い所を目指して駈け続け、気がついたら息を切らして学校の屋上にいる自分がいた。
誰もいない屋上には残暑特有の生ぬるい風が吹くばかりだった。
その風に嫌悪感をいだきながらも、無造作にズボンのポケットに入っていた紙と鏡を取り出す。
時間の感覚もないまま、急いで真っ赤に変わった反射物を月に向け、しわくちゃになった紙を広げて英文を読む。
「Clownery tale by the storyteller」
発音もイントネーションもわからないまま、ただ叫んだ。
その声は余韻を残しながら闇に溶け込み、自分の吐く荒い息継ぎだけが残る。
そして、遂には呼吸の音も落ち着き、静寂が訪れる。
―――嘘、か。
そう感じた。
諦めて鏡を持つ手を下ろそうとした時
「「なかなか面白いことをいうな、小僧」」
複数の男と女が、同時にしゃべったような。
そして闇自体がしゃべっているかのような。
そんな声が脳の芯まで響き渡った。
ソレとともに、一気に恐怖が身体を襲う。
鏡を持つ手が下ろせない。
いや、下ろした瞬間殺されるぞ、と。脳が警戒のサイレンをならしていた。
そして、突き上げた腕は、下げられない代わりにひどく震えていた。
それをナニカが笑う、嗤う。
「「嗚呼、声だけってのは不気味か」」
形の見えない異形に、真理の読めない威形に、震えが止まらない。
微かに笑ったナニカは闇を屈折させ、鏡に変化をもたらした。
正確に言うならば、手に持っていた鏡が俺の前にまで移動し、うぞうぞと伸縮を繰り返しながら色や形を変え、結果的に、俺の目の前には
―――俺がいた。
…いや、俺そっくりなナニカがいた。
しかし、ソレの耳は先が折れそうな位に尖り、後ろには人には生えるはずのない黒く艶のある尾。
その姿はまるで………
「アク、マ…」
鏡を持っていた腕は既に力尽きたようにだらんと落ち、やっとの思いで喉から絞り出した声は、自分が思っていたより幾分と震え、掠れていた。
そんな俺を見てまた薄く笑う、もう一人の俺。
どうやら、肯定の合図のようだった。
そしてアクマは紡ぐ。
「「お前、ナニが欲しい」」
そいつは甘美な言葉で、俺を誘い出した。
俺の姿になっても変わらず男女入り交じった声だったが、甘美という言葉がぴったりだった。
まるで、脳を甘く溶かすために作られた危険なドラッグのような感じがした。
―――しかし、俺としては悪魔を呼んだのはいいものの、その言葉の意味に困惑しているのが現状だった。
確かに興味があった。
悪魔、という非科学なものに。
ただ、少し。少しだけ好奇が滲んだ結果だったんだ。
利益は期待してはいなかったものの、その利益の先にあるものが異様に気になった。
…自分でもこんな100%怪しいナニカに興味を抱いてしまうほど、物事への関心が薄まっていたのだろうか。
考えれば考えるほどに自分の中にある欲が次々とわき上がる。
それは、果たして自分のものなのか、悪魔によるものなのか…。
しかし、そんなこと、今の俺にとってはちっぽけな疑問でしか無かった。
今はそれよりも、終焉が気になる。
そして、尋ねた。
「…望みを叶えた先には、何がある」
「「死だ」」
ソレは、容赦のない死刑宣告で。
淡々としたその男女の声は、今までに「シ」というあまりにも非現実的な単語に飲み込まれたものたちの声に聞こえさえする。
そして悪魔は、人間をより深く追い詰めるためにしゃべる、しゃべる。
「「まあ、どちらにせよお前ら人間は死ぬだろう?それが今か少し先かってだけだ」」
「今?」
「「ああ。お前が俺を呼び出した時点でもうお前の命は俺のもんだからな」」
「!!」
「「つまりは、契約しなかったらもうそこで…」」
悪魔は首の前を左手で風を切り、いたずらに舌を出す。
一瞬でその意味を理解せざる得なかった。
そして、悪魔はか細いとばかりの生命の旋律を紡ぐ。
「「それだったら、俺と契約して長く生きた方が特だと思わねぇか?」」
屋上にいたはずなのに、追い詰められるたびに世界が暗くなる。
やがては屋上全体が深い闇色に染まり、悪魔が目と鼻の先まで来て選択を迫る。
「「さ…選べよ」」
「俺、は……」
「契約はしねぇ」
悪魔が目を見開いた。
だけど、これが俺の選択。
「「……何故だ」」
悪魔は問いただす。
酷く不機嫌に。
そして、言うのだ。
できるだけ、強気に。
できるだけ、はっきり。
「俺の人生を人外なんかに左右させられてたまるかよ。だったら自分から死んだ方がマシだ」
悪魔の顔が信じられない、といった表情をした。
まぁ、一瞬だったが。
そのあとふっ、と軽く笑ったあと、悪魔は盛大に笑った。
なんとも、楽しそうに。
そして、悪魔は満足げにこちらに向きなおし、
「「気に入った」」
と、ただ一言。
「…は?」
思わず表情がひきつる。
まるで今日の朝、尚輝に巻き込まれた時の表情と同じだ。
しかし、危険な雰囲気は感じなかった。まあ、あくまで勘だが。
「「お前なら、飽きねぇな」」
「人間様を飽きる飽きねぇで判断すんじゃねぇっての」
いつの間にか尚輝に向けるような言葉をいくつも発していた自分に心底驚くも、性格のつかめない悪魔の心理が掴めず、つい怪訝な表情になってしまう。
悪魔の方はというと笑いながら
「「そんな顔すんなよ。つーかよ、だいたい勇気あるよな、黒い服着てねぇとか。俺じゃなかったら喰われてっぞ」」
…何故かおかん発動。
黒い服って重要だったのかよ。
んでもって、なんで俺が悪魔なんかにアドバイスくらわなくちゃならねぇんだよ。
機嫌を損ねて、ムッとしていると、悪魔の方は不意に真剣で面白そうな顔を作り、
「「だが…てめぇだったらなんとかなっか……」」
小さな、小さな声を発した。
…残念ながら、俺の鼓膜はピクリとも反応しなかった。
口角をあげながらしゃべるこの悪魔は、いったい何を考えているのか。
…あ、なんかイラついた。
本人に聞いた方がはえぇな。
「あ?なんか言ったか?」
「「なんでもねぇが、」」
「が?」
あぁ、歯切れ悪ぃ。
これも一種の悪魔の
「「てめぇだったらなんとかなるかもっつった」」
落としもんく、かもな。
どんだけ人間様の感情揺さぶらしてんだよ。
だいたいなんとかってなんなんだよ。
俺がそのなんとかを聞いてんだっての。
そんな俺の心境をものともせず、悪魔は話を進める。
「「契約は、しねぇんだっけ?」」
「…あぁ」
「「なら、よ。取引だ」」
ああ、なんて強情な。
なぜ、そんなに引き止め。
なぜ、そこまでこだわる。
全く理解ができない。
…だけど、取引、というからにはこちらにも利益はある、ということだろう。
「どんな条件だ」
「「お、乗っかってきた」」
ヤツは性格の変わらないまま、おちゃらけてしゃべる。
「「俺からの条件に関しては、まぁ、そうだな……
俺の命令は聞くこと、だな」」
「?そんなんでいいのか」
「「あぁ。充分だ」」
…へぼっ。
変なヤツだ。
「気に入った」だの「お前なら…」だの、結構いろいろいったなかでの条件だ。
コイツ、なに考えてんだ。
「「―――んのかよ」」
「っ…と、わりぃ」
「「んで、お前は?」」
俺の、願望………?
…そもそも、俺は何が欲しい?
地位?
権力?
資産?
…ちがう。
そんな高くない。
そんなえらく重てぇもんなんか渡されたって変わんねぇんだ。
今の時代なんかじゃ特に。
……じゃあ、なんだよ。
内側の俺が回答を急かす。
あせるな、選択を間違えるな。そう自分に言い聞かせ、足りない頭をフル回転させる。
もっと近くて、
…大事な、何かを。
「俺の大切なやつには手ぇだすな。そして、それに見合う、守れる『力』が欲しい…」
そう、近くを。
仲間を、友達を、家族を。
何が欲しいか、なんてカンタンだった。
「「nod…」」
そう、守る力―――
「柳瀬!!」
「母、さん…?」
母さんの声が聞こえる。
なんか…必死だ。
つか、今はどんな状況なんだ?
薄く開いた目で辺りをみると、紛れもない自室に、外から差し込むカーテン越しの太陽。
あぁ、朝か。
…んで、何で母さんはそんなに泣きそう、なんだ?
―――…
正直、驚いた。
あのあと、母さんに話を聞くと、俺はベッドから3日も離れなかったらしい。
…つまりは、意識がなかったんだ。
家にある簡易治療ロボットも脳をしかめ、母さんに「詳細不明」と告げ、その時彼女は泣いてしまったそうだ。
母さんには、お礼及び謝罪をし、心の整理をしたいから、といって部屋から出てもらった。
そして、空っぽの部屋に残るのは…
「「お前、ナニが欲しい?」」
悪魔の甘言。
………もし、別の願いを叶えていたら?
地位が、金が、権力がこの手に収まったら…?
…だぁあーー!
俺はもう欲しいもんは手に入れてんだよ!!
未練の残る自分にイラつき、頭をくしゃくしゃとかき回す。
「…着替えっか」
その欲がましくもぼーっとしたままの頭を正常に起動させるため、とりあえず着替えという行動をしてみる。
上に来ていた服をそこら辺に脱ぎ捨て、てきとーにズボンを選び、鏡にかかっているままのパーカーを取りにかかる。
「―――!」
ああ、最悪だ。
アイツは朝さえも絶望をあじあわす気か。
鏡に映るげんなりした俺の下腹部には、鮮血で彩られたようなピエロのマークが刻まれていた―――…