散華と王太子妃
大量の汗が流れる。
恐怖が身も心も支配し、わたしの全てを縛り付ける。
逃げたいのに、足はおろか瞬き一つすら出来ないほどの威圧感と怒気に、今すぐこの場から消えてしまいたいと何度も願った。
そうこうするうちに、波景が目の前までやってきた。
「あ……あの……は、波景?」
相変わらず凄い形相で睨み付けてくる波景に、恐怖でひきつった喉で呼んだ。すると、ふっと波景が笑みを浮かべる。
残忍としか言いようのない笑みに、わたしは震え上がった。
波景の手が、わたしの髪を飾る竜胆の髪飾りに触れる。
お義母様から頂いた大切な髪飾り。
あっと思った時には、波景の手の中に髪飾りはあった。
「っ! 返して!」
お義母様がくれた大切な宝物だ。
必死に取り返そうとすれば、波景はそれを手の届かない場所へと持ち上げる。
恐怖も何もかもかなぐり捨てて懇願すれば、腕を強い力で引っ張られた。そのまま波景の胸に飛び込む形になる。
「きゃっ!」
「竜胆の髪飾りですか……」
波景が髪飾りを弄びながらわたしを見下ろす。
その瞳は、今まで見たことがないほど冷たく凍り付いていた。
「竜胆の花は、群生せず一本づつ凛と咲く美しき花。その花言葉は、誠実、貞淑」
「波景?」
花言葉?
一体波景は何を言いたいのだろうか?
と、波景の唇が耳元に寄せられる。
「そして……悲しんでいるあなたを愛する」
氷のような冷たい声音がわたしの全身を凍り付かせるかのようだった。
「……え?」
「夫に側室をつくられ悲しむ王太子妃をわたしは愛する……と、宣言するべく、これをあなたに贈ったのは誰ですか?」
贈ったのは誰?
悲しむ王太子妃を愛すると宣言するべく?
でも待って……これは、お義母様から貰った贈り物で
「きゃあ!」
グンッと強く引っ張られ、そのまま寝台へと投げられる。
衝撃に声も出せないでいると、波景が馬乗りで私にのっかかってくる。
それは、先ほど見知らぬ男に襲われかけた時を思い出し、わたしを恐怖にたたき落とした。
「いやぁ!」
「いや? 私達は夫婦ですよ?」
「やだやだぁ!」
みるみる内に服をはぎ取られる。
必死の抵抗すらも、波景にかかれば簡単に封じることの出来るものらしく、すぐに動きを封じられた。
「夫婦なのに、夫である私の事は拒むのですね?」
「やだ、波景、離して」
「……離して……ですか。ええ、そうですよね。貴方は私になど触られたくもありませんよね?なぜなら、こうして別の男の跡をしっかりと残しているのですから」
そうして首筋をなぞる指が力を増した。
「っ!」
その圧迫感に、わたしは男性に襲われた時の事を思い出した。
あの時、あの男性はわたしの首筋に顔を埋めて……あの時にっ!
だが、それを話せばお忍びの事がばれてしまう。
お義母様に迷惑をかけてしまう。
「こんな風に跡を残すなんて、よっぽどお楽しみだったようですね」
「ち、違う」
「何が違うのですか?」
声は穏やかなのに、その行動が全てを裏切る。
「ふふ……竜胆の花に相応しくない淫乱な人ですね、貴方は」
「な、何を」
「麗華が言っていましたよ。正妃様は近頃こそこそと何処かに出歩いている。そこで男と会っているのだと」
「っ?!」
思いがけない言葉に、わたしの頭は真っ白になった。
そんな……そんな酷いことまで言われていたのか。
「王太子妃が男遊びとなれば、とんでもないスキャンダルになりますね~」
「わ、私はそんなことっ」
「こんなに跡を残して否定する気ですか?」
「っ!」
「それとも、違うと言える確たる証拠でもあるのですか? ならばこの髪飾りはどなたから貰ったのです?」
波景が髪飾りをわたしの前にちらつかせる。
「それは……」
言えない。
言えば、お義母様が……。
一度この国はお義母様を失った。
もう二度と会えないと誰もが思っていた。
そんな絶望の中で、お義母様は奇跡のようにこの国に戻ってきた。
だからこそ、この国は、陛下達はお義母様を失うことを恐れる。
内緒で勝手にお忍びに行ったなんてバレたら、一体どんな目に遭うか。
果凜が言っていた。
陛下達にとっては、お義母様は全てなのだと。
もし失いかねない恐怖があれば、きっとお義母様を王宮の奥深くに閉じ込めて二度と外に出さないかもしれないと。
それを一番最初に聞いた時は、まさかと思った。
けれどこの国に嫁いできて十年の間に、それは全て真実なのだと悟った。
わたしの祖国に負けず劣らずの大国である凪国。
わたしのお父様達がお母様を失いかけて壊れかけたのと同じく、きっとお義母様を失えばこの国は壊れる。
だから言えない。
誰にも内緒で危険を伴うお忍びに行ったなんて。
そんな事を言えば、お義母様はもう二度と外に行くことは出来ない。
そうして黙りこくったわたしに、波景は大きなため息をついた。
「何も答えられないという事は、わたしの言うことを認めるという事ですか」
波景の怒りが更に増す。
確かに、王太子妃が他の男と浮気をしているなど前代未聞だ。
国のみならず、国際的にも醜聞であることは間違いない。
だが……と、わたしの中に反抗心が少しずつ芽生えていた。
確かに他の男との浮気は罪だろう。
しかし、波景はどうなのだ?
側室を二人も娶り、浮気どころの話ではない。
いや、それどころか向こうはそれを正式に認められているのだ。
夫は二人も妻を娶っているのに、飽きられて捨て置かれている正妻が別の男性を好きになるのは駄目だなんておかしいではないか。
どうしてわたしだけ
なんでわたしだけが責められなければならない
この祖国から遠く離れた地で、必死に王太子妃として努力してきた。
毎日毎日勉強に励み、慣れない公務を必死にこなしてきた。
それなのに夫は側室をつくり、わたしはお飾りの王太子として表だって馬鹿にされている。
どうしてわたしだけが
しかも謂われのない罪まで着せられた。
沙国の第三王女には馬鹿にされ、彼女の侍女達にも嘲笑われ、今日は見知らぬ男性にも襲われかけた。
それに、わたしはこの国で大切な心を許せる侍女を失った。
波景が彼女を側室にと望んだから
わたしはこの国で沢山の大切なものを失い続けた。
それらは、この国に来なければきっと失わずにすんだもの。
その思いに、わたしは気づかぬうちに叫んでいた。
「波景となんて結婚したくなかった!!」
波景と結婚する事にならなければ、この国に来ることもなかったし、大切なものを失うこともなかった。
いや、波景と結婚しなければ、この国を好きなままでいられた。
それどころか
波景を愛していると気づかなければ……
「どうしてわたしをこの国に連れてきたのよ!」
あのまま神殿入りさせてくれれば良かったのだ。
そうすれば、自分はこんなにも傷つかずにすんだのに。
こんな醜い気持ちを抱かずにすんだのに!!
波景を愛している事に気づかずにすむ筈だったのに――
「あのまま国にいさせてくれれば、わたしは幸せなままでいられた筈よ!!」
叫びが部屋いっぱいに響き渡る。
反響材など使ってないのに、叫びは何度も反響を重ね、ようやく空気に溶け込むようにして消えていった。
それからどれだけ時間が経っただろうか?
「……それが貴方の本音ですか」
底冷えするような声音が耳に届いたかと思った瞬間、波景が笑った。
「でも、もうどうしようもありません。貴方は私の妻。それは死ぬまで、いや死んだって変わりませんよ」
「波景……」
「そう……どんなに足掻いたって何も変わらない、変えさせない」
絞り出すような波景の言葉に身の危険を感じたわたしは、逃れようと身をよじるけれど、両手首をベッドに縫いつけられて叶わない。
「どんなに足掻こうか嘆こうが、現実は何も変わることはないんですよ。ですから……諦めなさい」
そう宣言すると、強引に口づけをしてきた。
波景の手が這い回り、わたしを支配下に置こうとする。
その夜から、わたしは波景に毎夜のように蹂躙され続けたのだった。
それから数ヶ月後。
部屋から一歩も出ることの許されない監禁状態に置かれた部屋で、わたしは一人波景の子を身籠もったことを知った。