番外編 キムン・カムイの背負いしもの
闇夜に響く獣の咆哮
ほどなく、木々が倒れ何かが地面に倒れ込む音が響いた
血だらけになった一体の羆
それを見下ろすは、闇夜に溶け込むような漆黒の黒き毛皮を持つ羆
キムン・カムイ
彼は、巨大な岩の上から地面に倒れる血だらけの羆を見下ろす
『哀れなる山の獣よ』
その羆は、もともとはこの山で普通に生活していた羆だった。
しかし、ある時食料を求めて山の中を彷徨っていたところ、登山客達に出くわした彼女は、その登山客達を襲った。
生き残る為には仕方ない事
それは弱肉強食の世界ゆえの掟
しかし、彼女はその次の年も人間を襲った。
豊作で山に沢山の実りがありながらも、人里に降りて人を食い殺した。
特に、女や子どもの肉を食らうことを好んだ。
そうして食い厭れば、山まで獲物を引きずり込み恐怖のうちに弄び殺した。
もはや、彼女は山の獣ではない
山の獣としての誇りも全て失った彼女は、山の掟に従い討伐される事となった
そうして直々に討伐にあたったのが、山の獣の長にして山貴神の側近であるキムン・カムイだった
『せめてもの情けだ』
半ば魔物化した彼女は、もはや誰の言葉も聞かない。
ただ獲物を食らい弄ぶことのみを楽しみとする。
と、その時、倒れていた筈の彼女がキムン・カムイに襲い掛かる。
『愚かな』
次の瞬間、彼女の首の根本にキムン・カムイが食らいつく。
そしてそのまま、首の骨が砕かれた。
断末魔が響き渡り、彼女の体は塵と化す。
せめて魂だけでも、冥府へと旅立ち新たなる生を歩んで欲しい。
血にまみれたキムン・カムイはそれを心から願った。
黒い巨体のまま向った先は、山奥にある泉だった。
美しく清らかな水がこんこんとわき出る泉は、この山の獣達も多く訪れる場所でもある。
その泉に、キムン・カムイは体をひたす。
あっという間に体に浴びた血が水に溶け込んでいく。
だが、それはほどなく色を薄めて完全に消えた。
薄まったのではなく、完全に消えたのだ
この泉は、不浄なるものを浄化する。
血でも、悪しき思いに囚われた者の血を、泉は浄化したのだ。
因みに、女性に特有の月の障りによる血の浄化は出来ない為、月の障りにあたる女性が近づくのは禁じられていたりする。
そこで存分に体を清めたキムン・カムイ
だが、心は重く沈んでいく
『人間など糧でしかないっ』
彼女の叫びが脳裏に木霊する
『強き者が弱き者をいたぶって何が悪い!』
「違う……」
『お前も同じだ!数多の血を浴びし汚れた神よ!いつかお前も我々と同じになるっ!私達と同じ風になるのよっ』
お前も同じだ
お前もいつかこうなる
今まで葬ってきた者達が怒鳴り続ける
それを、必死に頭を横に振る事で打ち消そうとする
「違う……我は……」
その時、ガサリと音がして顔を上げれば、離れた茂みから除く黒いもの
「あ……」
あれは……
「待て!は――」
その名を呼ぼうとした時には、茂みには何も居なかった。
まるで最初から何も行かなかったかのように、そよそよと茂みが揺れる。
幻か――
「……母者……」
気高く美しかった母
けれど、魔と同化した人間によって子と同胞を殺された彼女は狂い、山と麓の村々を恐怖に陥れた。
それは、天上の神々すらも眉をひそめるほどに
そんな母を……自分は葬った
それ以上狂い罪を重ねる前に
自分が一番最初に殺したのは、自分の母だ
『お前も私達と同じ!血に飢え、血の匂いに酔いしれる!』
違う
『待っていてやるわ!お前が堕ちてくるのを!』
嘲笑が木霊する
自分を嘲笑う声にキムン・カムイは咆哮をあげた
それは闇夜に響き渡り、何度も木霊しながら消えていく
「……我は……同じではない」
全てを振り切るように呟いた後、そろそろ上がろうかと思った時だった
「キム~~」
ひゅるるるると言う音と共に何かがふってくる。
嫌な予感がして空を見上げたキムン・カムイはゲッと心の中で叫ぶのと同時に、
それが目の前に着水した。
「真琴?!」
「キム、ここにいたんだね」
それは、キムン・カムイの妻の真琴だった。
「遅いから迎えに来ちゃった」
「お前は……というか、人の名前を勝手に略すな」
キムン・カムイと言う名は尊いのだと言うも、真琴は気にしない。
「なら、キムカム」
「やめい!どこぞのアーティスト名みたいな呼び方はするな」
「キムキムは怒りっぽいな~」
「誰が怒らせてるんだっ」
と言いつつも、最後には結局好きにしろと言うキムン・カムイは、本人こそ気づいては居ないが実はなかなかの愛妻家である。
「それより、果那様達が来てるよ」
「果那様達が?」
それは一体何のようなのだろうか?
「この山を大根で埋め尽くそうとしているとか」
「山の生態系が狂うわっ!」
この山には大根が生えていない。
そんなところに別の外来種を持ってこられれば確実に生態系はイッてしまう。
「新たな局地を切り開く第一歩になるかも」
「お前はどうしてそう無駄にポジティブなんだ」
「キムがネガティブなだけだって」
カラカラと笑う妻に、キムン・カムイは眩暈がした。
と、そこでふとある事に気づく。
そういえば、うちの奥さん……
「ちょっ!お前、身重の体で何してるんだっ」
そう、妻は妊娠十ヶ月――俗に言う臨月だった。
そんな妻は、大きなお腹を浮き球にしてぷかぷかと泉の水面に浮いている。
「あ~~、気持ちいいわ~」
「今すぐ泉から上がれっ!」
そうして妻を抱きかかえようとしたキムン・カムイ。
しかし、抱きかかえるにはいささか腕が短く、爪が邪魔だった。
流石は羆の腕と爪。
しばし悩んだ結果、キムン・カムイは人型をとることにした。
「キムってダンディー!!」
妻の目が輝く。
寧ろ、羆でいる時よりも頬を赤らめて。
というか、いつもそうだった。
それがなんだか釈然としない。
「……お前は……こっちの方がいいのか?」
本当の我の姿よりも
「どうしたの~、嫉妬?」
「なっ!そんな事はないぞっ」
「キムってば可愛いすぎだわっ」
「可愛い言うなっ」
「もう!キムはどんな姿をしてたって、私は大好きに決まってるじゃないっ!寧ろ、羆のキムはもこもこのふっかふかで枕にして寝るとすぐに寝れちゃうし」
枕かい
「一緒に居ると、凄くうらやましがられるし」
果那限定で
「冬なんて欠かせないわ!!」
ようは暖房器具なのだな、我は……
「と、凄くお得感もばっちりだけど、一番は凄くかっこよくて優しいところ。辛くても大丈夫なふりをするところなんてもう胸がキュンキュンするわっ」
「だから……は?」
思わずキムン・カムイが妻を凝視すれば、真琴がにこっと笑って、手で夫の頭をなでる。
「真琴?」
「血の汚れは落とせても、心の傷までは癒せないものね」
真琴は全てを知っている
どんなに隠しても
どんなに平気なふりをしても
「優しいキムン・カムイ。私は貴方の代わりにはなれないけど、ずっと側に居るからね」
「真琴……」
「二人なら、きっと少しは楽になるよ」
重い荷物も分けて持てば大丈夫だと真琴は笑う
「迎えに来たよ、キム。みんな待ってるよ」
待っている
「だから一緒に行こう」
気づけば泉に足を運んでいた
ここにくれば、自分の背負う全てから解き放たれる気がして
自分はキムン・カムイ
山の獣の長にして山の神の一人
山の掟に背き堕ちた獣を滅ぼすのが仕事
そうして沢山の同胞達を葬ってきた
黒い毛皮が赤い毛皮に変わるのではないかというほどに
血を被る度に、その罪は重くのしかかる
重くて
重くて
いつか自分が狂うと思っていた
だから、大切なものなど何もいらなかった
残し、悲しむのが分っていたから
でも――
『私はキムン・カムイが好きなの!』
自分の全てを知っても逃げなかった太陽に、気づけば縋り付いていた
真琴
『私は幸せよ――キムと結婚出来て』
でも本当は違う
本当に幸せだったのは
「さあ、行こう!キム」
自分だったのは間違いない
繋がれた手
自分を引っ張る小さくも力強い手
願わくば、この手が離れない事を祈り続けたい