王妃と王太子妃
どこをどう走ったのか分からない。
ただ闇雲に走り続けた。
途中誰かが何か言っていたかもしれない。
しかしそれすらもどうでも良かった。
このまま心臓が止まってしまえばいいのに
そんな願いを抱きながら
けれど運命は残酷だった
「きゃっ!」
ボスンと誰かにぶつかる衝撃を全身に受けたわたしは後ろによろめき尻
餅をついた。
痛みを感じながらもすぐさまわたしは相手に謝罪しようと顔を上げ、青ざめた。
何人もの侍女達によって支えられた相手は、夫の一番最初の側室だった。
「か、果那様」
美しく着飾った側室は、わたしの侍女として勤めていた時と同じように
わたしの名を呼んだ。
今では親しい者しか呼んでくれないその名を、よりにもよって夫に望まれ側室となった彼女が呼ぶ。
彼女が悪いわけではない。
ただ、美しかったからだ。
今回迎えた新しい側室とは違い、見た目も心根も優しく聡明な彼女は、
側室どころか正妃に立ったとしてもかしくない。
身分も地位も申し分なく、誰もが息をのむ外見と内面の美しさを兼ねそろえ、文武共に秀でた彼女こそ夫の正妃に相応しかった筈だ。
なのに、どうしてわたしが
わたしが正妃になってしまったのだろう。
ああ、それも全てはわたしが津国の第三王女だったから。
その身分と地位さえなければ、きっと今頃この側室が正妃となっていた
筈。いや、もっと早くに夫と出会えていたら、すぐにでも正妃の地位を
与えられていただろう。
悲しくて苦しくて
情けなくて涙が流れた
頬を伝う滴をそっとぬぐわれる。
「果那様、泣いていらっしゃるのですか?」
戸惑い心配げにわたしを見る彼女に、わたしはよりいっそう自己嫌悪に陥った。
優しい優しい彼女は、こうして夫の寵愛を争うべき相手にも優しさをみせる。
最初から自分なんて敵うはずがないのだ。
「果那様!」
どう頑張っても勝てない事実に耐えきれず。
せめてとんでもなく嫌な相手だったら良かったのに、側室になった事で酷く変わってしまっていれば良かったのにと願い続け。
けれど全く変わらず優しいままの彼女と一緒にいるのが辛すぎて、わたしは再び走り出した。
きっと彼女の侍女達は、わたしの事を今頃ののしっているだろう。
礼儀もなにもかもわきまえない相手だとして。
よっぽど側室である彼女の方が優れていると。
ああ!どうしてわたしを正妃にしたの?!
あのまま神殿に入らせてくれれば、こんなにも苦しまなくてすんだのに
それから数日間、わたしは部屋を一歩も出なかった。
何度も扉が叩かれたが、全て無視した。
何度か扉を壊してでもという話もあったものの、夫の母である王妃様が止めてくださったおかげで実力行使という手段はとられる事はなかった。
夫も何度か扉を叩いてはきたが、いつしか訪れはなくなった。
その事実に悲しさを覚えつつ、先に拒絶したのはわたしの方だと自身を叱咤する。
次第に誰も扉を叩かなくなり、静けさに満ちた部屋の中で、今この時にも皆普通に仕事をしているのだ、わたしの事など気にせずいるのだと思うと言いようのない寂しさがこみ上げる。
けれど、わたしの高すぎるプライドはのこのこと出て行くことを許さなかった。
もういい
別にどうでもいい
わたしの中の何かがぷっつりと切れたようだった
やけくそ、やけっぱち、自暴自棄
どの言葉が一番相応しいだろうか
そんな事を考えながら、ひたすら寝台の上で泣き続けた。
それからどれほど時間が経っただろうか
気づけば、目の前に王妃様が座っていた
「少しは落ち着いたかな?」
その優しい笑顔は母を思い出させる。
血のつながりはないが、母と王妃様は従姉妹であり、昔はよく一緒にいたと聞いている。もしかしたら、この懐かしさはそこから来ているのだろうか。
「王妃様……」
「王妃様だなんて、息子の嫁は私の娘よ。お義母さんって呼んで」
その言葉にポロポロと涙がこぼれる。
「あらあら……水分補給もしないで泣いてばかりいると干涸らびちゃうよ? ただでさえ何日も食べてないのに」
「……あれから……何日」
「今日で五日目よ」
五日……そんなに経ったのか。
「もう大変だったのよ?最初の二、三日はまだなんとかなっても、それを過ぎた瞬間、いつになったら果那は出てくるんだって煩くって」
「……………」
「食事も何も摂ってないから、余計にみんな心配して……あやうく扉をぶち破られるところだったわ」
それを寸でのところで押留め、お義母様が中に入られたという。
もちろん、他の者達は一切入れなかったとか。
「話は聞いたわ」
「っ」
「本当に酷いわね、沙国の第三王女様は」
「お義母様?」
「ふふ、第三王女様の本性は見る者が見れば一目瞭然よ。どちらが悪いかなんてすぐに分かるわ。それに、流石に見かねた第三王女の侍女達も真実を教えてくれたし」
そう言って微笑む王妃様に、わたしはどんな表情を浮かべていいか分からなかった。
とりあえず、王妃様は真実を知っているのだろう。
けれど……夫はどうなのだろうか?
可愛らしく甘える側室を腕に抱いてこちらを見つめた夫。
あの眼差しは、わたしを疑っていた。
恐怖にぶるりと体を震わせる。
嫌だ
もう嫌だ
側室を抱く夫の姿など
側室と一緒にいる夫の姿など見たくない!!
そう叫ぼうとして、わたしは言葉を止めた。
そう叫んでどうなる?
わたしは津国と凪国の同盟の証として嫁いできたのだ。
いくら嫌だと言ったって、このまま国に帰れるはずがない。
いや、帰ったとしても今度は妹達の誰かがわたしの代わりに嫁がされる。
もしかしたら妹であれば、夫の心を掴めるかも知れない。
だが、最初から側室のいる相手のもとに嫁がせるなど、そんな酷なことはさせたくない。
でも、もうここには居たくない
「果那」
「お義母様……」
思い詰めた様子のわたしを、お義母様が優しく抱きしめる。
「辛いのね」
「…………っく……ふぇ…」
ボロボロと涙をこぼし嗚咽を漏らす。
「果那……」
「……離……縁した…い…」
「……それは出来ないわ」
わかりきっていた答えなのに、まるで体をズタズタに切り裂かれたようなショックがわたしを襲う。
「……わかって……ます……わたし…」
わたしは同盟の証だ。
わたしが辞めれば、妹達が身代わりにされる。
だからどんなに苦しくてもここに居なければならない。
「……ひっく……」
「……でも、一時的に離れる事は出来るわ」
「……え?」
「期間を決めて、一時的に里帰りするの」
里帰り
その言葉に、わたしの胸は高鳴った。
一時的でも良い。少しの間ででもいいから此処から離れたかった。
夫の前から居なくなりたかった。
「但し、それは最終手段よ」
「お義母様……」
「あんまり簡単に使うと、いざという時に使えなくなるからね。まあ――今がそのいざっていう時かもしれないけど……」
その言葉に思わずコクンと頷けば、お義母様は苦笑された。
「そうね、そうよね。でも……嫌な気持ちのまま帰られるのは悲しいわ」
お義母様の悲しげな微笑みに、わたしは俯いた。
確かにこのままでは最悪の気持ちのまま帰るだろう。
そしてもう二度とこの国に来たくないと思うに違いない。
けれどその思いのままに戻ってこないままでいる事は出来ない。
「だから……せめて一時的に帰るにしても、楽しい気持ちで帰って貰いたいって思うの」
「楽しい気持ちですか?」
夫に側室を持たれ、さんざん正妃失格だと思い知らされてきたこの五年間。
積もり積もった絶望と苦しみを胸に抱えながら、この気持ちが少しでも晴れるような楽しい事なんてあるのだろうか?
「ふふ、あるわよ。色々と!」
「色々……ですか?」
「ええ、最高の気分転換よ」
「気分……転換?」
「そうよ」
そう言ってにっこりと笑ったお義母様は、わたしの耳元に唇を寄せると、こしょこしょと小さく囁いた。
「え?」
今聞いた言葉に、わたしは思わず目を丸くした。
それは、それは確かに気分転換になるかもしれないが……でも。
だが、お義母様は悪戯っ子のように笑うだけだった。
「ふふ、今までずっと頑張ってきたんだから、少しぐらいは良い筈よ」
そう言うと、お義母様はわたしをご自分の部屋へと連れていった。