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キムン・カムイと王太子妃

「早く、こっちに!」


 植物園の職員さんにつれられて、わたしは道無き道を走り続ける。

 彼は凄かった。

 こんな獣道ですらない道を、彼は軽やかに走り続ける。


 また見た目は闇雲に走っているようだったが、気づけば後ろに迫っていた王女を引き離していた。


「まだです! もっともっと離れなければっ」


 彼はそう言ってわたしの手を引き走り続ける。

 そうして駆け上った先に見えたのは、山頂と書かれた看板だった。


 ああ……山頂まで戻ってきたのか


 ここを最初に通った時は、遭難者達を助けに行くときだった。

 それは今からどれほど前になるだろうか?


 数時間?


 数日?


 時間の感覚も薄れているわたしには分らなかった。

 それでも、ようやく見えてきた懐かしい山頂への道にわたしがふらふらと近づこうとした時だった。


 ガッと強く腕を掴まれる。


「え?」

「駄目です……そちらに行ってはいけません」

「ど、どうして?」


 しかし、職員さんは何も言わずにわたしをつれて別の道へと向う。


 だが――


「離してっ」

「っ?!」

「どうして山頂に行かないの? わたしを何処につれていく気ですか?!」


 山頂には香奈達がいる。

 なのに、彼はわたしを別の場所に連れて行こうとする。


 その事実に、わたしは強い不安感を覚えた。

 彼はわたしを王女から助け出してくれた。

 言うなれば命の恩人である。


 けれど……


「わたしは……わたしは山頂に行くの!」


 そうしてわたしは山頂への道へと走っていく。

 後ろで慌てた職員さんの声が聞こえたが構わなかった。


「駄目だ戻ってきなさい!」


 必死に叫ぶ職員さんの声を無視し、わたしは走り続ける。

 あと少しで、あと少しで香奈達に会える。


 波景が居なくなり、独りぼっちになってしまったわたしは一刻も早く親しい人達に会いたかった。


 ただ、その思いだけがわたしを支配した


「ああ! それ以上行かないで!」


 ドクンと腹部が脈打つ。


「え?」


 思わず立ち止まったわたしは、お腹に手を当てた。

 ドクン、ドクンと脈打つ鼓動にわたしはジッとお腹を見る。


 その時だ。


 道の向こうから何かがぞろぞろとやってくる。

 

 あれは一体何だろう?


 ぞろぞろと


 ぞろぞろとやってくる


 白い糸に絡みつかれた――人々


 ドクンとわたしの心臓がはねる。

 波が荒れ狂うように恐怖がわたしを支配した。


「あ……あ……あ……」


 過去の記憶が蘇る


 それは


 大根が殺された時の記憶


『その女の血を捧げよ!!』


 沢山の刃物が夜空に向って掲げられ


 彼らはわたしを――


 わたしと……


「お―――っ!」


 恐怖に悲鳴をあげるわたしの耳に聞こえてきた言葉


 その声は職員さんのもの


 けれど何を言おうとしているのか分らない


 何を――


『その女を殺して破魔大根を咲かせよ!』


 鈍く光る斧がわたしに向って振り下ろされる。

 その先に待つ衝撃を、わたしは知っている。


 痛みも、苦しみも


 肉を絶ち切り裂かれ、血が噴き出す様を


 だって、わたしは昔


 その時、わたしは強い力で後ろへと押し出される。

 同時に体を包み込む温かい感触を感じた。


「あ――」


 職員さんが、わたしを抱きしめたまま斧から守ってくれたのだ。


「走って!」


 職員さんに促され、わたしは転びそうになりながらも従うように走り出す。

 その手は、しっかりと繋がれ、わたしを力強く導いていく。


 けれど、武器を持った人達は悪鬼の形相でわたし達を追いかけてくる。


 まぁぁぁてぇぇぇぇぇ!!


 壊れたテープレコーダーのような壊れた声。

 いや、声とも思えない獣のような咆哮じみた叫びにわたしは空いた方の手で耳をふさいだ。


 恐怖が支配する


 昔、今と同じように追いかけ回された


 怖くて


 悲しくて


 心の中で助けを求めたけれど、誰も助けてはくれなかった


 そうして捕まり、大根は


 わたしは――


 ぎゅっと強く手を握られ、わたしは顔を上げた。


「職員さん」

「大丈夫……あなたは僕が守りますから」


 彼は優しく笑った。

 その笑みは、見る者の心がどれほど凍てついたとしても、瞬時に溶かしてしまうような温かさに満ちていた。


「どうして……」

「え?」

「どうして……わたしを……守ろうと……してくれるの?」


 走りながら、息も絶え絶えにわたしは聞いた。


 いや、そもそも全てが……職員さんがわたしの前に現れた時から疑問だった。


 どうして彼はあそこに居たのだろう?


 どうしてわたしを連れて逃げたのだろう?


 そして……どうして山頂に行くことを止めたのだろう?


 まるで山頂で何かあったのが分っていたかのようだった


 いや、分っていたのだろう……だから止めたのだ


 もしかしたら、職員さんは山頂で何かが起きた時に無事に逃げ出す事が出来た一人なのかもしれない


 それで、助けを求めて彷徨ってて……わたしを見つけて……わたしと一緒に逃げようとした


 でも……


 そうだとすれば、それほど怖い目にあった筈なのに、今武器を持った人達に襲われたにも関わらず、彼はわたしを守ろうとしてくれた


 一人で逃げてもおかしくないのに


 どうして……どうしてわたしを守ろうとしてくれるの?


 わたしは顔を上げて職員さんを見つめた。

 その問いに関する答えを貰うために。


「どうして」


 カミサマオネガイ


「え?」


 ボクハマモリタインダ


 聞こえてきた不思議な声。

 それは、前に聞こえてきた大根の声とも、緑葉の声とも違う。


 聞いた事のない声


 でも――


 ザザっと茂みをかき分ける音に思考を破られる。

 突然、貫くようにして目の前に黒い腕が伸びてきた。


「ヒッ!」


 その腕が、わたしの顔をえぐろうとした時、職員さんがいち早くわたしと共に頭を伏せるようにしゃがんだ。

 黒い腕が空を切る。


 ギャォォォォ!!


 咆哮と共に現れたのは、一体の大きな熊だった。

 それも、とんでもない巨体の熊である。

 全長八メートルに届くか届かないか。


 その熊の姿に、わたしの脳裏にその名前が浮かんだ。


「キムン・カムイ!」


 ああ、あれは緑葉の家臣だったキムン・カムイ。

 だが――彼は昔のあの優しい眼差しではなく、血走った眼でわたしを睨み付ける。


 餌――


 彼はわたしを餌として見ている


「違う!」


 職員さんの叫びにわたしはギョッと彼を見た。


「あれはキムン・カムイなんかじゃない!ウェン・カムイだ!」

「え?」


 戸惑うわたしに、職員さんは厳しい眼差しのまま叫ぶ。


「キムン・カムイは山奥に住み、山という領域を守る聖なるカムイ! 無駄な殺生を禁じむ、山とそこに住まう者達と共に生きるものだ! けれど、ウェン・カムイはただ自分の楽しみの為だけに他の命を弄び、奪い、殺戮を好むもの! だからあれはキムン・カムイじゃない!」

「ウェン・カムイ……」

「本当に腹立たしいです……キムン・カムイが眠りについていた事を良いことに好き勝手にやり続けて……あいつのせいで、何人の登山客が遭難させられたか……」


 ざわりと、空気が動く。

 ハッと見れば、職員さんを中心に空気が動いていた。


「そればかりか……けれど、それも今日までだよ。もう……お前の好き勝手にはさせない」


 そう言うと、職員さんが胸元から取り出した笛を吹く。


 ピィィィィと凄まじい音が山に響き渡る。

 それと共に、何かがこちらに猛スピードで近づいてくる音が聞こえる。


「掴まって下さい!」

「きゃあ!」


 気づけばウェン・カムイがわたしに向って走ってくる。

 それを避けようと、職員さんがわたしの手を掴み横へと避けた。

 と同時に、反対側の藪から飛び出す黒い影が見えた。


 その影に向かって職員さんが叫ぶ。


「キムン・カムイ! 聖なる山の神の一員として、その悪しき思いに堕ちた神を打ち砕け!」


キムン・カムイ?!


 驚き叫ぼうとしたわたしに、黒い影――いや、キムン・カムイがわたしを振り返る。


『再びお会い出来て嬉しいですよ――』


 キムン・カムイ……っ


 わたしは彼の名を叫ぶ。


 山に生まれ山と共に生き、無駄な殺生をせず山の獣達を導き人共に生きた彼を


 だからこそ、彼は神の一員として長きに渡って君臨する事となる


 緑葉も……そんなキムン・カムイに多大な信を置いていた。

 そうして彼に近づこうとしたわたしだが、職員さんに止められる。


「は、離して!」

「駄目です!」

「どうしてぇ?!」

「ここで彼の側に行けば、彼が来た意味がなくなります!」

「え?」

「彼はここであのウェン・カムイを引き留めてくれる。僕達が逃げる時間を稼いでくれる」

「そ、そんな……」


 わたし達は逃げる。

 キムン・カムイは残る。


 でも、そうすればキムン・カムイが!!


「そんな事は」

「やるんです!逃げるんです、でなければ何の意味もなくなるっ」

「意味って!逃げるなんて出来ないっ」


 そうだ、逃げるなんて出来ない


 わたしの脳裏に、沢山の人達の姿が思い浮かぶ。


 わたしに関わり、今回の事に巻き込まれた人達の姿。


 香奈に香奈のお母様、山頂に居る人達に登山客達


 香奈のお父様に、蒼麗様と蒼花様


 そして……波景


 しかも、新たにキムン・カムイまでも


 逃げるなんて出来ない


 一人だけ逃げるなんて


「もうこれ以上逃げたくないっ」


 不思議だった。

 あれだけ怖くて逃げたかった筈なのに……なのに、わたしを助けようとして現れてくれたキムン・カムイが危ない目に遭おうとしているのを見るやいなや、逃げようという気はなくなる。


 いや、本当はずっとそうだった


 他の人達をその場に置いたまま逃げるなんて


 逃げるなんてしたくなかった!


 けれどもう逃げてしまった過去はどうにもならない


 だから、もう逃げたくない


 そうして抵抗しようとするわたしは職員さんの手をふりほどこうとする。


「離して、離してぇぇ!」

「落ち着いて!」


 暴れるわたしを押さえつけ、職員さんが厳しい声で叱咤する。

 そのあまりの激しさにわたしは身をすくめた。


「貴方の気持ちは分ります。でもここで逃げなければ、貴方を助けようとした人達のがんばりは無駄になります」

「でもっ」

「それに逃げるんじゃありません」

「ど、どういう」


「生き延びるんです」


 その声は酷く穏やかだった。

 驚きに動きを止めたわたしに、職員さんは微笑む。


「生き延びるんです。大丈夫、貴方を助けてくれた人達がそうそう簡単に倒されるはずがない。きっと貴方の元に戻ってきます。だから、その人達と再会する為にも無事に生き延びるんです」

「あ……」

「それに……いるんでしょう?」


 彼がわたしのお腹を指さす。

 その瞬間、ドクンと存在を主張するようにお腹の中で鼓動が聞こえた。


 一気に、わたしの顔から血の気が引く。

 体が震え、恐怖に青ざめる。


 ああ……わたしは一体なんて事を


 わたしのやろうとしていた事は、赤ちゃんを危険に晒す事でもあるのだ


 そうだ


 生き延びなければ


 でなければ、赤ちゃんも死んでしまう


 わたしが無事に助からなければ、赤ちゃんに待ち受けているのは死だ


「生き延びて」


彼は言う。


「貴方を思う人の為にも生き延びて」


 彼の言葉に、わたし頷いた。

 そしてキムン・カムイを見る。


「キムン・カムイ……」

『…………』


「会えて嬉しかった……あなたは……ずっとここを守ってくれていたのね」

『……はい……ずっと……あの悲劇で生き延びた一人として……』


 彼は悲しそうに笑う。


『あの悲劇を見届けたものの一人として……』


 ずっと見守ってきました――


 ああ……彼を孤独にしたのは、このわたしだ


 緑葉を狂わせたが為に、この山に居た神の殆どが殺され尽くした


「キンム・カムイ……ごめんなさい……」


 わたしは貴方に何をして償えばいいのだろう


『生き延びて下され』

「キムン・カムイ?」

『そして……また会いましょう、大根様。その時には、今のお名前を教えて頂きたい』

「っ?!」

『大根様……この名を呼ぶのはこれで最後です。だから……今の貴方様のお名前を……でないと呼べません』


 ああ……彼はわたしを見てくれている


 過去に囚われた者達の中で、過去の悲劇を見届けた彼はわたしを


 今のわたしを見てくれている


 そして、名を教えるという約束を取り付けることで、再会を、未来がある事を望んでいる


 わたしもその未来を見てみたい


「わかりました……だから、また会いましょう」


 ウェン・カムイが咆哮をあげてキムン・カムイに襲い掛かる。


『愚かにして哀れなるものよ……そなたが狂ったのも、山の平穏を維持できなかった我の咎。せめてそなたが安楽を得られるよう……次の転生で幸せを手に入れられるようにしよう』


 キムン・カムイの嘆きの声が聞こえる。

 だが、それ以上聞いてはいられなかった。

 職員さんがわたしの手を掴み再び走り出したからだ。


 そうしてまた二人っきりで逃げ続けた。

 いつの間にか雨は上がり、空には星が輝いていた。

 月の青銀の光が深い木々の間から一条の光となってところどころ差し込んでいる。


 誰も居ない


 わたしと職員さんの二人以外は


「職員さん」

「なんですか?」

「貴方は……人間ではないですね」


 キムン・カムイを知っている彼


 それどころか、キムン・カムイを呼び寄せ、命じる事が出来た彼


 そんな事が出来るのは、人ではない証拠だ


 わたしの中に、神という単語が浮かぶ


 それも――


「貴方は……今の山貴神様ですか?」


 緑葉亡き後、山貴神として現在まで山を守り続けてきた偉大なる神


 そして……緑波の義理の弟


 ようやく立ち止まり、こちらを見た職員さんをわたしは見つめる。


 丁度そこは、月の光が差し込みお互いの顔が見えた。

 わたしは、緑葉に似ているところを探す。

 彼はとても平凡な顔をしていた。

 誰もが美しいと称えた緑葉のような圧倒的な美しさどころか、平均的な美しさも見当たらない。


 けれど、その柔和な顔の作りは温かさと人の良さを感じさせた。


「貴方は……緑波の義理の弟ですか?」


 そうだとすれば、キムン・カムイに命令出来たのも頷ける。

 だが、彼は困ったように微笑むと、悲しそうに首を横に振った。


「違います」

「違う?」

「僕は……山貴神ではありません」


 山貴神ではない


 でも、キムン・カムイに命令をしていた


 あの、山の神の中では高位に属する聖なる獣神に


「それでも違うんです」


 まるでこちらの考えを読んだかのように、彼は言う。


「では……あなたは誰?」


 わたしは当然の疑問をぶつけた。


「どうして……あなただけ無事だったの?」


 わたし達を襲ってきた人達は、山頂にいた人達だ。

 登山服を身につけた人達、ロープウェイで観光に来ていた人達と様々だった が、彼らの中には山頂にいる時にみかけた人達も多くいた。


 きっと山頂は、王女の手に落ちたのだろう


 けれど……そこからどうしてこの人だけが逃げられたのだろう?


 他にも逃げられた人がいるとは、わたしは思わなかった。

 なぜなら、あの王女がそこまで甘くはない事をわたしは知っていたからだ。


 そう……だって……わたしは見てしまった。

 わたしを襲った人達の中に……香奈が居たことを。


 なのに……どうしてこの人だけが


 人間は全て操られている


 だとすれば、この人は人ではない


 だとすれば誰?


 山貴神でもないのならば、あなたは誰?


 彼は答えない。

 一瞬浮かべた苦しそうな表情に、わたしは強い罪悪感を抱く。


「あ、あの……」


 なんと言えばいいのか分らない。

 けれど、口は勝手に動いていた。


「あ、貴方はここの山に関係する神なのですか?」

「え?」

「いや、昔と違って今は神も自分の場所を守るのに人に紛れて暮らしている事も多いですし……」


 昔のように社でふんぞりかえるのではなく、人に化けて人と同じように生活をする。

 そんな神が今は沢山居た。


「あなたも……この山を守る神だから……ここに居るのかと思ったんです」


 キムン・カムイのように――


 すると、職員さんは静かに空を見上げた。

 しばらく、彼は何も言わなかった。


 そうしてどれほどの時間が経った頃か


「最初から此処に居たんです――ずっと」


 ぽつりと彼は答えた。


「最初から?」


 それはなんだか変な答えだ。

 しかし彼はそのまま続ける。


「最初からここにいました。ここでずっと見てきた……僕、他の場所を知らないんです。ずっとここに居て……ここから全部見てた。この山にまつわる悲しい出来事も、その出来事によって引き起こされた惨劇の全てを……でも……僕には何も出来なかった。僕は酷く無力で……誰も助ける事なんて出来なかった」


 この山で出来た悲しい出来事が、大根の殺害と緑葉の起こした惨劇だという事にわたしは気づいた。

 そして……それを見ていたという事は、彼がその時に生きていた神の一人だという事に……わたしは気づいてしまった。


 彼もまた、キムン・カムイと共に、この山で孤独に生きてきた神なのだろう


 この山を司っていた神達は……緑波に仕えていた者達の大半は天界の上層部が放った者達によって殺害された。

 もう残っているのはほんのわずかな者達である。


「あなたは……」

「悔しかった……僕は何も出来なかった。悲しみの声も、苦しいと叫ぶ声も聞こえていたのに……それでも僕は何も出来なかった。僕に出来たのは……ただ、見守るだけだった」


 何も出来ない無力な自分を厭う事もあったのだろう。

 いつの間にか俯かせた面は、悔しげに唇を噛んでいた。


「大切なのに……僕はあまりにも無力すぎた……」

「職員さん……」

「あの人の悲しさと妻に対する後悔が……あの人の叫びと夫を止めてと嘆く声が……聞こえるのに、僕は何も出来ない。それどころか、あの人が狂うのを、あの人に仕える者達が死霊として復活するのも……僕はただ見ているだけしか出来なかったんだ」


 その言葉は、やはり職員さんがこの山で緑葉が狂った時にそこに生きていた神だという事に他ならない。


「お願い……助けてあげて下さい」

「職員さん?」

「もう……僕は見ていたくない。だから……僕は……」


 彼は必死な様子で告げる。


「僕も……もう少しだけなら時間がある。あの人達が時間をくれたから……」

「あの人達?」

「双子のお姫様……僕に……消えゆく僕にくれたんだ、時間」


 双子のお姫様という言葉に、蒼麗様と蒼花様の顔が思い浮かぶ。

 ふと口をついてその名が出れば、彼は泣きそうな顔で笑った。


「そうです……その二人です。あの人達は僕を助けてくれた。消えるはずだった時間をくれて……消える筈だった命を次へと紡いでくれた」

「職員さん……」

「だから……僕は今も此処に居られる。あの人達が届けてくれたから……僕は……守れるんだ」


 その守るという言葉が誰に向けられているかは聞かずともわかった。


「どうして……わたしを守ってくれるんですか?」


 そう聞けば


「もう後悔しない為です」


職員さんは笑う。


「もう……僕は後悔したくない。守りたいのに見ているだけなんて嫌なんだ」


 その言葉は決意に満ちあふれている。


 そして


「みんなを助けたい。あの悲劇で亡くなった人達を、今もこの山に囚われ続けている人達がゆっくりと眠り、新たなる人生を歩めるように……そして既に新たなる人生を歩みながらも過去に囚われた人達が、今後もまっすぐ前を向いて歩いて行けるように」


 ああ……彼も願ってくれているのだと、わたしは気づいた。

 緑葉を、大根を、この山で無残に死んでいった者達を救いたいと願っている人が、此処にも居る。

 自分だけではない。他にもいるのだ。

 沢山、沢山そう思ってくれている人が。


 嬉しさが、力強さが、わたしの中に漲ってくる。


「あの、職員さん」

「はい?」

「あなたの名前、教えてくれますか?」


 不意のその問い掛けは彼にとって予想外だったのか、きょとんと首を傾げてみせる。


「だって……教えてあげたいんです。緑葉に、大根に、そして他の人達に。こんなにもあなた達の事を心配してくれる人が居るって事を。ずっとずっと緑葉達が囚われた鎖から解放される事を祈ってくれて……こんなにも心配してくれる人がいるって……今は確かに耳を傾けてくれないかもしれません。でも……でも、いつか彼らが我を取り戻せるようになったら……必死の呼びかけに答えてくれるようになったら……あなたの事も教えたい。どんな風になっても救われるその日を待っててくれたんだって」


 すると、職員さんは少し照れたような笑顔を浮かべた。


「だから……教えて下さい」


 と、そこでわたしは自分の名を名乗り忘れていた事に気づき慌てて口を開く。


「わたしの名は果那」

「良い名ですね……」


 職員さんがわたしの名をほめる。

 今まで大根と呼ばれ、大根である事を望まれてきたわたしにとって、そのほめ言葉はとても嬉しいものだった。


 職員さんの名前はなんだろうか


 わたしは少しだけドキドキしながら、職員さんが名前を名乗るのを待った。


 だが職員さんは微笑むだけで、その名を口にする事は無かった。



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