記憶と王太子妃
暗い闇の中、わたしを目覚めさせたのは誰かの泣き声だった。
どうしてそんなに悲しげに泣くのか
気づけば、わたしは泣き声へと向かって歩いていた。
そうしてしばらく歩いた頃、突如視界が開ける。
そこは何処かの森の中か……大量の雨が降っていた。
泣き声が聞こえる
わたしは一人の少女を見つけた。
少女は山の神への供物だった。
降りしきる雨が止むよう、少女は生け贄として捧げられたのだ。
既に此処には何日も居るらしく、今にもその命の灯火は消えそうだった。
山の獣達が少女を見ている。
その様は、早くその獲物を食らいたいというよりは、その消えゆく命を哀れんでいるようにも思えた。
「ここか……その哀れなる生け贄の居場所は」
暗い森の中、ようやくその光は現れた。
焦茶色の髪に緑色の瞳。
すらりとした長身で、年の頃は二十歳頃。
美しいのは言うまでもないが、にじみ出る温厚さと優美さは、雄大で全てを包み込むような大地を思わせる。
三つ編みに編まれた長い髪をゆらしながら、彼はゆっくりとこちらに歩いてくる。
男は少女を哀れむような目で見つめた。
「そなたの名は?」
「……オオ…ネ…」
「オオネ……それが勝手な思い込みで私に捧げられたそなたの名前か……」
ため息をつくと、男はオオネを戒める鎖をとく。
そしてその小さな体をひょいと抱き上げた。
「私と来るか?」
「わたし……は…くもつ…」
「供物か……ならば、なおさら私の元に来なければな」
そう言うと、何処か悲しそうな表情を浮かべて彼はオオネを見る。
「しっかり掴まっておいで」
次の瞬間、状況は一変していた。
先ほどまで居た筈の山の中は、何処かの建物の中らしい。
それどころか、王宮住まいだったわたしですらため息をつくほど美しい部屋だった。
色とりどりの衣装を着けた人々が男を見かけるたび膝をつく。
それだけでこの男が高い身分なのだということがわたしには分かった。
それは、オオネも同じらしく、その小さな体を更に小さくする。
少し年老いた女性のもとにまで来ると、男はオオネを下に降ろした。
「山貴神様、その方は?」
山貴神?
わたしはギョッとして山貴神と呼ばれた男を見た。
山貴神――偉大なる山の神でありながら、残酷な所行の限りを尽くして封印された山の神。
その名で呼ばれたという事は、この男があの山貴神?
まさかと思い戸惑うわたしだったが、すぐにある事に気づく。
オオネ――
オオネと呼ばれた少女。
山貴神にとってオオネはゆかりの深い人物らしい事は既に分かっていた。
あれほど妄執している様子だったのだから。
山貴神にオオネ
その二人がいると言うことは、ここは
わたしは呆然と山貴神と呼ばれた男とオオネという少女を見つめた。
「ああ、これお待ちなさい!」
オオネと呼ばれた少女が立ち去ろうとする山貴神に縋り付く。
「なんという事を!!」
「よいよい、怖い目にあったのだから仕方ない。一人で何日も山の中に置き去りにされていたのだからな」
「なんと……」
年老いた女性がオオネを不憫そうに見つめる。
「このような幼き子を……人にとっては子供は宝ではないのでしょうか?」
「宝だろう。だが、死しても守るまではなかなか行かないらしい」
ギュッと自分の衣を握りしめるオオネに、山貴神は視線を合わせるように膝をつくと優しく微笑んだ。
「ここはお前を虐めるものはいない。飢えも何もない場所だ。安心するといい」
だが、それでも離れないオオネに、山貴神は困ったように笑って言った。
「ならばお前が安心するまで共にいよう」
その言葉に、ようやくオオネはコクリと頷いた。
それだけ見れば、酷く心温まる光景だっただろう。
けれど……わたしは知ってしまった。
オオネと呼ばれた少女は、山貴神の命を受けた女官によって育てられた。
山貴神の言ったとおり、飢えもなくオオネは豊かな生活を送ることが出来た。
しかし――山貴神の姿はあれ以来……オオネを拾ってきた日以来、オオネの側で見かけることはなかった。
そもそも、山貴神はあまり山頂の宮にいない。
その上、周囲の話から、山貴神は気まぐれにオオネを拾ったと知った。
気まぐれで拾ってきた事もあって、あまり興味はなかったらしい。
それでなくとも、オオネは平凡な顔立ちをしている。
昔に比べて体つきはふっくらとしてきたが、地味で十人並の顔立ちは確かに男の目を引くモノではないだろう。
また山貴神は恋多き神と称されるほど多くの恋人がいるらしく、よく噂になっていた。
だが、どれも戯れの恋で終わってしまう。儚く、まるで砂上の楼閣のような恋が生み出すものは果たしてなんなのだろうか。
山貴神は敬愛すべき地位の名だった。
数多いる山の神の長が名乗ることを許される名であり、現在山貴神を名乗る彼は歴代の山貴神の中でも最も強く美しく優秀であるらしい。
山の神として、立派に采配をふるい繁栄と栄華をもたらす山貴神。
その一方で、女性達と自堕落的に過ごす彼をわたしはただ見ていた。
そのうち、過去は数年の時が経過し、オオネは年頃と呼ばれる年齢になっていた。
オオネは山貴神を一途に慕いながら、同時に冷静な思考を持っていた。
その冷静な部分で、オオネは自分が彼とは違う存在だという事に気づいていた。
オオネの思いが全てわたしの中に流れ込む
山貴神は神
オオネは人間
神と人が共にいることは出来ない
永遠の命を持つ神とは違い、人である自分は先において死ぬだろう
たとえどんなに愛していても、自分は共にいることは出来ない
オオネは山貴神を愛していた
それは年頃の少女が恋に恋するものではなく、真実愛していた
けれどその恋が実らぬ事に気づき、一人その思いを封印した
いつか自分は山貴神の側から離れるのだと
離れなければならない日が来るのだと心に決めて
いつか来る別れの日を思い浮かべ、その時は今までの礼を述べて笑顔で去ろうとオオネは決めていた
その未来が狂ったのは、オオネが一六歳になった頃だった。
ある日、いつものように山の泉で水浴びをしていたオオネの姿に、いつの間にか少女から立派な女性になっていた事に気づいた山貴神がオオネを寝所に召したのだ。
何も聞かされず、突然呼ばれたオオネを山貴神は我がモノにした。
水浴びをしていたオオネを見た瞬間、内面からにじみ出る美しさに一瞬にして虜になった山貴神。
しかし自分が恋をした事に気づくことなく、彼は神ゆえの傲慢さでオオネの未来を決めたのだ。
オオネもこのまま人間界に戻るよりは、わたしの眷属となって永き時を神として生きる方がよっぽど幸せに違いない
オオネの事を思えばその方が幸せだと
自分の恋に気づくことなく、自分がオオネに側に居て貰いたいと言う思いを無意識に都合良くすり替えて、山貴神はオオネを眷属にしてしまった。
そして彼はオオネに言った。
「人でありながら神となった幸運を持つお前に名をあげよう。その名の通り、この地に大いなる根を張り美しく咲き誇るように、大いなる根という字を与えよう」
そして彼女はオオネから大根となり、人としての生を失った。