哀しみの王太子妃
悲鳴をあげて飛び起きれば、辺りはまだ闇に包まれていた。
「はぁ……はぁ……」
全身から冷や汗が吹き出し、体がガタガタと震える。
それは、今見たものが夢だと分ってもなお、わたしを恐怖に陥れた。
「あれは……一体……」
夢の中で自分は独りぼっちだった。
大勢の者達に追い詰められて逃げ惑い、最後には捕まって、沢山の刃物で体を切り刻まれた。
その痛みが、切り裂かれる生々しい感触が再び襲い掛かり、気づけば助けを求めるように隣に手を伸ばす。
が――掌に伝わった感触は、シーツの冷たい感触だけだった。
「あ……」
隣には誰も居ない。
そう、居るはずがない事は分かっていた筈なのに。
わたしは暗闇になれ始めた視界に、本来あの人がいるべき場所を写し込む。
「…………」
誰も居ないわたしの隣。
五年前までは隣で美しい寝顔を見せていたあの人は……あの日以来、此処に来る事はなくなった。
「波景……」
あの人の名前が虚しく口からこぼれ落ちる。
無駄なのに
だってあの人はもう
正妻であるわたしではない
別の愛する人の元で安らいでいるのだから
お前は世界一幸せになれるよ
それが父の口癖だった
けれどそれは所詮夢物語でしかない
父の言うとおり幸せになれるのであれば、どうして今自分はこんなにも孤独なのだろうか
どうして夫は自分以外の相手を大切にするのか
凪国王宮大広間。
豪華な料理、美しい内装、輝く照明。
美しく着飾った男女達が、宮廷楽団が奏でる音楽に合わせて優雅に踊っている。
現在開かれている宴は、歓迎の宴だ。
といっても、隣国からの使者の歓迎とかそういうものではない。
夫の新たな側室となる姫君の歓迎の宴である。
「王太子妃様、お飲み物です」
召使いの女性の差し出す杯を笑顔で受け取ると、それを一気に飲み干す。
酒類は苦手だが、これはアルコールが駄目な相手でも飲みやすく作られている為、わたしでも飲むことが出来る。
「お代わりはどうしますか?」
「これで十分よ」
そう言うと、恭しく頭を下げて立ち去る召使いを見送り、わたしは小さくため息をついた。
玉座の隣の席に腰を下ろしながら、沢山の人で溢れかえる広間を上から見下ろした。
祖国では社交的な場には殆ど出ることもなく、津国の影姫とさえ囁かれていたわたしだ。
こういった社交的な場は苦手でしかない。
周囲の人間もそれを知っていて、あえて話しかけようとする者はいない。唯一の例外は夫だけだったが、今わたしの隣に彼はいない。
視線をずらせば、夫の姿はすぐに見つけられた。
広間の中央に不自然な人だかりが出来ていて、彼はその中心に立っている。
遠目に見ても麗しい夫の姿はよく目立つ。
自分より六つ年下の夫は今年で十六歳。
雪のような白い髪。思慮深い勿忘草色の瞳。
透き通るように白い肌に華奢な輪郭。
すらりとした長身に優美な衣装を纏った姿は、どこか背徳的ながらも優麗であり、息をのむほどに美しい。
凪国王太子――凪 波景
炎水界でも一、二を争う大国の次期最高権力者である夫は、さっきからずっと広間にいて、群がる貴族達の相手をそつなくこなしている。
恥ずかしがり屋なわたしには到底真似できないし、夫も周囲もそれを期待していない。
今わたしに求められている事は、王太子妃として、ただここで人形のように座っている事だけ。
そんな夫の隣には、一人の美しい姫君が寄り添っている。
彼女は、凪国とは同盟関係にある沙国の第三王女だ。
そして
夫の新しい側室にしてこの宴の主役である。
沙国の美しい第三王女は、夫となる美しい王太子をうっとりと見上げている。
そんな彼女を、夫は愛しげに見つめているのが分かった。
因みに新しいというのは、夫には既に側室がいるからだ。
今から五年前に迎えた側室は、わたしと同じ国の貴族の姫君である。
それも、わたしが嫁ぐときに連れてきた侍女である。
侍女が主君の夫に手をつけられる事は珍しくない。
寧ろ主君に子供が出来なければ、侍女が代わりを担う事もある。
しかし、それでも驚き傷ついたのは確かだ。
しかも夫はその側室がお気に入りなのか、毎日のように通い詰めているという。
それほど愛している女性がいるにも関わらず、今回夫は新たな側室を迎え入れた。
果たして先の側室はどう思うのか。
怒るだろうか
泣くだろうか
それとも嫉妬するだろうか
だが……たとえ何か起ころうとも自分には関係ないだろう。
結婚してから十年余り。
側室を迎えて以降、まるで忘れられたかのように夫の訪れのないわたしはお飾りの正妃でしかないのだから。
寵愛を巡って争う側室達の諍いなど最初からお呼びではないのだ。
そもそも、側室を歓迎する宴に居ることすらお門違いである。
「王太子妃様?どうなされましたか?」
心配げに側に居た女官が問いかける。
「少し疲れたみたい。今夜はもう部屋に下がるから、王太子殿下に伝えておいてくれる?」
「かしこまりました」
女官が立ち去った後、素早く立ち上がり目立たないようにひっそりと出口へと向かう。
その途中で背中に視線を感じた気がしたが、今は一刻も早くこの場から立ち去りたくてそのまま振り返ることなく出口をくぐり抜けた。
どうせわたしが居なくなっても誰も気にとめない。
もともと厄介者でしかないお飾りの王太子妃が宴に出席している方が迷惑なのだ。
そうしてそのまま一度も振り返ることなく、賑やかな広間を後にした。
華やかな衣装は王太子妃としての誇りだ。
そんな意味不明な理由で着せられた衣装は脱ぐのも一苦労だった。
それでも時間をかけてようやく部屋着に着替えて一息ついたわたしは、そのまま天蓋付きの寝台へと飛び込んだ。
大人が五人寝ても余裕のある広い寝台は、わたしの重みを軽く受け止める。枕も上掛けもシーツも何かもが最高級品であり、凪国の豊かさを思い知らされる。
しばらくシーツの滑らかさを堪能した後、仰向けに寝転がった。
「疲れた……」
天蓋には美しい装飾がなされている。
それは祖国――津国の装飾だった。
寝台だけではない。
部屋の内装は全て津国のものである。
津国から嫁いでくるにあたって、寂しくないようにと夫が整えたという。
そう……まだ結婚した当初は夫も優しく、自分の為に細々と色々なことをしてくれた。
鏡台へと向かい、椅子に腰を下ろす。
ゆったりとした造りの椅子も津国のデザインだ。
鏡をのぞき込めば、そこにはどこにでもいるような平凡な顔立ちをした少女が一人いるのみ。
それがわたしだ。
「これで津国の第三王女というのだから驚くのも無理はないですね」
津国の第三王女――果那と言えばおよそ知らぬ者がいない。
それは良い意味ではなく、寧ろ反対の意味でだ。
平凡な容姿と平凡以下の能力を持つ津国王妃とうり二つの王女様。
父に似た、美男美女揃いの兄弟達の中で唯一の失敗作――それがわたしだった。
十人も兄弟がいる中で、母に似たのはわたしただ一人。
他の兄弟達は皆父の美しい美貌と豊かな才能と強大な潜在能力を受け継ぎ、津国の王子王女に恥じぬ優秀さを披露している。
その一方で、わたしは平凡以下の才能と微弱な神力で恥ばかり披露していた。
醜いアヒルの子
それが小さい頃から向けられてきた侮蔑の言葉
何をしても平凡かそれ以下であり、いつもいつも優秀な兄弟達と比べられてきた。
宴ではいつも華としてもてはやされる兄弟達とは裏腹に、わたしはいつも壁の華だった。
平凡でなんの面白みもない王女を相手にするよりも美しく愛らしい王女達や聡明で優美な王子達の関心を引きたくなるのは当然と言えよう。
寧ろわたしが仲間に入ろうとすればいつも迷惑そうな顔をされ、いつしか宴自体に参加しなくなった。
おかげで、今度は津国の影姫と嘲笑われたがもはやどうでも良かった。
面倒ごとには関わらない。
そうする事で自分を守ってきた。
そんな私は年頃になっても縁談が来なかった。
いや、幾つか来てはいたが、それらは全て第三王女という身分を持つ妻が欲しいだけであってわたしを求めてくれるものではなかった。
寧ろ、既に愛人がいる、または愛人を作る気が全身からにじみ出ていた。それに嫌気がさして、のらりくらりと縁談をかわし続けていた。
父や周囲も別に結婚を強制する事もなく、気づけば既に二十歳を超えてしまっていた。
その頃になると、王族にしては年増という要素も増えたことにより、縁談の数は減ったが、今度は後妻にという話が出始めた。
これには父も怒りを露わにした事もありすぐに話は立ち消えとなったが、その事でわたしも決意した。
このまま一生独身でいよう
神殿の巫女にでもなって一生涯一人で過ごそうと決めた。
もちろん家族に言えば反対されるので、準備は全て一人で進めていた。
が、あと少しというところでそれがバレてしまったのだ。
原因は今の夫にある。
夫とは彼が赤ん坊の頃からのつきあいだった。
六つも年が離れていた為、わたしにとっては弟同然でかわいがっていた。姉の果凜とも仲が良かった事もあり、いつも三人で遊んでいた。
小さい頃から『カナちゃん』と慕ってくれた彼だが、気づけば十五歳という実年齢には到底思えないほどの成長と大人びた雰囲気を併せ持っていた。
けれど自分にとってはまだまだ子供。
未だに『カナちゃん』と慕ってくれる夫――波景に気を許し、ついつい神殿入りについて話したところ、その日のうちに縁談が来たのだ。
相手は波景だった。
娘の神殿入り希望など寝耳に水だった父や周囲は、母の反対も聞かずに神殿入りさせるぐらいならと凪国からの縁談を受け入れてしまった。
一体何故縁談なんて申し込んできたのか分からない。
が、後々に聞けば果那が津国の王太子妃になるという事で、凪国の次期王妃として津国から姫君を迎える事で双方の同盟をより強力なものにしたいとの事だった。
そうして選ばれたのがこのわたしだ。
何故選ばれたのかは分からないが、たぶん双方の思惑が一致したのだけは間違いない。
津国側としては神殿入りを阻止するべく、凪国側としては王家の姫で波景と一番交流のある姫君を得るべく。
次期王妃ならば姉や妹の方が良いのではないかとも思ったが、姉であれば年が離れすぎる上、妹達は何故か波景と気が合わなかった。
となれば、残るのはわたしのみ。
そうして迎えられた凪国でわたしは王太子妃として、六つ年下の波景と結婚したのだった。
――――けれど、幸せは長くは続かなかった
結婚から五年後。
波景はわたしが祖国から連れてきた侍女を側室と迎えたのだ。
五年経っても子供が産まれない事を憂いた者達が、側室を薦めたのだ。
そうして薦められた数々の美姫達の中で、波景はなんとよりにもよってわたしの侍女を側室として召し上げてしまったのだ。
彼女はわたしとは一番仲の良かった侍女だった。
にも関わらず、夫は彼女を側室として宮を与えて寵愛を注いだ。
王太子ともなれば、世継ぎを作るために側室の一人や二人いて当然かもしれない。
それでも、わたしには理解できなかった。
他の女に触れた手で、波景に触られるのは苦痛だった。
その時に気づいたのだ。ああ、わたしは波景を愛していたのだと。
弟ではなく、一人の男性としていつの間にか愛していたのだ。
六つも年下の弟のような少年を。
けれど愛を自覚すればするほど他の女を触った波景への嫌悪感は積もり募っていった。
やがて波景はわたしに近寄らなくなり、今では寝室も別々だ。
夫婦仲はすっかり冷め切っている。
何度目になるか分からないため息がこぼれ落ちる。
「所詮は政略の下に誓った婚姻。私に求められているのは同盟の証であり、世継ぎを生み出すことではないわ」
そう……わたしは津国と凪国の同盟を強化する為だけに存在する。
それが美しさも優秀さも受け継がなかった醜いアヒルの子であるわたしに与えられた唯一の使命である。