妄執と王太子妃
それまで狂気に満ちた笑みを浮かべていた波景の顔が凍り付く。
「……オオネ……」
オオネ――その言葉に、わたしはあの植物園での出来事を思い出す。
植物園の職員が言っていた言葉。
『破魔大根の正式な呼び方は『ハマオオネ』なんですよ』
その植物を見つけた人の名前が使われているという。
そう……だから、破魔大根はハマオオネと呼ばれていて……
「いったいどういう……」
「果那は知っているかい?」
突然そんな事を言い出した香奈のお父様をわたしは勢いよく見上げた。
「この山に咲く破魔大根の事を」
「え?」
「この山で一番最初に名付けられた高山植物だっけね……破魔大根は」
そう……破魔大根はこの山で一番最初に見つけられて名前をつけられた植物だ。そして今現在真っ先に絶滅の危機に瀕している。
が、何故香奈のお父様は突然破魔大根の事を話し出したのだろうか?
破魔大根とオオネ
どちらも、オオネ
ふと、わたしの中で二つが繋がっているのではないかという考えが生まれる。なぜなら、破魔大根の名は一番最初に見つけた人の名前からつけられている。そして、香奈のお父様が言われたオオネと言う名。
まさか――
「その……オオネという人は……」
「そう……破魔大根の名付け親だよ」
彼女が破魔大根を発見し、この世に送り出した最初の存在であると香奈のお父様は頷いた。
「そして……山貴神が愛した人でもあった」
愛した……人?
「オオネ……オオネ……オォォネェェェ!!」
波景が絶叫したかと思うと、突如わたしの目の前に現れた。
悲鳴を上げる間もなく、波景の腕が伸ばされる。
「オオォォォネェェェェ!!」
このままでは捕まると思った瞬間、わたしは香奈のお父様に抱きかかえられる。
そして伸ばされた手から逃れるように香奈のお父様が後ろへと飛び退いた。
「ふ~む……どうやら憑依されているのは波景だけじゃないって事か~」
「え?」
憑依されているのが波景だけではない?
その言葉に首をかしげた時だった。
「ニガサナァァィオオネェェェ……ワタシィィコンドコソォォ」
「自分を取り戻せ……という声はこのままじゃ届かないな……」
「波景……」
狂ったように叫び続ける波景。
その姿は恐ろしくて仕方がないはずなのに、同時に眼を離すことの出来ない壮絶なまでの美しさと色香が爆発するように放出されているようであり、その影響を受けた木々がまるで彼の意志を受けたかのようにこちらに迫ってきた。
「水だけじゃなくて木々もかい?まあ……波景だけじゃなく、山貴神の力も加わっているからだろうけど……やっかいだ……本当にやっかいだ」
「ど、どうしたらいいんでしょうか?!」
「ん?簡単だよ」
そう言うと、香奈のお父様はくるりと波景から背を向ける。
「逃げるが勝ちって事もあるよね~」
と、その側で倒れていた登山家の女性も連れて一目算に逃げ出した。
「えぇぇぇぇ?!」
普通ここは立ち向かうとかそういう展開で行くのが普通ではないだろうか?
「やばそうな奴には近づかないのが基本だからね~」
あはははははは、と笑い軽やかに走る香奈のお父様の様子からは到底二人も抱きかかえているとは思えないほど余裕だった。
このまま留まっていても何とか出来るのではないかとも思うが、それはまた別の話らしく、香奈のお父様が立ち止まることはなかった。
しかし波景――山貴神の方はそうではなく、後ろから追いかけてくる声が聞こえてきた。
「かぇせぇぇぇぇ!」
「嫌だよ~、ここで立ち止まったらオオネにゲフンゲフンでイヤんな事するつもりじゃん~」
「ゲフンゲフンって何ですか!!」
「ん?詳しく聞きたい?」
そう問い返されればもはや何も言えない。
その口から、あんな事やこんな事を間近で話されて冷静で言われるほどわたしも神として出来てないし。
「このまま山頂まで逃げ切るよ!」
そう言うと、香奈のお父様は更にスピードを上げていく。
そうこうするうちに、後ろから追いかけてくる声は聞こえなくなった。
逃げ切れたか
ホッと息をついた。
「ニガサナイ」
間近から聞こえてきた声は女性のものだった。
続いてうめき声が聞こえて横を向けば、先ほどまで気絶していた筈の登山家の女性が香奈のお父様の首を絞めていた。
「一体何を!!」
「くっ!!」
登山家の女性を力ずくで引きはがした香奈のお父様がわたしを連れて後ずさる。
「どうやら……彼女、操られたみたい」
あっけらかんと言い切る口調とは裏腹に、香奈のお父様の表情は厳しかった。
「操られてって……」
「まずいな……このままじゃ面倒なことになる」
「オオネヲヨコセェェ!!」
それはおよそ女性のものとは思えない怒声と共に、登山家の女性がわたしに飛びかかってくる。
それを避けようと香奈のお父様が後ろに下がった時だった。
香奈のお父様に押されるようにして下がったわたしの体が、後ろから強く引っ張られる。
「あ――」
それが水の触手だと気づいた時、既に私の体はいつのまにか背後に迫っていた崖の下へと引きずり込まれていく。
「果那ぁぁ!!」
香奈のお父様の声が響く。
その声に勇気づけられるように抗おうとしたわたしは、ふと下にいる波景と眼があった。
「――――っ」
このままでは、わたしは波景のもとにつれて行かれるだろう。
捕まりたくない
逃げたい
逃げ出したい
波景の事を愛している筈なのに、恐怖がそれを覆い尽くす
その間にも、わたしの体が波景の手の中へと落ちていく
「オオネ」
愛しげにオオネと呼ぶ波景の声が聞こえた。
今まで散々側室を……別の女性の名を呼び、今また別の女性の名を呼ぶ。
それも愛しげに、大切そうに、嬉しそうに
それが酷く腹立たしい
たとえ、山貴神に憑依されていようとも
どうしてわたしではない別の女性の名を呼ぶの?
貴方がわたしを連れ戻そうとするのは、山貴神に憑依されているから?
あなた自身にとってわたしは……
駄目だ
これ以上考えては駄目だ
これ以上思えばわたしはあの人を憎んでしまう
憎みたくない
愛しているのだ
幸せになって欲しいのだ
波景を愛している……でも彼を幸せに出来るのがたまたまわたしではなかったということ
それだけではないか
わたしは波景にとって不必要な存在なのだ!!
――ごめんなさい
え?
――もう貴方と一緒にいることは出来ない……なぜなら、貴方にとって必要なのは私ではないから
今にも消え入りそうな声が悲しげに呟く
――だから……さようなら
待って!!
わたしの目の前に、走り去る女性の後ろ姿が確かに見えた。
華奢で頼りない、小さな小さな背中が遠くなる。
その背に向かって手を伸ばす。
あの人がオオネだ
わたしは彼女を呼び止めようと口を開いた瞬間、その悲鳴は聞こえてきた。
どうして私を捨てていくのですか?!
その悲痛な叫びと共に、体に激痛が走る。
「ニガサナイニガサナイニガサナイ!!」
体を締め付ける触手の力が増す。
まるで死んでもニガサナイというように、波景の操る触手がわたしを捕らえる。
その力強さと今も聞こえてくる悲痛な叫びにわたしの意識は遠くなる。
だがここで気を失うわけにはいかない。
幸にも腹部に触手は絡みついていないが、このままではお腹の赤ちゃんが……。
「……かちゃん……赤ちゃ…」
その声を聞き取ったのか……波景が驚いたようにわたしを見る。
「アカチャン……そうか……ソォォカァァ!れで、コレデェイッショニイテクレルゥ!」
ケラケラと笑い出す波景にわたしの意識は次第に遠のいていく。
「イッショ……コレデイッショォ!」
これでオオネは私と一緒にいてくれる――
わたしが最後に耳にしたのは、言いようもない歓喜の声だった。