救出活動と王太子妃
荒ぶる風、しなる木々、打ち付けるような雨に雷。
けれど、それが人間界のものである限りは、わたしに傷一つつける事は出来ない。
猛獣の咆哮が聞こえる。
藪を突っ切ると、体長数メートルの巨大な熊が登山客の上にのしかかっていた。
悲鳴を上げる登山客の周囲には、何とか彼を助けようとする登山客達が居た。普通なら、自分が助かる為に仲間を見捨てても仕方ない、寧ろそうするのが当然であるにもかかわらず、必死に仲間を助けようとする人達にわたしは笑みを浮かべた。
と、足下に落ちていた小石を拾い上げる。
それを勢いよく――熊の目に向けて投げつける。
小石が熊の目を潰す。
凄まじい咆哮が聞こえ、むちゃくちゃに爪を振り回す。
その腕を蹴り上げ、わたしは熊の口の中に手を突っ込みその舌を力一杯つかみあげた。
ギャァァ――――――!!
悲鳴と共に、熊の姿が霧散した。
「傀儡……ですか…」
その熊は、生きている熊ではなかった。
遙か昔、多くの人間、他の動物達を食べるのではなく、ただ自分の快楽の為に弄びいたぶり殺し尽くした殺戮熊である。
といっても、その熊は今から数百年前に猟師達の手で葬られたが、成仏仕切れないその魂と残された骨を使って大罪神が自分の式神として蘇らせたのだ。
「果那、怪我はないかい?」
「はい……無事に倒しました。でも、まさか本当にいるなんて……」
最初にその式神の存在を知ったのは、今から数時間前の事である。
最初の遭難者達を助けに向かった時、そこには鎌を持った男性が居た。
それも、およそ急斜面の登山道にいるには場違いなジャージという軽装で。
そしてその顔は完全に殺戮がもたらす快楽に歪んでいた。
その男性を倒したのは、香奈のお父様だった。
あっという間に首を切り落とされたジャージ姿の男性に最初はわたしもやりすぎだと感じた。
しかし、首が落ちた瞬間にその男の人は、先ほどの熊と同じく霧散したのだ。そこに残されていた種のようなものに、香奈のお父様はそれが式神の核だと気づいたのだ。
それから数時間。
登山客を見つける度に、彼らに襲いかかっている人、動物は皆式神であった。今では、わたしも容赦なく倒すことが出来るまでになるほど、式神の数は多かった。
この不自然なまでの式神の数、そして式神が登山客を襲う様に、香奈のお父様はすぐに大罪神によるものだと悟られたのだ。
もちろん、中にはただ操られているだけの動物達もいたが、それらは気絶させるだけに留めていた。
しかし、式神は違う。完全に行動を止めない限りは何度も立ち上がって襲いかかってくる。
しかも、式神はそれこそ実在の人物や動物であり、これまた一切の情状酌量も同情も抱けないほどの残虐な行いをして殺された者達であり、そを反省するどころか寧ろ不満に思っている者達だというからやっかいだった。
「相手は恨みとか負の感情を操るのが上手い山の神様だったらしいからね~……こういうのはお手の物だと思うよ」
しかも、式神は全てこの山で死んだ者達である。
魂も骨も式神に必要な材料はたっぷりとあるのだろう。
「でも、よく分かりましたね、彼らがこの山で死んだ者達だって」
「あははは~、僕は冥界の神だよ?死者のリストを頭の中に叩き込むぐらいわけないって」
「そ、そうなんですか?」
「そうそう、死んだくせに現世に留まっている者達、そのうちの何割は極楽行きで、何割が地獄行きか、その死者の死んだ理由も前世の行いも全て頭の中に入ってるよ~。もちろんその死者のリストには、さっき式神で現れた奴らもいるしね~。いや~、この土地って大罪神の影響があるから、快楽殺人者とか悪霊とか怨霊とかたっぷりといるし、動物とかも生きるために殺すんじゃなくてただ自分が楽しいだけで殺すっていう、人間的思考で獲物を弄ぶ動物が多くてさ~……ほ~んと、困るよね~」
いつか大々的に浄化してやろうと現在の山の神と相談していた矢先にこれだよ~~と、のんきに笑う香奈のお父様にわたしは軽く頬がひきつった。
「さてと、さっさと登山客達を山頂へと向かわせよう」
そう言うと、香奈のお父様がいまだ呆然としている登山客達を集めて説明を始める。
普通なら、突然現れたわたし達――しかも軽装の不審者の言葉なんて聞けないだろうが、そこは口の上手い香奈のお父様だ。
毎回見事な話術で彼らの信頼を勝ち得て上手に誘導していく。
そうして、今回も登山客達は香奈のお父様の話術に騙された。
「じゃあ、彼の後についていけばいいから」
そうして木の陰から現れたのは一人の山男風の男性だった。
登山客達となんら変わりない装備に身を包んだ男性がこちらへとやってくる。これは、香奈のお父様が作り出した式神だ。
今までに助けた登山客達も、みんな香奈のお父様が作り出した式神に山頂まで案内させてきた。
余力は殆ど無いから、いくつも式神を維持することは出来ないが、それでも五つぐらいなら同時に維持する事は可能だとか。
もう少しわたしに力があれば、お手伝いが出来たのに……と、悔しく思う。
「助けて下さってありがとうございます」
何度も頭を下げる登山客達を見送ると、香奈のお父様がくるりと振り向いた。
「とりあえず、これで半分だね」
「はい」
「あと半分も結構やっかいな場所にいるよ~。しかも、大罪神の式神も近づいているし」
「すぐに行きましょう」
「そうだね――と行きたいところだが……まずい」
気配を探る香奈のお父様の顔色が変わる。
「二つの場所に同時に同時刻に式神がたどり着く」
「え?」
「しかも場所が離れすぎている」
場所が離れすぎている……と言うことは、両方を助けるには今までのようには行かないという事で……。
「一つは三十人ほどの登山客で……もう一人は……はぐれたのか?なんであんなところにいる?登山道からかなり離れているところだぞ?」
はぐれたのか迷ったのか。
ただ、香奈のお父様の話だと、どうやら一人の方は怪我をしているようだった。
「式神も気づいたらしい。その少し離れた場所にも、三人ほどの登山客がいるが、そちらには見向きもしていない」
「すぐに助けに行かなくてはっ」
「だが、それとは逆方向の場所にも式神が近づいている」
全く別の場所でそれぞれ危機が迫っている。
わたしの気持ちは決まった。
「わたしが、一人の方に行きます」
「果那?!」
「一人ぐらいなら、たとえ怪我をしていてもわたし一人でも何とかなります。ああ、その三人ほどの登山客の方も一緒につれていきます」
「だが」
「寧ろ、三十人ほどの大人数の方になれば、残念ながらわたしには無理だと思います。きっと上手く説得出来なくて疑心暗鬼に陥らせてしまうかも……」
しかし人数が少なければ、いざとなれば実力行使に出られる。
「しかし……くっ……迷っている時間もないみたいだな……だが、果那。ここで分かれたとして、もし何かあってもすぐに助けにはいけない」
「分かってます。大丈夫、人間界のものに神であるわたしを傷つける事はできません」
「確かにそうだな……だが、大罪神は別だ」
同じ神ならば傷つける事は可能だ。
向こうとしても完全復活する前に、神であるわたしとわざわざぶつかりたくないだろうが、それでも獲物を取られかければどんな手段に出るか分からない。
「大丈夫です……ですから、行って下さい」
「……………」
「大罪神も、今の状態で他の神に喧嘩を売るほど愚かではありません」
寧ろそうであって欲しいと願いながら言えば、硬い表情をした香奈のお父様が口を開いた。
「追っ手」
「……………」
「追っ手に見つかる危険性が高まるんだけどね……僕と離れると」
「…………そうですね」
わたしは頷いた。
だって気づいていたから。
追っ手から隠すための術をかけるだけの余力はないと香奈のお父様はここに来る前に言われていた。
けれど、優しい香奈のお父様は山をかけずり回る時に常にわたしの側に居ることで、ご自分を隠れ蓑代わりとしてわたしを隠してくれていた。
余力はないと言われていたのに
いや、余力がないからこそ常に側に居て、力を使う範囲を狭められていたのだ。
けれど、離れればそれも出来なくなる。
つまり、わたしは無防備状態となるのだ。
お守りの力も完全にはわたしを隠しきれないだろう。
だが、だからといってこのまま式神に襲われそうな人を見捨てることは出来ない。
たった一人で怪我をして動けなくて……しかも、どうやらかなり登山道から外れて普通の登山客は近づかないところにいるらしい。
そんな平時の時にでも見つけられない、寧ろそのまま遭難死しても誰も気づかないような場所に……たった……一人。
その心細さと恐怖を思えば、今すぐにでも助けに行きたかった。
普通の人間には出来なくても、神である私ならば出来る。
「香奈のお父様……わたしは大丈夫です」
「果那……」
既に日は落ち、もう少しで完全な夜になる。
その前に、なんとしても助けなければ。
「わたしは行きます」
「……わかった」
香奈のお父様がようやく頷いた。
「ただし、果那……大罪神と鉢合わせになりそうになったらすぐに逃げるって約束出来るかい?」
「はい」
わたしだって馬鹿ではない。
敵わない相手に特攻するチャレンジ精神は持ち合わせていない。
それに、今は守るものがいるのだ。
わたしはそっとお腹をなでた。
「大丈夫です、鉢合わせする前に登山客の人達を助け出して逃げますので」
その答えに、香奈のお父さんが笑い出した。
「前向きな答えで大いに結構!!……僕が合流するまで頑張るんだよ」
「はい」
式神を作り出せないわたしの場合、わたし自身が登山客達を案内するしかない。
そう……なんとしてでも、無事に山頂に戻らなければ……
そうしてわたしは香奈のお父様と別れ、一人逆方向にいる一人きりの登山客のもとへと走り出したのだった。