山の異変と王太子妃
「駄目だ、ロープウェイは今日は動かないそうだ」
保護者の一人がそう言うと、あちこちから落胆の声が聞こえてきた。
それもそうだ。今日は日帰りという予定で来たのだから。
一応、明日明後日は休日なので仕事の心配はないらしいが、だからといってこのままで良いわけはないだろう。
しかし、この大嵐の状態で帰るのは命を捨てるようなものだ。
しかも山を下るには、重装備が基本の登山道を降りていかなければならないが、そんな装備は誰一人としてしてきてない。
ふと、わたしは自分が皆を先導して山を下りようかと思った。
だがすぐにその考えを打ち消す。
わたし一人ならまだいい。
神であるわたしは、人間界の天候がどんなに荒れようが命の危険はない。それに、幼い頃に母に連れられて野山から標高数千メートルの山々をかけずり回った経験を持つわたしには、人間界の山程度であれば下山になんら苦労する事はない。
だが果たして他の人達はどうか?
普通の人間である人達であれば、大嵐の山を下山するなど下手をすれば死んでしまう。
「とりあえず、今日はここに泊まるしかないな」
宿泊施設側も状況を理解している為か、料金は半額で後払いにしてくれた。部屋数も十分に余っており、食料にも余裕があるので安心するようにと伝えてくれた。
「丁度先ほど食料を含めた物資の補給が済んだばかりでしてね」
宿泊施設の支配人らしき男性がそう言った。
「な~に、全室満杯状態でも一ヶ月は軽く持つ物資はありますから大丈夫ですよ」
「いや、一ヶ月嵐が続くと困るんですが」
保護者の一人の発言に、他の者達も頷いた。
その後、すぐに部屋割りがなされて鍵が渡される。
わたしは香奈と二人部屋で泊まることになった。
「わ~い、お泊まり~」
こんな状況だというのに、香奈のプラス思考には恐れ入る。
その間にも、登山客達が避難しにこの宿泊施設に駆け込んできた。
一応、宿泊施設は此処以外にもう一つあった。
この分では、そちらにも登山客が流れているだろう。
と、その時突然ずぶ濡れ状態の男性が駆け込んできた。
「た、助けてくれっ!」
叫び声に、周囲が騒然となる。
すぐに支配人の男性が駆け寄った。
「ど、どうしました?!」
「お、俺の仲間が遭難したっ」
遭難
その言葉に、辺りがざわめく。
相手は登山服姿である事から、登山客である事は分かった。
その登山客の仲間が遭難という事は……。
「詳しい状況を教えて下さい」
「どうしよう、どうしようどうしようどうしようっ!」
男性がパニックになり騒ぎ出す。
そんな男性の姿を見せないように、保護者達が子供達をつれて奥へと向かう。だが、わたしは動けなかった。
そのうちに、従業員が支配人に叫ぶ。
「支配人!別の山小屋から遭難の知らせです!」
「なんだと?!」
この山には、山頂の他にいくつかの山小屋や避難小屋がある。
そこからの遭難の報せに、支配人は呆然としている様子だった。
しかも、今駆け込んできた男の人のパーティーとは別のパーティーの遭難らしい。
そうこうしているうちに、遭難者が数十名に及ぶことが分かった。
しかもそのうち一パーティーは、なんと熊に襲われたとか。
「支配人、どうしますか?」
「すぐに救助の要請をしろっ」
「ですが、この大雨では入山は危険ですっ」
「果那お姉ちゃん……」
香奈が不安そうにわたしにしがみつく。
「大丈夫だよ、香奈」
そう言いながら、わたしは不安げに窓の外を眺めた。
相変わらず横殴りの風と雨。
こんな状態での遭難となれば、普通の人間であれば耐えられないだろう。
でも、神であるわたしなら耐えられる。
しかし……雨――水。
雨は水であり、水は凪国が司るもの。
こんな雨が降り続く中で外に出れば、すぐに感知されてしまうかも……。
そこで、わたしはある事に気づいた。
もしやこの雨はわたしを探すために凪国側が降らせているものではないだろうか?
ザワリとした恐怖がこみ上げる。
もしそうだとすれば、わたしのせいで遭難者が――
「違うよ~」
「きゃっ!」
突然背後から聞こえてきた声に、わたしは香奈を抱きしめたまま飛び上がった。
「あ~らら、ごめんごめん、驚かしたね」
「え、あ、香奈のお父様?!」
「清奈もいるよ~」
「香奈、大丈夫?」
「お母さん!」
いつの間にか背後に立っていた香奈のご両親に、わたしは危うく心臓が飛び出しかけた。
一方、香奈のお父様はそれを楽しそうに見ている。
「ど、どうしてここに?用事で出かけられている筈では」
「うん、その用事関係でここに来たんだ」
「え?」
「とりあえず話は部屋でね」
そうして、わたしは香奈のお父様に連れられて部屋へと向かった。
部屋に入ると、香奈のお父様がそれまでの笑顔を消して話し出した。
「この状況だけど、自然のものではないよ」
自然の物ではない
その言葉に、わたしは膝が崩れ落ちそうになった。
「や、やっぱり……わたしの追っ手が」
「いや、それは違うよ」
「え?」
呆然とするわたしに、香奈のお父様が苦笑した。
「むしろ、僕達の問題かな~。果那は今日どうして僕と清奈が出かけていたか知っているかい?」
「え、いえ……」
「ま、当然だよね、知らせてないし。でも、こうなると知らせておいた方が良いね」
そう言うと、果那のお父様はまじめな表情で言われた。
「実はね、僕と清奈はある魔を追っていたんだ」
それは、数年前まである廃墟に封印されていたものだったが、どこぞの馬鹿な心霊スポット巡りの若者達によって封印を解かれてしまったらしい。
その魔は、若者達を喰い殺した後はさらなる獲物を求めて逃げ回ったという。その為、力ある霊能力一族への退治の依頼が舞い込み、それを請け負ったのが香奈のご両親であったとか。
「で、何とかそいつは仕留めたんだけどね~……実はそいつ、この山でやっかいなことをしてくれててさ~」
その魔は、この山を根城にしていたという。
もともと、山に関するモノだったらしく、その魔にとっては非常に住み心地が良かったのだろう。
「しかもこの山の気は豊富で、それもかなり吸っちゃってね~」
おかげで、山の実りに影響が出てしまったという事だった。
特に、清浄な山の気が大量に必要な高山植物はもろにその被害を受けたとか。
そこでわたしは破魔大根を思い出す。
山からその姿を消し、今ではもう一輪しか咲いていない幻の高山植物。
それも、その魔のせいで……
「けど、問題はそれだけじゃなくてさ」
香奈のお父様が言う。
この山には、その魔以外にもともとある魔物が封印されていたという。
もともとはこの山の神だったが、後に生け贄を求め、山に入る者達を弄び喰い殺してきた大罪神。
現在の山の神との戦いの末に封印されたもののその影響は強く、毎年この山で行方不明になる者達も全てその大罪神が自らの復活の為の贄として呼び寄せていたとの事だった。
だが、それでも山の神のおかげで犠牲は最小限までに抑えられていたらしい。
しかし、今は違う。
大罪神は目覚めた。香奈のご両親が倒した魔の影響で、目覚めてしまったのだ。
この雨はそのせいだという。
この山に居る全ての人間達を逃がさないために、自分の糧とする為に雨を降らせ、獣を操り人々を襲っているのだ。
「まあ、でも大罪神もまさかこんなに別の神がいるなんて思わなかっただろうけどね」
「え?」
神って?と首をかしげれば、香奈のお父様はご自分とわたしを指さされる。
「僕と君だよ。僕は冥界の神で、君は天界の神。しかもかなりの高位神だ。いくら強大な力を持つ大罪神でも簡単には手出しができない」
「そ、そうでしょうか?」
「うん、そうだよ。後は、僕の奥さんと娘だね~。清奈は僕の加護があるからある意味冥界の女神同然だし、娘は正真正銘の半神だもん」
確かに、清奈さんと香奈はそうである。
しかし――
「でも、それ以外の人達は」
「うん、間違いなく大罪神にとっては餌だね」
餌という言葉に、わたしの表情が曇る。
「奴にとっては、力を取り戻す為の餌。知ってるかい?今この山には、この山頂も含めると千人以上の人間がいるんだよ~」
「そ、そんなにいるんですか?!」
「そう。一応、そのうちの半分はこの山頂にいるけどね~。他は、この山の中をちりぢりになってる」
「そんな……」
「一族に頼んで山の麓で結界を張って貰ったから山に新たに入る人はいないけど、それでも大人数だよ。まあ、大罪神からすれば足りないだろうけどね」
「足りない?」
「そう、大罪神側としては、もっともっと贄が欲しいんだ。でないと、最盛期の力を取り戻すのはかなり厳しい。だから、呼ぶんだよ」
山の麓にいる者達を山へと呼び寄せるのだという。
「封印は解けたとはいえ、もともと大罪神はこの山の神だったからさ~。この山からは離れられないんだよ。つまり、この山から脱出すれば助かるって事。大罪神の狩り場はこの山だから」
「でも、ロープウェイは止まっていて……」
「そう。動かない。いや、寧ろこの状態で動いた方が危ないよ。狙い撃ちにされる」
「そんな……で、でもロープウェイに結界を張れば」
時間はかかるが、手出しできないように結界を張れば山頂からの人達は全員逃がせるのではないだろうか?
「確かにそうだけど、でもロープウェイ自体が壊されちゃってればね~。知ってる?ロープウェイの綱が途中で切断されてるんだ」
「えぇ?!」
「そんなのに乗ったら、そのまま下まで落ちちゃうよ~」
ロープが切れている?
「本当に手際が良いよね~」
「じゃあ、逃げ場がないって事ですか?」
「そうでもないよ」
「方法があるんですか?!」
「大罪神を倒せばいい」
「っ?!」
確かにそれは根本的な解決方法ではあるが……
「あの、誰が?」
「そうだね~、誰がいいかな~。ただ、僕はこの山頂に結界を張っててあんまり動けないんだよね~」
香奈のお父様が言うには、既に山頂にも魔の手は迫ってきているのだが、それらは全て香奈のお父様が張られた結界によって阻まれているらしい。また、山頂近くで遭難している登山客にも出来る限り結界は張っているとか。
「相手は何が何でも贄が欲しいからかなりの猛攻撃でね~」
そう言ってカラカラと笑う香奈のお父様。
何故だろう?その様子からは到底大変には思えないのだが。
ふと、そこである事に気がついた。
「あの、この山の現在の神はどうされたのですか?」
「うん?重症を負わされてダウン中だよ。一応、そちらの治療も僕が行っているんだよね~」
つまり、瀕死の状態の山の神の回復でかなりの力を注ぎ、この山頂を守るべく常に結界を張り続け、さらには山頂に近い場所で遭難している者達を守るべく結界を飛ばしているので、これ以上は自由に動けないのだという。
「ふふ、僕も力が落ちたようだね~」
「落ちたわけではないでしょうが」
「香奈のお母様?」
そこに現れたのは、香奈のお母様だった。
「たまたま日が悪かっただけでしょう?」
「そうだね~」
「あの、それはどういう……」
「ああ、貴方は知らなかったよね。実は連理は人間界に来る際にかなり力を封印されているのよ」
それは、人間界で暮らす為に必ず施されなければならない封印だという。
「とはいえ、普段であればそれでもまだ余力はあるんだけど、今日から数日間は封印の力が強まるのよ」
何でも陰陽の力の関係らしく、その影響で封印が解ける方向に力が働くため、別にかけた術の力でわざと封印を強めるらしい。
が、そのせいで通常よりも力が出せなくなるという。
「まあ、それは数日待てばそれで何とかなるけど……山頂以外で遭難している人達は確実に喰われるけどね~」
確かにその通りだ。
相手がそれまで待ってくれるわけがない。
「それに、山頂以外の登山客達を喰っただけで相手が満足するわけはないし」
必ずや山頂の人間達も喰おうとするだろう。
「しかも喰うためならばなんだってするだろう。この山の残り少ない生気を搾り取ろうがなんだろうがね」
山の生気を搾り取る
そんな事をすれば
「もし、山の生気が搾り取られれば……どうなります?」
「山の恵みは全滅だね。生えている植物は全て枯れ果ててはげ山状態になる。そうなれば更に山の獣達は暴走し、草木一本残らなくなるだろう。ああ、この山頂にも植物園があったね。でも、それも駄目だろうね」
一応植物園は香奈のお父様の張った結界内には入っているが、それでもいざという時には人々に焦点をあわせる。
となれば、植物園の植物は完全に無防備となる。
わたしの脳裏に、破魔大根の枯れゆく姿がまざまざと浮かび上がった。
「わたしが行きますっ」
「え?」
きょとんとする香奈のお母様を余所に、わたしは叫んだ。
「わたしが大罪神を倒しに」
「それは無理だよ」
「どうしてですか?」
「君では大罪神から身を守れても、倒すことは出来ない。倒すには君の力は弱すぎる」
「っ?!」
はっきりと力が弱いと言われ、わたしは俯いた。
そんな事、前から分かっていた。
けれど今はその事実が激しく呪わしかった。
「でも……このまま何もせずにいるなんて事は……それに、山の生気がなくなれば植物達も枯れてしまう」
そんな事、認められるわけがない。
すると、香奈のお父様がにこりと笑った。
「なら、遭難者達を助けに向かってくれないかな?」
「え?」
「連理?!」
「ああ、もちろん僕も一緒に行くよ。君がサポートしてくれればいい。な~に、結界なら僕が此処から離れても、僕が生きている限り結界が解けることはないから」
「え、でも」
「ん?やっぱり怖いかい?」
「そうなんじゃありませんっ」
「ふふ……それに、山に遭難者を集める事で結界の数が減るから、僕も力を別な場所に回すことが出来るようになるんだよね」
「え?」
「つまり、山の生気をむさぼり尽くされないように出来るってこと。上手くいけば、そっちにも力を回せる」
「でも連理、果那まで巻き込むなんて危険だわ!」
「清奈」
「しかも果那は妊娠しているのよ?!」
確かにわたしは妊娠している。
だが、それでもここで黙っている事なんて出来るわけがない。
危険だと騒ぐ香奈のお母様を余所に、わたし言った。
「やらせて下さい」
「果那?!」
「良い眼だ」
「香奈のお母様、大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ!!貴方は妊娠してるのよ?!」
そう――妊娠している。
けれど、だからといってここで何もしないでいる事は出来ない。
ここで静観すれば、多くの人々が犠牲になるし、山の生気を吸い尽くされれば山の植物は全滅する。
別に、破魔大根の種はもう貰っているのだから、お義母様の方はとりあえず心配はないだろう。だが、今も一輪だけで頑張って咲き続ける破魔大根の最期を、そんな身勝手な神の手によって終わらせられるなんて冗談ではない。
たとえ枯れゆく運命だとしても、最期までその輝きを全うさせてあげたかった。
「まあ、清奈の言うことも最もだから、一応母体に負担のかからないように術をかけておくよ――でも」
「でも?」
「追っ手からの目眩ましの方は……どうやら何もしてあげられない」
追っ手――その言葉に、わたしは目を閉じた。
遭難者達を助けに行くとなれば、この雨――水の中を走り回ることになる。となれば、感知されてしまうかもしれない。
「一応、この雨は大罪神が降らせている雨だからまだいいとして、遭難者を助けに行くには水場の近くも通らなければならない。そうなれば……」
捕まる可能性もある
でも、もはやそれもどうでも良かった
「それも全て承知の上で行くから大丈夫です」
「……ありがとう」
そう告げた香奈のお父様の額から汗が一筋流れる。
ああ……と思った。
にこにこと余裕な顔をしてはいるものの、封印が強まり普段の力が出せない今の香奈のお父様にとって、既に今の状態でかなりの負担がかかっているのだろう。
それでもそれを悟らせずにいる香奈のお父様に、わたしは少しでもその負担を減らすことを心に決めた。
そして……今もひっそりと咲き続ける破魔大根や植物達、そしてこの山に居る人達を守ると心に誓ったのだった。