決意と王太子妃
その日のうちに沙国の第三王女の「妊娠」の話は後宮だけでなく王都中を駆けめぐった。
驚き、歓喜、狂喜が人々を支配する。
なんといっても、生まれれば王太子の第一子。
特に沙国の王女に取入ろうとしていた者達の喜びは凄まじかった。
わたしは翌日一人で自室に籠もって、誰の訪れも拒否した。
皆、この事態にショックを受けているのだろうと思ってくれたのか、逆に気を遣ってわたしの宮はしんと静まりかえっていた。
だが、逆にその気遣いはわたしを孤独に貶める。
涙が次から次へとあふれだし、枕を、服を濡らしていく。
運命を呪い、全てを呪い、自分の弱さを激しくののしった。
夫の心はわたしにはないというのに、わたしの心は夫に囚われたまま。
憎いと思いながらも愛しさはなくならず、悲しいと嘆きながらそれでもある筈のない夫の心を求めてしまう。
しかしそれももうこれで終わりだ。
今さら、泣き伏して愛を請うても夫は振り向きもしないだろう。
それどころか蔑まされて見捨てられるだけだ。
寧ろ分不相応とののしられるかも知れない。
お飾りの王妃になど求める権利はないのだと。
わたしは全てを失ってしまった
そのうち、子を産んだ沙国の第三王女は国母として崇められるだろう。
あの王女ならばなんとしても自分の産んだ子を王にするはずだ。
反面、わたしはお飾りの王太子妃として飼い殺しにされる。
いや、その前に王太子妃の座から引きずり下ろされるかも知れない。
わたしの役目は同盟の証だが、だからといって子を産めない役立たずな王妃よりは、子を産み王太子の寵愛を受ける側室の方がよっぽど王太子妃に相応しいだろう。
ふと、お腹の子の存在を明らかにすればという思いにかられた。
側室と王太子妃が同時に妊娠している。
立場から言えば、一般的には王妃の子の方が次期王位継承権の優先順位は高いだろう。
わたしも妊娠していると告げれば……
だが、すぐにその考えを打ち消した。
なぜなら、それは子を危険にさらす事でもあるからだ。
あの王女の気性を考えれば、邪魔者は誰が相手でも消しにかかるだろう。それが、自分の栄華と子の輝く将来を邪魔する王太子妃の子ともなれば、どんな手段をとられるか。
きっとこの子は殺されてしまう。
それだけは許せない。
お腹の子の命を危険にさらす事はしたくなかった。
それに、もし無事に生き延びられたとしても、真実父親から愛されるのは沙国の第三王女の子か、後に産まれるであろう最初の側室である彼女の子だ。
現在の寵愛度からいけば、まず一番愛情を注がれるのは最初の側室である彼女の子だ。まだ彼女に子はないが、きっと子供が出来れば夫の愛は全てそちらに向けられる。
かといって、沙国の第三王女の子も最初の側室の子に比べれば劣るかもしれないものの、きっと大切にされるだろう。
そんな中で、わたしの子だけは……
狂おしい愛の渇望に身をねじ切られるようだった。
この腹にいる子供には、せめてそんな思いをさせたくない。
たとえ暴力の末に出来たのだとしても、半分だけでも愛があって生まれてきたのだと伝えたい。
でも、このままここにいて、完全な愛情を向けられる存在の側では駄目だ。それは酷く苦しくて辛い事だから。
それに……わたしも壊れてしまうかも知れない。
そう考えると、いても立ってもいられなくなった。
逃げよう、と思った。
同盟も何もかも、子の将来を思えば自分が責められ泥を被ることすら構わない。浅慮だ、国への裏切りだ、王太子妃としての責務の放棄だと言われても構わない。
全ての罪はわたしが受けよう。
でも、お腹の子だけは幸せになって欲しい。
なかば衝動的に、わたしは自分の衣装部屋へと駆け込んだ。
あれだけ慎重に考えていた脱走計画も何もかも無視して、この国に来る際に持ってきた宝石や貴金属類などをかき集める。
当分の生活費として、宝石類を売ろうと考えたからだ。
王妃として金銭類を持たされていないわたしには、それしか金銭を手に入れる方法はない。
互いの国の同盟の証として嫁ぐ王女の為に作られた宝石や装飾品が、よりにもよって民達を見捨てて逃げる為の資金にされるなんて。
必死の思いで作り上げた職人達の思いを裏切る行為をとる自分に嫌悪しながら、わたしは涙をぬぐってかき集めた宝石類を袋へと詰め込んだ。
他にもまだ一度も袖を通していない衣装なども持ちだそうかと思ったが、あまり多くを持ち出すのは得策ではないし、下手なものを持ち出せば足がついてしまう。
これからは逃亡生活だ。
もちろん逃亡といっても、夫が愛からわたしを連れ戻すなんていううぬぼれは抱いてはいない。
単純に、同盟の証として嫁いだ王太子妃に逃げられたとなれば、夫の顔をつぶし、さらには互いの国の関係を悪くするからだ。
夫が側室を持った後もわたしを王太子妃の座に置き続けたのは、ひとえにわたしが同盟の証によって嫁いだ妃であり、また津国の王女だったからだ。
大国の王女だったから、自国を守る為に必要だったから王太子妃に据え続けた。自分の愛する人を側室がなろうとも、わたしを王太子妃としていた。
なのにそんな思いも何もかも裏切って、国すらも捨てて逃げ出したなんて分かれば、きっと夫は怒り狂うだろう。
決して見逃してはくれない
何が何でも捕まえにくる筈だ
それほどに、わたしの立場は重い
けれど、それでも逃げなければ
でないとわたしは壊れ
子は不幸せになってしまう
準備を整えると、わたしは動きやすい服に着替えた。
それは、お忍びの時に着ていたものであり、監禁状態に置かれた後はそのまま衣装部屋の奥に隠されていた。
もともと華美に装う気はないが、それでも普段着からして上等な衣装を身につけさせられているわたしだ。そのままの姿で外に出れば、確実に不審者として見られるだろう。
そうして街娘が着るような簡素な衣装に身を包み、わたしは宮から抜け出した。
監禁された当初は厳重に鍵をかけられ、見張りもつけられていたが、逃げ出さずにいるわたしに次第に監視の目が緩んできていたことは知っていた。
しかも、今は沙国の第三王女の妊娠騒ぎで王宮中がてんやわんやの大騒ぎで、かなりの隙がある事も分かっていた。
逃げ出すならば今だ。
夫も、現在は第三王女に取入ろうとする者達からの祝いの言葉に身動きがとれない状態だと聞く。
まるでお膳立てされたような逃げ出すチャンスに、わたしは王宮の外へと逃れるべく走り出したのだった。
既に時刻は遅く、黄昏時の薄暗さは、わたしを包み隠してくれた。
必死で足を動かしながら、王宮を出たあとの事を考える。
とりあえず、まずは何処かで宝石を一つ、二つ換金する必要があるだろう。
だが、換金するとしたらどこに行けばいいだろうか?
なるべくなら信頼における場所であれば良いのだが、そういうところは買い取る商品に対して厳しい目を持つ。
品物が良い物かどうかは当たり前だが、その品物が盗品ではないか、違法な手段で持ち込まれたものでないかを厳しく見極めるという。
品物自体は高価な物だろう。
だが、わたしが持ち出したのは津国で作られたものである。
もしかしたら疑いを抱かれるかも知れない。
凪国にも津国の商品は沢山入ってきてはいるが、わたしの持つ物はその中でもかなり良質なものだ。
どうせなら凪国で作られた宝石類を持ってくれば良かっただろうかと後悔する。
しかし、こんな我が儘なわたしの身勝手な行為に、凪国の民達の血税で献上、購入されたものを売り飛ばす事なんて出来やしない。
でなくとも、この国にはこれから迷惑をかけるのだから。
ああ、わたしは最後まで駄目な妃だった
わたし全てを見捨てて逃げる
自分が負う立場も責務も何もかも
この国も、祖国も
全てを捨てて逃げる
そんな自分が恥ずかしくてたまらない
お母様やお義母様のように立派な王太子妃になると誓ったのに
ふと、お義母様の事を思い出す。
今も眠り続けるお義母様。
目覚めた時、大切な息子の嫁が行方をくらませたとわかれば悲しまれるだろうか?
それとも自分が眠っている間に逃げた薄情な嫁として蔑まされるだろうか?
あんなに良くしてくれたお義母様
なのに、わたしは憎き呪いで眠り続けるお義母様までもをほったらかしにして逃げだそうとしている
お義母様を目覚めさせようと必死になる国王様達も見捨て、こういう時だからこそ王太子妃として夫とともに支えなければならないにもかかわらず、わたしは全てを見捨てようとしている
全てを投げだそうとしている
自分への恥ずかしさは憤りへと変わる
けれど……それでもここにとどまることは出来ない
全てに絶望する前に
愛した人を憎む前に
わたしは此処を離れなければならない
そしてようやく、お義母様といつもお忍びに使っていた抜け道にたどり着いた時だった。
「…いっ!」
突然、わたしは腕を強く引かれた。
「ぁう…っ!」
体勢を崩したわたしは、その場に倒れ込みそうになった。
「何をしているんですか?」
誰もが聞き惚れる美声は、聞く物全てに絶対零度の冷たさを与える。
なのに、それとは裏腹に、わたしは暖かい何かに包まれて全てと遮断された。
「果那」
波景が、倒れた私を抱き込んでいる。
それに気づいた途端、わたしの中には言いようのない拒絶感が蔓延り、思わず胸を押しのけて波景を拒否した。
「…っ!」
体に回されていた腕が外れ、わたしは自由を取り戻す。
だが、すぐに自分の行為が浅慮じみていた事を悟ったのは、波景が怒りのオーラをまといだしたからだ。
全てを凍り付かせるかのような冷たい怒りに、気づけば震えた声が飛び出していた。
「申し訳、ございません」
しかし、波景はそれを無視するように口を開いた。
「わたしの質問に答えなさい。私は、何をしていると聞いたのですが」
「あ、それは…」
「まさかお散歩とでも言う気ではないですよね?部屋から出ることを許されない貴方が散歩など出来るはずがないのですから」
「っ」
「見張りは一体何をしているのやら…………」
波景がため息をつく。
が、そのゾッとするような冷たい眼差しにわたしはガタガタと震えた。
「……まあいいです。何処に行こうとしていたのかは知りませんが、さっさと戻りますよ」
そうして再び腕がわたしを捕らえよう伸ばされる。
「いやっ!」
バンっと波景の手を振り払う。
その考えなしの行動にしまったと思った時には既に遅かった。
「果那?」
「あ、ご、ごめんなさい」
しかし、波景は冷たい視線をわたしに向けたまま。
「……つまり、わたしの予想通りという事ですか」
「え?」
突然意味の分からぬ事を言われ、わたしは戸惑った。
「予想通り?」
「ええ。予想通りですよ。でも……それもここまでです」
ガッと腕を捕まれる。
折れるのではないかというほど強い力で引き寄せられた。
「痛いっ!」
「言ったでしょう? 逃がさないって。外に逃げ出すつもりだったのでしょう?」
「っ!」
「やっぱりという事ですか……ふふ、果那は本当にわかりやすいですね」
波景が王宮に向かって歩き出す。
腕を捕まれている為、わたしは引きずられる形となった。
このままでは必死に逃げてきた道を戻らされるとして、わたしは抵抗した。
「大人しくしなさい」
それでも暴れるわたしに、波景はため息をついたかと思うと、わたしの手を後ろにねじり上げた。
痛みに悲鳴をあげるが、波景はくすくすと幽艶に笑うだけだった。
「やだ、やだやだやだぁ!」
痛みに気が遠くなりそうになりながらも必死に身をよじるわたしを波景は楽しそうに見つめている。
「無駄な抵抗を」
と、その体が近くの木に押しつけられる。
「きゃっ!」
「気が変わりました」
波景がわたしを見下ろす。
「そんなに逃げたいのなら仕方ありません。それならば二度と人前に姿を見せられないようにしてしまえばいいんですから」
「や、やだっ」
「他の男の跡を残された状態でも、優しくしてくれますかね?」
そのまま顎を持ち上げられた。
近づいてくる波景に、わたしは泣いた。
どうしてこんな事になるのだろう
悲しくて、子供のように泣きじゃくるわたしに、波景が小さく毒突く声が聞こえたような気がした
と、その時だ。
頬をぬらす涙の温かさとは別に、冷たい滴が頬を打つ。
ふと波景が空を見上げるのにつられれば、いつの間にか空は曇っていた。
ポツリ……ポツリ……
次第に雨脚が強くなり、一気にバケツをひっくり返したかのような雨が降り注いだ。
波景が舌打ちをした瞬間、わたしを拘束する腕の力が弱まった。
瞬時に、わたしは波景の腕を振り払い走り出した。
「果那、待ちなさい!」
だが、わたしは待たなかった。
だいぶ引き離されたが、王宮の抜け道へと走る。
そうしてあと少しで抜け道にたどり着くという時だった。
何かがわたしに向かって飛びかかってくる。
それに地面に引き倒されたわたしは、相手が刀を振り上げているのを見た。
コロサレル
無意識にお腹を庇い身を縮めたその時
突然辺りが真っ白に光った
「果那ぁぁ!」
波景の悲鳴じみた叫び声は、次に聞こえた轟く轟音によってかき消される
そしてわたしの意識は途絶えたのだった
突然降り出した雨は、すぐに大雨へと変わった。
傘を持っていない人達は慌てて雨をしのげる場所に走り出し、傘を持つ者達は急いで傘を開いていく。
道には沢山の水たまりが出来、車がその上を走っていく。
中でも特に大きな水たまりの上を車が通過すれば、その水しぶきは歩道まで飛んだ。
「うぎゃあ!」
バシャリと全身に水を浴びた私は、開こうとした傘をそのままにしばし呆然と立ち尽くした。
「むかぁぁ!ちょっと待ちなさいよその車ぁぁ!」
そう叫んだところで車が戻ってくる事はなく、あっという間にその影は見えなくなった。
「くそぉぉぅ! 人を水浸しにしておいて逃げるなんてどういう神経してるのよ!」
地団駄を踏めば、余計に足下の水たまりで体が濡れてしまう。
憤りを覚えながら、私は傘を開いた。
が、すぐにある違和感に気づいた。
「あ、あれ?!給食袋がない?!」
どうやら水をかけられた時に何処かに飛ばしてしまったらしい。
慌てて辺りを探せば、遠くに袋らしきものが見えた。
「あ、あったぁ!」
駆け寄れば、それはわたしの給食袋だった。
神無 香奈――そう名前のところに、サインペンで自分の名が書かれている。
「無くしたら大目玉を食らうからな~」
本家と、それに連なる多くの分家から成立ち、主に京都を中心とする関西地区とそこに住まう霊能力者達を統べる超名門霊能者一族――神有一族。その分家ではあるが、他の分家とは明らかに劣り、落ちぶれたその分家である実家の神無家は、小さなお寺をようやく維持する貧乏な家。
この前買って貰ったばかりの給食袋を無くしただなんてばれたら、母にどんなお仕置きをされるか想像すらつかない。
「さてと、さっさと帰ろう」
既に辺りには人は居ない。
皆雨から逃れるべく走り去ってしまっていた。
そうして一人、通い慣れた道を歩いていた時だった。
ふと、雷の音が聞こえた。
「げっ……こんなところで雷?!」
そこはちょうど身を隠す場所も何もない。
こんなところで雷が落ちたら確実に死んでしまう。
早く家に逃げ込まなければと走り出した。
が――
突然、目の前が真っ白に染まる。
と同時に、轟音が鳴り響いた。
悲鳴すらあげられなかった。
衝撃に体が吹っ飛ぶような感覚があったが、すぐに何も分からなくなった。
ああ、確実に死んだな
そんな考えがふとよぎる。
ザァァァという音が耳に聞こえて我に返った時には、そこは先ほどまでいた道だった。
「あれ……れ?」
確か自分は雷に打たれたのではないのか?
だが、自分に怪我はない。
もしや直前で免れたのかもしれない。
そう思った私は、ふと何かに導かれるように下を向いた。
「……はい?」
足下に……誰か居る
倒れてる
「え? え? え?」
古代の仙女が着るような服――いや、それよりも酷く簡素で地味な装いだが、この現代日本でこんな衣装を着ている人はまずいない。
長い髪が、水たまりにゆらゆらと浮かび、水を吸った服は重そうだった。
そんな自分よりも年上の女性は、完全に意識を無くしているのかピクリとも動かない。
「……と、とにかく何とかしないと」
このままでは風邪を引いてしまう
そんな事を考えながら、私は女性を家に運ぶべく動き出したのだった。