第一章 静かな崩壊
六月の大阪は、夜になっても湿っていた。
窓の外では、細い雨が降り続いている。
アスファルトを濡らす雨音は、閉め切ったカーテンの向こうからでも、かすかに聞こえていた。
神崎悠斗は、暗いワンルームの部屋で、パソコンの画面だけを見つめていた。
部屋の明かりはついていない。
机の上には、飲みかけのエナジードリンクが二本。
空になったコンビニ弁当の容器。
しわくちゃになった督促状。
灰皿には、吸い殻が山のように積もっている。
カーテンは何日も開けていなかった。
部屋の中には、湿気と煙草と、腐りかけた弁当の匂いが混ざっていた。
けれど、悠斗にはそんなことを気にする余裕などなかった。
画面の中では、赤と青のローソク足が、無情に上下していた。
ドル円、五分足。含み損、マイナス二万三千四百円。
「戻れ……」
悠斗は、かすれた声で呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
相場に向けてなのか。神様に向けてなのか。
それとも、もうどうにもならなくなった自分自身に向けてなのか。
マウスを握る手が汗で湿っていた。
損切りすればいい。それは分かっていた。
今切れば、まだ残高は少し残る。
だが、指が動かない。
もし切った直後に戻ったら。もしここが底だったら。
もし、あと数分耐えれば助かるなら。
その「もし」が、悠斗を縛りつけていた。
ローソク足が、さらに下に伸びる。
含み損、マイナス三万八千円。
「なんでやねん……」
悠斗は唇を噛んだ。
心臓が嫌な音を立てている。
胃がぎゅっと縮む。呼吸が浅くなる。
何度も経験した感覚だった。
それでも慣れることはなかった。
スマホが震えた。
画面には、消費者金融の名前が表示されている。
悠斗は一瞬だけ目を向け、すぐに伏せた。
また催促だ。返済日を過ぎている。
分かっている。
全部、分かっている。
けれど、出られなかった。
出たところで、何を言えばいい。
金はない。仕事もない。
返せる見込みもない。
あるのは、目の前のポジションだけだった。
これが戻れば。ここから反転すれば。
少しだけでも取り返せる。
取り返せば、まだ終わりじゃない。
悠斗はそう信じ込もうとした。
だが相場は、人間の祈りなど聞かない。
次の瞬間、チャートが大きく下に跳ねた。
長い陰線。画面が赤く染まる。
「待て……待て待て待て!」
悠斗はマウスを動かした。
決済ボタンにカーソルを合わせる。
だが、その前に画面が切り替わった。
強制ロスカット。
口座残高、四百八十三円。
悠斗は動けなかった。
音が消えたような気がした。
雨音も、パソコンのファンの音も、自分の呼吸の音さえも遠ざかっていく。
四百八十三円。
一か月前、この口座には八十万円近く入っていた。
三年前には、貯金も二百万円以上あった。
正社員の仕事もあった。
彼女もいた。
母親からの電話にも、普通に出られていた。
それが今は、四百八十三円。
借金は四百八十二万円。
悠斗は、ゆっくり椅子にもたれた。
天井を見上げる。
白い天井は、昔から何も変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
「……終わったな」
声に出すと、なぜか少し笑えた。
乾いた笑いだった。
楽しいからではない。悲しいからでもない。
もう、感情が壊れていた。
涙も出ない。
怒りも湧かない。
ただ、身体の真ん中に大きな穴が空いたようだった。
悠斗は机の端に置いてあったブレスレットを見た。
黒い石。金色の針が入った石。紫の石。透明な水晶。
どれも、かつて「運気を変える」と信じて買った天然石だった。
金運。勝負運。浄化。厄除け。精神安定。
悠斗は、それらに何度もすがった。
満月の夜には窓辺に置いた。
神社にも持って行った。
負けが続くたびに、新しい石を買った。
この石なら勝てる。この石なら流れが変わる。
この石なら、自分を救ってくれる。
だが、机の上に並んだ天然石は、何も言わなかった。
チャートも、石も、悠斗を救ってはくれなかった。
スマホがまた震えた。
悠斗はそれを無視して、椅子から立ち上がった。
足元には、脱ぎっぱなしの服と、丸めた督促状が散らばっていた。
キッチンへ向かう。
流しには、洗っていないカップと皿が積まれている。
蛇口をひねると、水が勢いよく出た。
悠斗はコップを探す気力もなく、両手で水を受けて飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
その瞬間、自分がまだ生きていることを思い出した。
生きている。だが、これからどうすればいいのか分からない。
仕事はない。金もない。信用もない。返済のあてもない。
それでも、またチャートを開きたいと思っている自分がいた。
異常だと分かっていた。それでも、心のどこかで考えてしまう。
あと少し金を作れれば。もう一回だけ入金できれば。
次こそは。次こそは取り返せる。
悠斗は、流しに手をついた。
肩が震えていた。
「もう、無理や……」
小さな声だった。
誰にも届かない声だった。
その夜、悠斗は布団に入らなかった。
パソコンの前に戻り、空になった口座画面をただ見つめ続けた。
ローソク足は、何事もなかったように動き続けていた。
悠斗が壊れても。借金を背負っても。人生を失っても。
相場は止まらない。世界も止まらない。
ただ、自分だけが止まっていた。
夜明け前。雨が止んだ。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んだ。
悠斗はその光を見つめながら、ぼんやりと思った。
自分は、どこで間違えたのだろう。
いつから、こんなことになったのだろう。
FXを始めた日か。初めて勝った日か。借金をした日か。
それとも、もっと前から。
人生を変えたいと願った、あの日から。
悠斗は目を閉じた。
そして、遠い記憶の中へ沈んでいった。
まだ自分が、普通の会社員だった頃へ。
まだチャートも、ロスカットも、天然石も知らなかった頃へ。
まだ、自分の人生が壊れるなんて思ってもいなかった頃へ。




