瑠璃のヒーロー
どんなジャンルに分けたらいいのかよく分かりません
たぶん青春もの? だと思います
後半にちょっと暴力シーンがあります。苦手な方はご注意ください
「――というわけで今年からうちの学校に転入してきた、戸塚瑠璃くんだ。去年までは隣町の高校に通ってたそうだが、みんな仲良くするように」
四月一日。新学年が始まったその日、とある高校二年生の教室では、えび茶色のスーツを着た中年教師が黒板の前に立ち、ずらりと並んだ制服姿の生徒たちの前でそう言った。禿げ上がった頭の教師の隣には、制服のブレザーを着た背の高い男子生徒が立っていた。彼の身長は百八十センチあり、百六十センチしかない教師と並ぶとその差は際立って見えた。瑠璃は短い髪の頭を軽く下げ、あまり抑揚のない声で言った。
「戸塚瑠璃です。よろしくお願いします」
背の高さ以外には特に印象にも残らない、無難な挨拶だった。男子生徒たちはあまり興味が無さそうで、女子生徒たちは瑠璃を見てひそひそと喋ったりしていたが、それ以上に特別盛り上がるようなこともなかった。最初のうちは転校してきた瑠璃について色々と詮索する生徒もいたが、瑠璃は転校前から決まった部活に入っておらず、クラスメイトから過去についてあれこれ聞かれても『普通だった』としか答えないため、特に盛り上がるような話題に発展することもなく、次第にクラスメイトからの関心は薄れていった。基本的に瑠璃は一人で過ごすことが多かったが、それは周囲にいじめられているとか無視されているというわけでもなく、ただ置物のように静かに過ごすことを本人が望んでいたからで、時々雑談をする男子生徒たちには普段の塩対応っぷりから『のり塩』ならぬ『瑠璃塩』などと呼ばれていた。そんな感じで二ヶ月ほどが過ぎたある日、体育の授業で体力測定があった。瑠璃は身長が高いせいもあって、体操服姿だと手足の長さが目立っていた。
「いいなー背が高い奴は足も長くてよー。見ろよ、女子が時々お前の方見てんの気付いてるか?」
にやけ顔でそう言ったのは、普段から明るく騒がしい性格のクラスメイト、米田だった。野球部に所属しいつも坊主頭であることから、友人たちからマルコメなどと呼ばれている。身長は百七十センチと平均的であるが、瑠璃と並ぶとその差が目立つ。瑠璃は目の前で百メートル走を走る同級生たちを眺めながら、あまり抑揚のない返事をした。
「いや、そういうのあんまり興味ない」
相変わらずの塩対応っぷりに米田はケラケラと笑い、瑠璃の背中を平手でバチンと叩く。
「おいおいカッコつけんなって。次の百メートル走でいいタイムとか出したら、女子にキャーって言ってもらえるかもしんねーぞ?」
「だから、俺はそういうのいらないって……」
そう喋っている間に体育教師のホイッスルが鳴り、よく通る大きな声が周囲に響いた。
「次、戸塚!」
名前を呼ばれ、瑠璃は会話を打ち切って百メートル走のスタートラインに立つ。スターティングブロックに足を乗せ、クラウチングスタートの体勢で合図を待つ。そして合図の笛が鳴ると同時に、瑠璃は矢のように飛び出して走り出した。その速さは教師ですら目を丸くするほどで、グラウンドに座って雑談に興じていた女子生徒たちも思わず会話をやめてしまう程だった。
「……!」
瑠璃がゴールした直後、ストップウォッチでタイムを計っていた女性の体育教師が、その数字を見て裏返った声を出した。
「と、戸塚瑠璃くん……じゅ、十一秒八!?」
高校二年生で十一秒台というタイムは、かなり速い部類である。特に部活をしていないと言っていた彼がそんなタイムを叩き出したことに、クラスメイトたちはにわかにざわつき始めた。走り終えてからそれに気づいた瑠璃は、思わず『しまった……』と呟くが、そう思った時にはすっかり注目の的になってしまっていた。
「……」
素晴らしい記録を出したにもかかわらず、瑠璃は苦い表情を浮かべたまま、残りの身体測定を黙々とこなしていった。身体測定が終わり、それらの成績が記入された測定表を受け取った瑠璃は、休憩時間に自分の机で盛大にため息をついた。
「あー、クソッ……」
そんな彼の元に、やはり元気な米田が近付いて大きな声を出す。
「おいおい、なんでそんなお通夜みたいな顔してんだよ。前から思ってたけどお前って妙にガタイもいいし、やっぱり本当はスポーツとかやってたんじゃねーの?」
「……スポーツはやってないって前に言った」
「あのな、日頃からロクに運動もしてない奴が出せるタイムじゃねーだろ十一秒は。お前、なんか隠し事でもしてんじゃねーのか? ほれほれゲロっちまえよー」
「だからやってないって何度も……」
「匂う、匂うぞッ! 俺の勘では他の記録もえらいことになってると見た!」
「あっ、おいやめろっ!」
米田は隙を狙って瑠璃の測定表をひったくり、それを持って逃げ出そうと振り返る。ところが彼の目の前に、童顔で小柄な少女が立っていた。ショートボブの髪型と大きな丸い瞳が印象的な可愛らしい顔立ちをしており、袖余りのブレザー姿も相まって、年齢よりも幼い印象を与えていた。
「ねーねーコメっち、さっきから二人でなにしてんの? おもしろそーだから私も話に入れてよー」
やや舌足らずな声でニコニコしながら言う少女は、身長が百五十センチ程度しかなく、制服でなければ中学生かそれ以下の年齢に見間違えそうである。米田はやや視線を落とし、少女にひったくった測定表をひらひらと見せつけた。
「おー、モモ。おまえもさ、さっきのコイツの走り見てただろ? 十一秒台だぜ十一秒台。そこで名探偵ヨネダ様は、コイツのあられもない秘密を暴いてやろうって寸法なのよ」
モモと呼ばれた少女は瑠璃を見て「あっ」と声を上げ、彼を指さして興奮気味に言った。
「見た見たー! すっごい速かったよね! うちのクラスに陸上部いたっけって思ったもん!」
「だろ? 俺はまだここら辺に秘密があるとみて――」
米田が瑠璃の測定表を開いて読もうとした瞬間、瑠璃は背後から米田の手首を掴んで握り締める。
「痛だだだだだだだ!?」
手首をギリギリと締め付けられ、米田は思わず悲鳴を上げる。瑠璃はその手から測定表を取り返し、無造作に机の引き出しへと押し込み隠してしまった。
「人のもん勝手に持って行くのは泥棒だって習わなかったか?」
「痛い痛い、超いてえ!? あだだだだだだ! わかった、わかったもうしないから離してごめんなさいッ!」
半泣きで米田が謝罪の言葉を口にすると、瑠璃は手を離す。米田の手首は握られた跡がくっきり残っており、手首から先の肌がうっ血して変色してしまっていた。
「があああ……痛ってぇぇぇ……なんつー握力してんだよお前さぁ……」
「うわエグ……ほらもー、人を怒らせるからそういう目に遭うんだよ」
モモという少女もやや引き気味に、手首をフーフーする米田に呆れた顔をする。
「えっと、キミ確か瑠璃くんだっけ。今年から転校してきた。なんかカワイイ名前だよね瑠璃って」
瑠璃は彼女を一瞥するものの、黙り込んだままである。
「そういえばこうやって話すの初めてだったかな。私、藤沢桃。みんなからモモって呼ばれてるから、キミもそう呼んでいーよ」
にこやかに話すモモだったが、瑠璃は視線を合わせず口を開こうとしない。
「ねーねー人が話しかけてるんだからさー、返事くらいしなよー。もしかして陰キャのヤバい人? それともクールぶってるむっつりの人?」
ジトっと不審者を見るような視線に居たたまれなくなり、瑠璃は彼女に顔を向けてじっと見つめる。
「どしたの? 急にこっちジーッと見て」
「俺は……」
「俺は?」
「部活はやってない……」
そう呟く瑠璃に対し、モモはしばらく目を丸くしていたが、やがて口を押えて身を屈め、ぷるぷると身体を震わせ始めた。
「な、なにそれ……瑠璃くんてさ、真顔でギャグとか言えちゃうタイプなの? ぷっくくく……あはははは!」
我慢できなくなったモモは、腹を抱えて笑い出した。痛みで声を上げた米田とケラケラ笑うモモのおかげで、クラス中の視線がその場に集中している。あまりの居心地の悪さにその場から立ち去ろうかと思ったその時、廊下の方から声がした。
「あーいたいた。おーいモモー、ちょっといーい?」
声のした方を見ると、教室の入り口で三人の女子生徒がモモの方を見ていた。いずれも髪を染めたりメイクをしたり制服を着崩していたりと、いわゆる『ギャル』といった見た目の連中である。彼女らが手招きすると、モモは顔を上げて応じるように手を振り、もう一度瑠璃の方を見て言った。
「呼ばれちゃったからもう行くね。また暇なときにお喋りしよ、瑠璃くん」
明るい笑顔を見せた後、モモは振り返って教室の外へと歩いていく。彼女の後姿を眺めていると、復活した米田が肘でぐいぐいと押してきた。
「どーよ、モモは可愛いだろ? ああ見えて一年の頃から男子に人気あるんだぜ。もしかしてお前も惚れたか?」
スケベな顔をする米田の肘を押し戻し、瑠璃はふうとため息をつく。
「初めて喋った相手に惚れたも何もないだろ」
「へっへっへ、強がっちゃってぇ。けど残念ながら、すでに先約がいんだよなー。三年のサッカー部に茅ヶ崎ってイケメンの先輩がいるんだけど、モモはそいつと先月くらいから付き合ってんだってよ。あのギャル三人もその先輩とつるんでて、結構遊び回ってるらしいぜ。いいよなーイケメンは女に不自由しなくてよー!」
世を呪わんばかりの米田のため息を聞き流しながら、瑠璃はただ自分の周りが静かになることをただ祈るばかりだった。
「興味ねえ……俺は目立ちたくないんだ」
その呟きは、窓から吹き込む春の風に紛れて消えていった。
それから数日が過ぎた休日の昼前、瑠璃は食材の入ったバッグをぶら下げ、メモを片手に駅近くの商店街を歩いていた。その格好はジョギング用の白に青いラインの入ったジャージ上下にスニーカーというもので、人と会うことはまるで想定していない服装である。
「あとは洗剤とスポンジと……」
瑠璃がメモを見ながら歩いていると、先の方で覚えのある女の声が聞こえてきた。やや舌足らずなその声がした方に顔を向けると、一人の少女が三十代そこらの男に手を掴まれ抵抗している姿が目に映った。男の方は神の根元から半分くらいが黒い金髪で、上下はブルドッグの刺繡が入った黒いジャージにサンダルという、いかにもな見た目をした男で、聞き覚えのある声を出す少女は私服姿のモモであった。彼女はライトブルーのキャミソールの上に白いカーディガンを羽織り、薄いピンクの短いスカートという格好で、これからどこかへ出かけるのだろうと一目で分かる恰好をしていた。周囲に通行人はいたが、男のいかにもな『輩』といった雰囲気に尻込みしてか、遠目でチラチラ見つつも素通りしていく連中ばかりである。瑠璃は足を止めて一瞬考えたものの、見て見ぬふりをするわけにもいかず二人へと近付いた。
「な、ちょとだけでいいからよー。俺と一緒にメシでも食いに行こうぜ」
「だーかーらー、私は待ち合わせの約束があるんだってば! 離してよオジサン!」
「へっへっへ、どうせガキ同士のデートなんだろ? そんなのより俺が大人の遊びを教えてやっからさー」
「もう、やだ! そんなの頼んでないし!」
しつこく粘着する男からは、煙草と強い香水が混じり合った不快な臭いが漂い、近付くだけでもムカムカしてくる。瑠璃は二人の目の前に立つと、無言のままじっと男に視線を向けた。
「あん、誰だテメー?」
「瑠璃くん!? よかった助けて、この人しつこいんだよー!」
手首を掴まれたまま、モモは今にも泣き出しそうな様子で助けを求める。瑠璃が目の前にいても男の方は手を離す気配がなく、瑠璃は面倒くさそうに口を開いた。
「おい、嫌だって言ってんだから手を離せ。その子が困ってんだろ」
瑠璃がそう言うと、男は般若のように顔を歪めて睨みつけてきた。いわゆるガンを飛ばすというヤツである。
「なんだこのクソガキ。大人に向かってずいぶんゴキゲンな口の利き方してんじゃねえかコラァ!」
「大人大人うるせーな。そんなに他人の手を掴むのが楽しいんなら、俺もやってやるよ」
瑠璃は素早く空いている手を伸ばし、モモの手を離さない男の手首を掴む。それと同時にひねりを加えながら力を込めた瞬間、男は膝から崩れ落ちて悲鳴をあげた。
「ぎゃああああああ!? いっ、痛でえっ!? ぐああああああっ!?」
男は反撃する余裕もなく、モモから手を離し苦悶の表情を浮かべる。なんとか痛みから逃れようと身体を動かそうとすると、そのタイミングを見計らって瑠璃がさらに力を込め、男はただ絞り出すように呻き声を上げるばかりだった。
「たっ、頼むから離し……もう諦める……っ! しないから……っ!」
「お前さっき離せつってんのに離さなかっただろーが。なに都合のいいこと言ってんだオイ」
瑠璃がさらに力を込めると、握り締めた部分からミシミシと軋む嫌な音が聞こえ始める。
「うぎゃああああああッ! ゆ、許し……あぎゃあああああっ!」
男は完全にその場に座り込み、もはや両眼も開けていられない状態になっていた。瑠璃はその姿をしばらく見降ろした後、力を緩め手を離した。男がその場にうずくまり動かなくなったのを見て、瑠璃はジャージの裾でばっちい物を触った後のように手を拭き、それからモモの方へ顔を向けた。
「大丈夫か?」
モモは目を見開いたまま唖然としていたが、やがて口元を押さえてぷるぷると震え始めた。
「えっヤバっ……もしかして瑠璃くんってソッチ系の、本職の人だったの!?」
「なんだ本職って。それより怪我とかはないのか」
「あ、うん、大丈夫」
「そうか。じゃ、俺帰るから」
そう言い残してスタスタと去って行く瑠璃の背中を追いかけ、モモは慌てて隣に並んで歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよー。私もそっち行くトコ!」
モモはチラチラと瑠璃の顔を見るが、瑠璃は目線を合わせようともせず、無言でどんどん進んでいく。
「えと、助けてくれてありがとね瑠璃くん。あのオジサンさー、最初は道を教えてくれって声かけてきたんだよ。それで話してたらだんだん脱線してきて、もう行かなきゃって言っても全然終わんないし、もーほんとサイアクだった」
「……」
「私って、なんかこういうの多いんだよね。よくナンパで声かけられたりするんだけど、その後で今みたいにしつこく食い下がられたりでさー。なんでだろーねー?」
首を傾げるモモを横目で見て、瑠璃にはすぐにその理由が分かったが、それを口に出すことはしなかった。それからしばらく歩いて駅の目の前までやってくると、モモはそこで足を止めた。
「もうちょっと話したかったけど、待ち合わせしてるからここでお別れ。今日は本当に助かったよー。また今度お礼させてよね、それじゃ!」
笑顔で手を振り、改札の雑踏に消えていくモモの後ろ姿を見送ると、瑠璃もその場を後にした。
そんな出来事があってからというもの、モモは自分から瑠璃に話しかけてくることが多くなった。瑠璃の反応は相変わらず『塩対応』が続いていたが、学年でも人気の高いモモが近くにいると、それに釣られてクラスメイト達がどんどん集まるようになってきてしまった。
(どうしてこうなった……)
休み時間になると自分の机の周りに生徒が集まりガヤガヤと騒がしい状況に、瑠璃は密かに頭を抱えていた。目立たず平穏無事に過ごしたいという本人の願いとは裏腹に、否応なく目立ってしまうこの状況は深刻であった。
「ねーねー、そういえばさー、瑠璃くんって夢とかやりたいこととかあるの?」
なぜか当たり前のように目の前の席の椅子に座り、そう聞いて来るモモに瑠璃はとても嫌そうな顔をする。当然周囲にはクラスメイトが集まっており、その視線や耳がこちらに向けられている。
「なんで俺にそんなこと聞くんだ」
「別にー、ただ知りたくなったから聞いてみただけ。で、どうなの?」
「どうなの、って言われてもな」
「えー、なんかあるでしょー。石油掘りに行くとか、投資で一発当てて頂点に立つ! みたいな」
「それは夢じゃなくて妄想だろ」
「あーもー、ああ言えばこう言うし! 健全な男子ならなんかあるでしょーが、将来の野望とか!」
「なんだよ野望って……まあ、しいて言うなら……」
「お、言うなら……なーに?」
モモが耳に手を当ててぐいっと頭を近付けてくるので、瑠璃はそれを避けながら答えた。
「とりあえず無事に高校卒業したい」
それを聞いた途端、周囲の生徒全員が目を丸くして瑠璃を見た後、どっと笑いだした。
「それって夢とか目標って言わなくない? フツーに卒業するっしょ」
モモも呆れた様子で笑っていたが、瑠璃は小さく息を吐き、無言で立ち上がる。
「わっ、いきなり立ち上がるからびっくりした」
瑠璃は返事をせず、集まっている生徒の輪を割って教室の外へ向かって歩き出す。
「ちょっと、どこ行くのー? もしかして怒っちゃった?」
「便所だ。それと藤沢……お前、俺なんか構ってる暇があったら彼氏の所にでも行って来いよ」
そう言って教室を出ていく瑠璃を見て、モモは頬を膨らませて頬杖をつく。
「ソレはソレ、コレはコレだし別にいーじゃん……」
それは誰にも聞こえない小さな呟きだった。
一方、便所に行くと言った瑠璃だが、もちろんただの嘘だったので仕方なく学校の中を歩き回っていた。適当に階段を下りて校舎をひと回りしたら戻ろうと思っていたのだが、階段の踊り場に集まっている三人ほどの男子生徒たちの話し声が耳に入って来た。
「なー茅ケ崎、お前一個下の彼女とどこまで行ったんだよ。上手くやってんのか?」
その名前に聞き覚えがあり声のした方を見ると、ドラマに出てくる俳優のような見た目の男子生徒が他の二人と話し込んでいた。身長は瑠璃とほとんど変わらず、制服の上からでも運動で鍛えられ引き締まった体格なのが分かる。他の二人も彼ほどではないが容姿は整っており、片方は日に焼けた短髪、もう片方は肩まで髪を伸ばした優男といった雰囲気で、女子生徒のウケはいいのだろうとすぐに想像がつく。
(……)
すぐにその場を離れるべきだと思いつつも、瑠璃はなぜか引っ掛かるものを感じて足を止め、少し離れた壁の陰に身を隠して聞き耳を立てた。
「ああ、藤沢桃のことか? 残念ながらイマイチってトコなんだよな」
「へえ、珍しいなお前が手こずってるなんてよ。結構アホっぽいじゃんあいつ」
長髪の生徒から当たり前のように出た悪口を気にするどころか、そこで三人は同時に笑い出し、続けて日焼けした方が言う。
「なんだよ、もしかしてまだ優しいセンパイやってんの? テキトーにどっか連れ込んで、ガッと行っちまえよ」
すると茅ヶ崎という上級生は、肩をすくめて首を振る。
「ああ見えてモモのやつ、結構ガードが堅いんだよ。デートに連れてっても暗くなると門限とか言って帰っちまうし、あり得なくないか?」
門限という言葉に他の二人は大きな声でゲラゲラと笑い、茅ヶ崎の肩を叩いて慰めるような仕草をする。
「なんだよ門限て、どんなお嬢さまだっつーの。お前も変わった女引っ掛けちまったなあ」
「うるせーよ。こっちとしても落とし甲斐があるってもんだし、腰を据えて攻略してやるよ」
「オメーは腰を据えるじゃなくてイレる方だろーが、ぎゃはははは!」
瑠璃は立ち止まったことを後悔しつつ、そっとその場を離れた。教室に戻った後も、モモは相変わらずの様子であり、瑠璃はさっきの出来事を頭の隅に追いやるのにずいぶんと苦労させられるのだった。
数週間が過ぎ、梅雨の時期に差し掛かろうとしていたある日、帰宅中の瑠璃は重大な局面を迎えていた。雨が降りしきる中、人通りの少ない道を歩いていた彼は傘を持って足元を見たまま、その場に立ち尽くしていた。
「まずいことになった……」
青ざめた顔でそう呟く瑠璃は唇を嚙み、一度はその場を離れようかと思いもしたが、やはり動くことが出来なかった。瑠璃の足元には雨に濡れて変色した段ボール箱と、その中でモゾモゾと動く茶トラの子猫が居たからだ。
「ピャー」
かすれたような声を発する毛むくじゃらの小さなそれは、雨の冷たさに身を震わせながら、まだおぼつかない足取りで箱の中を動き回っている。周囲に親猫や兄弟猫の姿はなく、誰かがここに捨てて行ったのは明白だ。瑠璃は大きなため息をつき、諦めたようにその場にしゃがみ込んで手を伸ばす。雨にぬれてハリネズミのようになった子猫は、ただ懸命にその手に近付いてはかすれた声で鳴き続けるばかりだった。
(こんな日に、なに考えてんだバカ野郎……)
あまりにも無責任な人間の行動に奥歯を噛み締めながら、瑠璃は通学用のカバンに入れていたタオルを取り出し、子猫を包んでゴシゴシと拭いてやる。手の中でモゾモゾと動く生き物の小ささに、言葉にならない感情が胸を去来する。タオルに包まれたまま小さな声で鳴く子猫に目を細めていると、突然背後から人の気配がして瑠璃は振り返る。そこには傘を差して瑠璃を見下ろし、驚きに表情を引きつらせたモモが立っていた。
「えっ、マジ……? ちょっと、それナニやってんの?」
モモは引きつった顔のまま、震える人差し指を向けて言った。瑠璃は一瞬、どう言い訳しようかと考えたがすぐに諦め、子猫の方へ顔を戻して溜め息混じりに言った。
「見たまんまだよ。誰かが子猫を捨ててったらしい」
その後は黙って子猫の頭や顔を拭いてやっていたが、背後にいたモモは素早く瑠璃の横でしゃがみ、口元を手で押さえてニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「ってか、ヤバ! これってさー、完全にアレじゃん。漫画に出てくる実は優しい不良とかのアレじゃん! こんなベタベタな展開とかホントにあんの!?」
「……」
笑いをこらえるモモを横目に、瑠璃はタオルにくるんだ子猫を抱えて立ち上がる。モモは座ったまま瑠璃を見上げ、下からじっと顔を見ながら尋ねた。
「ねえ、その子どーするつもり?」
「……とりあえず連れて帰る。後のことはそれから考える」
「ふーん、瑠璃くんちってペットオッケーなんだね。いいなー、うちマンションだから飼えないんだよね」
残念そうに言うモモに、瑠璃は少し顔を向けて彼女の顔を見返す。
「いやウチも飼えねえよ。爺さんが猫アレルギーだし」
「えー、ダメじゃん。それなのになんで連れて帰ろうとかしてんの? 怒られるっしょ」
瑠璃は視線を泳がせた後、腕の中でモゾモゾ動く子猫をじっと見つめた。
「すげえ怒られると思う。でも放っておいたら死んじまうだろ、こいつ」
その言葉を聞いたモモは口元に弧を描き、ゆっくりと立ち上がって瑠璃の顔を覗き込む。
「カッコいいじゃん、そーゆーの。じゃあさ、私も手伝ってあげる」
「え?」
「てかさー、瑠璃くん子猫の世話の仕方とか知ってるわけ? 絶対知らないでしょペット禁止なんだし」
「そ、それはまあ……」
「ほらねーやっぱり! どうせ買うことになるんだし、帰るついでにキャリーケースとか必要な道具とか揃えちゃお」
「待てよ、そんなカネねーよ俺は。家に戻って親に貸してもらわないと」
「ふっふーん。そこで私の出番ですよ。今日は私が立て替えといてあげるから、後でちゃんと返してね。もちろん利子付きでー」
「いや、しかし……」
「いーからいーから! ほら早く行こ、ずっとこんな場所に居たらみんな風邪ひいちゃうよ」
モモに背中を押され、瑠璃は雨の降りしきる中を歩き出した。帰りの途中で商店街のスーパーに立ち寄り、モモがペット用品コーナーで買って来たキャリーケースと哺乳瓶、ペット用ミルクとペットシーツを受け取り、子猫を真新しいキャリーケースに入れてやった。
「とりあえず最低限は準備したし、後は決まった時間にミルク飲ませてあげたらオッケーかな。あ、お腹壊しちゃうから普通の牛乳はダメだからね?」
「お、おう……やけに詳しいな」
「まあねー。引っ越しする前の小学生から中学卒業するくらいまで、ウチも猫飼ってたんだよね。だからその道じゃ私がセンパイってワケ。ほれほれ、ソンケーしろー」
胸を張ってドヤ顔をするモモを呆れて見ていると、彼女はふと思い出したようにカバンからスマホを取り出して見せて来た。
「ねね、せっかくだしリーン交換しよ? 子猫の細かいお世話の仕方とか教えてあげられるし」
「ん、ああ……」
瑠璃は言われるままスマホを出し、アプリの連絡先を交換する。もっとも瑠璃自身は身内や学校の連絡用に設定しただけで、普段は全くと言っていいほど使ってなかったのだが。
「それでさー、瑠璃くんちは基本ペット禁止だったよね。しばらく面倒見た後はどーするの?」
「とりあえず知り合いに声かけて、引き取ってくれる人でも探そうかと。そっちのツテは結構多いんで」
「ん、そっかそっか、一応はちゃんと考えてたんだねー。えらい」
「当たり前だろそんなの。面倒見きれないのに拾ったら、捨てた奴と同じだ」
「うん」
そこで何故か黙り込み、じっと自分の顔を見てくるモモに、瑠璃は少し落ち着かない気分になってしまった。
「瑠璃くんてさー、いつも塩対応ぽいのにそういうトコはちゃんとしてるよねえ。なのにどうして、無事に高校卒業したいとか言ってたの?」
予想外の方向からのツッコミに、瑠璃は視線を逸らして気まずい顔をする。
「まだ覚えてたのかよ……いいだろ別に」
「いやまあ、いいんだけどさー。なんか気になるじゃん色々と」
「気にすんなよそんなもん。俺に関わっててもいい事なんかねーぞ」
「え、なんで?」
「なんでって……まあいいや」
「あ! 今なんか誤魔化そうとした!」
「してねーよ」
「ううん絶対した! なんなのもー、隠し事とかやめて欲しいんだけど?」
頬を膨らませてムッとしながら迫るモモを避け、瑠璃は彼女の頭を手で押さえて受け流す。
「とにかく今日は助かった。んじゃ、俺ん家向こうだから。藤沢も気を付けて帰れよ」
瑠璃は彼女の頭から手を離し、キャリーケースと荷物の入った袋を下げてスタスタと立ち去っていく。その背中を少し追いかけてから、モモは大きな声で叫んだ。
「ねー瑠璃くん、私のこと苗字じゃなくてさー、モモって呼んで欲しいんだけどー!」
瑠璃は一度足を止め、少しだけ振り返る。
「……気が向いたらそうする」
そう答えて再び歩き出した瑠璃の背にベーっと舌を出したモモは、どこか機嫌が良さそうだった。
その後もモモは子猫の世話についてこまめに連絡を送り、ことあるごとに様子を聞いたりしていた。子猫は瑠璃の部屋で元気に生活を続け、二週間ほど過ぎた頃に知り合いから里親が見つかり、無事に引き取られていった。
「ううー、飼い主さんのところで可愛がってもらうんだよぉ」
その後の学校で、モモは休憩時間にスマホの画面を見つめ、両目に涙を浮かべていた。画面にはアップになった子猫の画像が表示され、それを次から次にスライドして彼女は鼻をすする。
「ねーねー見てよ瑠璃くん。チビちゃんすごく元気そうでさー、本当に良かったよねぇ。うぅ……」
モモは瑠璃の前に来てその画像を見せ、涙目で唇を噛んでいる。
「信用できる人だから安心しろって言ったろ。てか、どんだけ画像保存してんだ」
ちらりと見えた画像ファイルが並んだ画面は、子猫の画像でほぼ埋め尽くされていた。
「飼い主さんとこの小さい娘さんがさー、いっぱい画像送ってくれるの。これがもー可愛くてさー」
素早い指さばきで次々に画像をスライドさせていくモモを、机に座ったままの瑠璃は呆れた顔で見つめていた。すると廊下の方から、以前にも聞いたモモを呼ぶ声がした。顔を向けると、教室の入口に例の如くギャルっぽい三人の女子生徒がモモを手招きしていた。
「モモ―、センパイが呼んでるー。ちょっと顔出せってさー」
「あ、うん、わかったー。それじゃ瑠璃くん、また後でね」
モモはスマホをしまい、教室の外へ出て行った。彼女の姿が見えなくなった後、瑠璃が無言で反対側の窓に目を向けると、後ろから米田が急に肩に手を回してきた。
「おいおい瑠璃塩くんさあ、最近なーんかモモと仲良くね? お前らどっかでイベントあっただろー。薄情しろオラッ」
ぐいぐいと首を絞めてくる腕を力ずくで振りほどき、瑠璃はため息をつく。
「暑苦しいからやめろ」
「おやぁ、まーたとぼけちゃって。最近休み時間の度にモモがお前の近くに居るじゃんよ。俺の眼は誤魔化せねーぞぉ」
瑠璃はニヤニヤとほくそ笑む米田をしばらく無視していたが、しばらくして戻って来たモモが視界に入った。彼女はどこか沈んだような表情で、自分の席に座って小さくため息をついている。その様子が少し気になったが、瑠璃が考えるより先に米田がこそっと顔を近付け、小声で言ってきた。
「そういえば知ってるか? なんかこの前、モモと彼氏の先輩が言い争いしてたんだってよ。詳しいことは知らねーけど、あんな勝ち組カップルでも文句とか出てくんのかねー。贅沢な悩みで羨ましいよな」
色々と思う所はあるものの、自分が口出しすることではないと瑠璃は何も言わなかった。
週末の休みが訪れ、瑠璃はまたも家族から食材の買い出しを頼まれ、駅近くの商店街を歩いていた。食材の入った袋をぶら下げて歩いていると、駅の近くで壁にもたれかかって立つモモの姿を見つけた。やはり外出用に着飾った格好なのだが、それにしては表情が暗く浮かない顔をしているように見える。
「……」
黙って通り過ぎることも考えたが、心に引っ掛かるものを感じた瑠璃は足の向きを変え、モモの方へと近付いていった。
「なにやってんだ、こんな所で。待ち合わせか?」
モモは瑠璃を見て驚いた顔をしたが、緊張の糸がほぐれたようにふっと笑顔を見せた。
「んもー、急に話しかけてくるとかナンパですかおにーさん」
「ジャージでナンパする奴とかいないだろ。あ、いや前にいたか……」
ロクでもないことを思い出し、瑠璃は呟く。それが面白かったのか、モモはくすくすと笑っていた。
「その服装、またデートにでも行くんだろ」
「うん、まーね」
「その割には浮かない顔してなかったか?」
「えー、やだもー。そんなとこ見てるなんて、瑠璃くんそういう趣味とかあったの?」
「……別に気のせいならいいんだ」
瑠璃が身体を横に向けて歩き出そうとした時、ジャージの裾をつまんでモモは彼を引き留める。
「待ってよ。せっかくだし、ちょっと聞いてって」
瑠璃がもう一度モモの方へ向き直ると、彼女は大きなため息をついて喋り始めた。
「えっと、瑠璃くんは知ってたっけ。私、三年の茅ヶ崎センパイと一応付き合ってるんだけど」
「聞いたことはあるぞ。それ以上は知らないが」
「うん……それでさー、何度か呼ばれてデートとかにも行ってるんだけどね。暗くて狭い場所とか行きたがるし、結構ベタベタ触って来るしでなんだかなーって」
「……」
「いやまあ付き合ってるんだし? そういう流れになるのも分かってるよ? でも付き合い始めて一週間くらいからそうなんだよね。いくらなんでもさー、もうちょっと段階踏んだりとかするじゃん普通は!」
「……まあ、そうなんだろうな」
「それなのに二人っきりになりたいとか平気で言ってくるし、他の子にも同じこと言ってるよ絶対と思って。最近ちょっと引くわーって思うことがあったりするんだよね」
再び盛大な溜め息をついて、モモはうなだれてしまう。瑠璃はそんな彼女をじっと見て尋ねた。
「ちょっと疑問なんだけどよ、そもそもなんで付き合い始めたんだ?」
「あー、それね。友達からセンパイが会いたがってるって言われて紹介されて、そんでゴハンとか食べに行って付き合おうぜーって言われて、まあイケメンだしいいかなーって。俺と付き合えばナンパも追い払ってやるとか言ってたし」
想像以上の軽すぎる理由に、瑠璃は言葉が出なかったが、モモはさらに喋り続ける。
「でも別にナンパ追い払ってもらったコトなかったけど? それと最近さー、なんか機嫌悪いんだよね。いつも私見てイライラするし、今日は誰々と喋ったのかーみたいなの聞いて来たり。ケッコー束縛系なのかも」
思った以上にモモの鬱憤も溜まっていたようで、その喋りは止まらない。
「それでさー、聞いてよもお! 前回のデートの時だけど、約束を二時間もすっぽかしたんだよ!? それで後からしれっと悪い悪いとかで済ませて来てさ、あり得なくない!?」
わなわなと怒りに震えながらも、しばらくするとモモは落ち着きを取り戻してふうっと息を吐く。
「はーっ、ほんとにもー」
「なあ、嫌だったら行くの止めりゃいいんじゃないのか?」
「うーん、まあそうなんだけどねー。今日はもう約束しちゃったのもあるし、とりあえず行っとかないと」
「そうか。頑張れよ」
「ふふっ、なんなのそれ。でも愚痴ったらスッキリしちゃった。聞いてくれてありがとうね」
「おう」
「じゃ、そろそろ行くね。また学校で!」
モモは壁から離れ、瑠璃に笑顔で手を振ってから駅の改札へと向かって行った。その背中が見えなくなると、瑠璃も自宅へと足を向ける。しかしその後、休み明けの月曜日にモモは学校を休んだ。
そして火曜日、教室に顔を出したモモを見て生徒たちはざわついていた。瑠璃が登校して教室に着いた時、すでにモモの席の回りには人が集まっており、何事かと中を覗いた瑠璃は目を見開いた。
「あ、おはよー瑠璃くん」
いつもと同じ調子で挨拶するモモの左頬には大きなガーゼが貼られ、まぶたは腫れ上がり、そして右腕はギプスで固められ三角帯で吊られていたのだ。
「藤沢、それは……!?」
「んもー、また名字で呼ぶし。これねー、階段で転んでケガしちゃった、へへ」
そう答えて薄笑いを浮かべるモモだったが、瑠璃は一気に表情が険しくなりモモへ近付く。
「話がある。ちょっと一緒に来れるか?」
モモは少し驚いた顔をしたものの、すぐに無言で頷く。瑠璃は周囲に集まるクラスメイトをどかし、彼女を連れて教室を出た。それから校舎裏の人が来ない場所へ移動すると、瑠璃は険しい表情でモモに尋ねた。
「それ、誰にやられた?」
「えー、さっき言ったじゃん。階段で滑って転んじゃったんだって」
「見りゃわかんだよ。それ殴られた痕だろ」
「……!?」
ハッキリとそう指摘した瑠璃の言葉に、モモは身体を震わせてから、急にわっと泣き出した。彼女が落ち着くまでしばらく待った後、瑠璃はもう一度尋ねた。
「なあ、なにがあったのか話してみろよ」
「だって……誰かに喋ったらこんなの……」
「脅かされてんのか? だったら尚更話してくれ」
モモはしばらく沈黙していたが、やがてその場に座り込んでぽつぽつ話し始めた。
数日前、駅前で瑠璃と分かれて電車に乗ったモモは、繁華街の待ち合わせ場所へ向かった。約束の時間通りに待っていた茅ヶ崎と合流し、レストランで昼食を取った後は彼の提案でカラオケボックスへと向かった。事前に予約していたという部屋に二人で入ると、部屋の中にはすでに二人先客がいた。それは日頃、茅ヶ崎とよくつるんでいる仲間の二人である。違和感を感じつつも『そういうこともあるかな』と深く気にしなかったモモは、言われるまま部屋のソファーに座った。それからフロントへ軽食とドリンクを頼み、しばらくは適当に曲を選んで歌ったりして過ごした。やがて注文したポテトやフライドチキンの乗った大皿とドリンクが届くと、千ヶ崎たちは歌うのをやめて笑い始めた。
「え、なに? どうしたのみんなでニヤニヤして」
不思議に思ってモモが首を傾げると、茅ヶ崎はポケットから小さな透明の瓶を出してモモに手渡す。ビンの中にはカラフルな錠剤のようなものが入っている。
「なあモモ、それ持ってちょっとこっち向いてくれよ」
茅ヶ崎に言われるまま、中身の入った小瓶を持って彼の方を向くと、茅ヶ崎はその姿をスマホのカメラで撮影し、さらにニヤニヤと笑い出す。
「ねえ、これなんなの? ラムネかなにか?」
モモは奇妙に思いつつ小瓶を返すが、その直後に茅ヶ崎の隣にいた長髪の方が嫌な笑みを浮かべながら口を開く。
「あーあ、やっちまったなーモモちゃん。これはまずいわー」
「え?」
意味が分からず聞き返すモモに、今度は反対側に座っていた日焼けした方が言う。
「それさー、ラムネじゃなくて、ちょっとヤバいお薬なんでーす。ダメじゃんこんなの持ってたらさー、お巡りさんに逮捕されちまうぜ?」
「え……」
うっすらと嫌な予感がしつつも事態を飲み込めずにいるモモに、茅ヶ崎が小瓶を手の平で転がしながら続く。
「こんなもんバレたらお巡りさんどころか、学校もクビになっちまうなあ。どうすんだよ、なあモモ?」
「どうすんのって、え……ごめん、全然意味わかんないんだけど」
理解が追い付かない様子の彼女を見て、三人はゲラゲラと嫌な笑い声を出す。
「本当にニブいなーお前。お前がこれ持ってる画像ばら撒かれたら、人生終わるぞって言ってんだよ気付けよ」
そう言い放つ茅ヶ崎の言葉に、モモはようやく気が付き、全身から血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
「な、なんで……どうしてこんなことするの」
震える声で後ずさりするモモに対し、茅ヶ崎は急に険しい顔つきになりテーブルを足で蹴る。
「どーもこーもあるかよ! バカのくせにいつまで経ってもヤらせねーし、最近は別の野郎とヨロシクやってんだろお前」
「……!?」
「もう色々めんどくせーから、テキトーにお前とヤって撮ってから捨てることにしたわ。そんでこいつらにもお集まり頂いたってワケだ」
「さ、最低……!」
「オメーがさっさとヤらせてくれりゃ、こんな手使わずに済んだんだぜ。恨むならバカのくせにガード固めてる自分を恨めよ」
信じられないような言葉の連続に、モモは気が遠くなりそうだった。足が震え、激しく乱れた心臓の音がはっきりと耳に聞こえてくる。
「そう心配すんなって。後でクスリの効き目も確かめさせてやっから。結構飛ぶぜ?」
「や、やだ……さっきの画像消してよ!」
「おー消してやるよ。後でたっぷり楽しんでからな」
「ひっ……!?」
茅ヶ崎はソファーから立ち上がり、モモへ近付く。モモは壁際に追い詰められ、震えて両目に涙を浮かべる彼女に、無慈悲な一言が投げかけられた。
「せいぜいいい声でピーピー鳴いてくれよ、バーカ」
その瞬間、モモの中で何かが音を立てて壊れた。ももは茅ヶ崎の脇を抜け、泣きじゃくりながら近くにあった電話の受話器やカラオケのリモコンを投げつけて叫ぶ。
「やだ!! 来ないでよ!! こんな最低な人間だと思わなかった!!」
しかしすぐにその腕を掴まれ、両脇から他の二人も迫ってきてニタニタと笑う。
「その最低の人間のよー、これからお前はオモチャになるんだよ。その方がこっちも燃えるから楽しみだわ」
「やだーーーーっ!! 誰か助け……瑠璃くん助けて!!」
無意識のうちに、モモの口からその名が出た。それを聞いた途端、茅ヶ崎は表情を引きつらせ、彼女の顔面を拳で殴りつけた。
「あうっ!?」
「俺の前でよー、他の男の名前述べてんじゃねー!! そういうのが一番ムカつくんだよ!!」
モモはそのまま突き飛ばされ、テーブルにぶつかってから床に倒れ込む。その時、腕に激痛が走りモモはそのままうずくまってしまう。
「おいバカ、なにやってんだよ。顔はやめとけっていつも言ってんだろ。鼻血出してるのとかそういうの、俺は萎えるんだよ」
長髪の方が呆れ気味に言いながら、興奮する茅ヶ崎の肩を掴んで後ろに引き戻す。
「うるせー、お前の好みなんか知るかよ。あームカつくぜクソが」
二人の制止も聞かず再び茅ヶ崎がモモに近付こうとした時、部屋のドアを叩き店員が中に入ってきた。
「ちょっとお客さん、なにやってるんですか。店の中で暴力行為とか困りますよ」
部屋の隅には監視カメラが設置されており、異変を見た店員が駆けつけてきたようだ。茅ヶ崎は舌打ちし、軽く呼吸を整えると、今までが嘘のような笑顔を作り店員に近付く。
「いやーすいません、ちょっと盛り上がりすぎて興奮しちゃったみたいで。すぐ帰りますから」
「興奮しちゃったって君ねえ。傷害事件じゃないのこれ」
「ほんとすぐ帰りますんで! ほらお前ら行くぞ!」
茅ヶ崎は仲間に命令してモモを立たせ、先に店の外へと連れ出してしまう。茅ヶ崎は一人で支払いを済ませ、怪しむ店員を強引に誤魔化して逃げるように出て行った。三人はモモを適当な物陰まで連れて行き、最後に茅ヶ崎がこう言った。
「今日は邪魔が入ったけどよ、もう逃げられねえからな。次までにそのツラ綺麗にしとけよ」
三人はそのままモモを放置し、どこかへと消えてしまった。取り残されたモモは痛む腕と顔を押さえ、うつむいたままその場を後にするしかなかった。
「それで……昨日は病院行ってて……でも、撮られた画像そのままだし……うえっ、えぐ……」
ボロボロと大粒の涙を流して泣きじゃくるモモを、瑠璃は黙ってじっと見ていた。
「どうしようわた、私……ひぐっ……助けて……怖いよ瑠璃くん……」
わあっと泣き出すモモの前でしゃがみ、瑠璃は彼女の手をそっと握ってやる。涙と鼻水でぐしゅぐしゅになったモモの顔を見て、瑠璃はハッキリと言った。
「わかった。後は俺に任せろ」
「うぐ……で、でも瑠璃くん、どうするつもり……?」
「いいから任せとけ。ほら、そろそろ教室戻るぞ」
「う、うん」
瑠璃はハンカチを手渡し、涙を拭いたモモと一緒に教室へ戻って行った。
その日の放課後、瑠璃は運動部が使う更衣室の前にいた。部活動の時間、茅ヶ崎はよくここでサボっているという話を聞き付けたからで、今日もここに居るというのは確認済みだった。瑠璃がドアを開けると、学校指定のジャージ姿でパイプ椅子とベンチに座って雑談に興じる三人の姿が目に入った。胸の名札に書いてあるように、茅ヶ崎と仲間の二人に間違いなく、長髪の方は寒川、日焼けした短髪が平塚という名前らしい。瑠璃がそのまま部屋の中に踏み込むと、長髪の方が立ち上がって目の前に立ち塞がった。
「おいおい、誰だよお前。ここは関係者以外立ち入り禁止だ、とっとと帰んな。でないと……」
長髪の男こと寒川は瑠璃の襟を掴もうと手を伸ばしたが、瑠璃は目にも止まらぬ速さでその手首を掴んで止め、一気に握り込んだ。
「は、え?」
寒川が間抜けな声を出した瞬間、瑠璃の手の中で『ベキッ』と硬い物が折れる音がした。
「ぎゃあああああああっ!?」
瑠璃は悲鳴を上げた寒川の髪を掴み、近くのスチール製ロッカーに顔面から叩き付けた。ロッカーは頭の形にへこみ、彼はずるずると倒れて声を発さなくなった。
「なっ、なんだあ!?」
驚いた茅ヶ崎と日焼けした方こと平塚は立ち上がり身構える。
「なんのつもりだテメー! 俺らが誰だか知ってんのか!」
平塚はファイティングポーズを取って構えるが、瑠璃は無言のまま一歩二歩と近付いていく。
「ナメやがって……!」
平塚は小刻みなステップを踏み、身体を上下に揺らし始める。
「俺はガキの頃からボクシングジムに通ってんだ、素人じゃ触れもしねえぞ!」
そういうと同時に平塚は踏み込んで左のジャブ二発、右フックという連携を繰り出してきた。しかし瑠璃は眉ひとつ動かすことなく攻撃をかわし、いつの間にか密着してから片手で男を押し返す。
「んなっ……!?」
いとも簡単に懐に入られ驚く平塚に、瑠璃は表情を変えないまま言う。
「お前が先に殴って来たんだから、次はこっちが殴ってもいいんだよな」
「な、なんだと!?」
瑠璃は一歩踏み込み、右手で殴る構えを見せた。平塚は反射的に両腕でガードの態勢を取るが、瑠璃はそのままガードする腕を殴りつけた。その瞬間、またも『ベギッ』と硬い物が折れる音が響いた。
「うぎっ!? ぎゃあああっ、お、折れ……腕が……ああああああ!!」
瑠璃のパンチをガードしたはずの腕は三センチほどの穴が開いたようになって陥没し、そこで腕が不自然な曲がり方をしてしまっていた。瑠璃の握った拳は普通のパンチではなく、握り込んだうちの中指だけを立てて撃ち込む『竜頭拳』と呼ばれる方法である。石のように硬く鍛えられた瑠璃のそれは、防御したはずの骨と筋肉を一撃で使い物にならなくしてしまった。
「うあああ! 痛てぇぇ、ぐあああああ……!」
瑠璃は痛みに悶絶する平塚の襟首を掴んで真っ直ぐ立たせると、ほぼそれと同時に腹部へさっきと同じ竜頭拳を叩き込む。
「うぶっ!? ぐおえええええーーーーーっ!?」
腹を殴られただけのはずだが、その苦しみ方は尋常ではなかった。床に倒れて足をばたつかせ、それから胃の中身をさんざんに吐き出してのたうち回る。それを乗り越え、瑠璃は残る茅ヶ崎の前まで迫った。
「な、なんなんだお前、どうなってんだよこれは……」
「脆い手下だな。もうちょっとマシなヤツ……いや、いないか」
「ちょ、ちょっ待てよ、俺がなにしたってんだ。お前なんか知らねーぞ」
「お前が知らなくてもこっちは用があるんだよマヌケ」
「なっ……!?」
「とりあえずスマホ出せ。今すぐ」
「あぁ!? なんでテメーに命令されなきゃ……!」
その瞬間、瑠璃は茅ヶ崎の髪を掴んで思いっきりスチールロッカーに叩き付けた。
「ぐわっ!?」
それから二度三度と叩き付けた後、髪を掴んだまま瑠璃は茅ヶ崎の顔を自分の方へ向ける。その鼻は曲がり、前歯も折れてしまい、彼の顔は無残な状態となっていた。
「あ、あが……」
「スマホ出せって言ったんだ聞こえねーのか」
「は、はひ……!」
茅ヶ崎がスマホをポケットから出すと、瑠璃はさらに続けて言う。
「画像フォルダ開け。そんで全部削除しろ」
「な、なん……」
そう言い返そうとした瞬間、再び茅ヶ崎の顔はロッカーに叩き付けられる。
「ぶへえっ!?」
「誰が返事していいつったんだよ。画像消せ分かったか」
茅ヶ崎が震える指で画面を操作し、スマホで撮影した画像の一覧が開かれる。その中に小瓶を持ったモモの画像もあり、それも含めて画像を全消去する操作をさせた。操作が終わり、画像フォルダが空になったのを確認すると、茅ヶ崎はぶるぶる震えながら声を出した。
「け、消したからもう勘弁してくれ……」
「おい、さっきの画像は他にコピーしたりしてないだろうな」
「し、してない……スマホだけ……」
それを聞いて、瑠璃はようやく茅ヶ崎の髪から手を離して自由にしてやる。すると彼は鼻血まみれの顔を押さえながら、変な笑い声を出し始めた。
「ひ、ひひ……お前、このままで済むと思うなよ……お、俺のバックにはヤバい連中が付いてるんだ……お、俺がこんな目に遭ったって知ったら、そいつらが黙っちゃいないだろーぜ」
それがただの脅しか本気かは分からなかったが、瑠璃はそれでも態度を変えることなく、感情の読み取れない目つきで茅ヶ崎を見た。
「そうか。仲のいいオトモダチがいて良かったな」
「ぐっ……強がってんじゃねーぞお前……後で絶対に復讐してやる、生まれてきてすみませんって思うくらいにな……くへへ」
「ところで、そのオトモダチは今すぐここに来てくれんのか?」
「……へっ?」
「これで終わりなワケねーだろ。なんだっけ、生まれてきてすみません、だったか?」
「ひっ……ぎゃああああああっ!?」
その悲鳴もすぐに聞こえなくなり、しばらくして瑠璃は運動部の更衣室を後にする。それから後、部活が終わって着替えに戻って来た生徒たちはその惨状を見つけ、現場は一時騒然となるのだった。
翌日も学校ではその噂で持ちきりだった。運動部の三年生数人がロッカーで重傷を負う暴行を受けたが、その凄惨な有様のせいで、彼らは猛獣に襲われたんじゃないかと言う者までいた。特に茅ヶ崎の怪我はひどく、全身で数か所の骨が折れ、しばらくは入院生活を送るしかないということだった。瑠璃はその噂話には加わらず自分の席で大人しくしていたが、モモがひどく心配そうな顔で近付いて来た。
「ね、ねえ瑠璃くん。昨日のセンパイたちの事件って、まさか……」
瑠璃はモモに視線を合わせず、黒板の方をじっと見たまま言った。
「画像は全部消去させといた。もう安心していいぞ」
「……!」
モモは驚きで声が出ず、その後に泣きそうな顔になってしまった。だが、直後に教室の扉が開き、担任の教師が慌てた様子で駆け込んできた。
「と、戸塚! 戸塚は来てるか!」
息を切らした教師に呼ばれ、瑠璃は席から立ち上がって教師の下へ近付く。それから二言三言喋った後、瑠璃は教師に連れられて出て行ってしまった。その様子を見たクラスメイトたちはざわめき、不安でずっと立ち尽くしているモモの所へ、米田が近付いて来た。
「なあモモ、さっき戸塚と何を喋ってたんだ? それに担任に呼び出されるし、あいつなんかやったのか?」
「……知らない」
「いやまあそーだろうけどよー、お前が大怪我したと思ったら、今度は彼氏だもんなー。なんか呪われてんじゃね?」
モモが黙っていると、米田は瑠璃の机に近付き、顎に手を当てて考え込む。
「どーも最初から変だと思ってたんだよな。身体測定で百メートル十一秒とか出すし、戸塚って普通じゃねえよやっぱり」
そう言いながら、米田は瑠璃の机の引き出しを覗き込み、奥に入りっぱなしになっていた書類を引っ張り出した。それは転校直後に行った、身体測定の測定票だった。
「俺のアンテナではここら辺に秘密が……どれどれ……って、はあ!?」
大きな声を出した米田の方にクラスの注目が集まり、生徒たちが集まって来る。どうしたと覗き込むクラスメイトに対し、米田は信じられないといった様子で答えた。
「いや、これ身体測定の結果なんだけどよ……戸塚の奴、握力が九十キロもあるんだよ」
その言葉にクラスメイト達はどよめくが、測定票には確かにそう書かれている。高校生の平均握力は四十キロ前後であり、成人男性ですら五十キロを超える人は少ない。それが倍以上の数値を記録しているのだから、驚愕を通り越してデタラメにしか思えないことであった。
「マジかよこれ。てかマジで? あいつ本当に人間か……?」
クラス中がどよめく中、当の本人は生徒指導室に呼ばれ、数人の教師と向かい合って座り話をしていた。
「昨日、放課後に運動部の更衣室に出入りする君の姿を見たという報告があったんだが、これは本当かね?」
生徒指導のガタイのいい教師にそう尋ねられたが、瑠璃はずっと口をつぐんで黙ったままだった。
「黙ってちゃわからんだろう戸塚。報告が事実なら、三年生をやったのもお前なのか?」
瑠璃は相変わらず返事をせず、横にいた担任が汗をハンカチで拭きながら言う。
「しかしですね、高校生一人があんな真似できますかね? 全員骨が折れる重傷で、クマにでもやられたとしか説明できませんよ」
生徒指導の教師はため息をつき、椅子に深く腰掛け直して腕を組む。そしてしばらく考え込んだ後、ふとあることを思い出す。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。戸塚……そういえば彼が転校してきた理由は何でしたっけ?」
その話題が出た瞬間、瑠璃の表情がわずかに動いた。瑠璃は黙ったまま視線を窓の外へ向け、しばらく校門の方を眺めていたが、やがて表の通りから複数台の改造バイクが校庭に乗り込んでグルグルと走り始めた。
「な、なんだ!?」
教師たちが驚いて窓に近付き様子を見る中、バイクの集団はけたたましい排気音とクラクションを鳴らし、その中でリーダーと思われる人物が拡声器を出して叫んだ。
「おいッ! 昨日俺のダチをやった奴を出せや!! この学校の生徒だってのは知ってンぞ!!」
そう叫びながら、いわゆる暴走族という連中は砂埃を立て、校庭をぐるぐる走り始めた。しかし時間が経っても誰も出てこず、痺れを切らした彼らは校舎の窓を持っていた鉄パイプなどで割り始めた。
「オラァ! 出てこねえと窓全部叩き割っぞ! はよ出てこいや!!」
教師たちが取り乱す中、瑠璃は仕方なしといった顔で立ち上がり、生徒指導室を出て行く。
「おい、どこへ行くんだ戸塚!」
「放っといたら窓が割られるんで。話付けてきます」
瑠璃は上着を脱いで靴を履き替え、一人で校庭に姿を現わした。バイクの集団は瑠璃を取り囲んで停車し、校舎の窓からは生徒たちがその状況を固唾をのんで見守っていた。
「出てきやがったな。テメーが戸塚って奴か……って、あ?」
リーダー格と思われる、紫色に髪を染めた男が瑠璃の顔を見て首をひねる。そしてしばらく間を置いてから、あっと大きな声を上げた。
「お、お前まさか、あの時の……!?」
「なんだ、ブンブンうるせーのが来たと思ったらお前か。あの時、二度とツラ見せんなって言ったよな」
「う、うぐ……!」
紫色の髪をしたリーダーは、前歯のない口を震わせて目を見開く。なぜか二人が向き合ったまま動かない状況に、生徒たちどころか集まった暴走族でさえ首を傾げる状況だった。
「黙れッ! 茅ヶ崎をボコボコの病院送りにしたのはお前かって聞いてんだよ!」
「だったらどうするんだ」
「あいつは色々と使える奴だったんだよ。その礼はさせてもらうからなコラァ!」
「お前、あんだけやられてまだ懲りてねーのか。前歯だけじゃ足りなかったらしいな」
「うるせえ! 今度は前と違ってこっちは十五人いんだよ! この前歯の恨み、今度こそテメーを地獄送りにしてやらあ!」
その言葉と同時に、暴走族たちが跨っていたバイクから降り、木刀や短い鉄パイプを持って迫って来た。
「わかった。どっからでもかかってこいクソども」
「お前ら、ぶっ殺しちまえ――!!」
その事件はしばらくの間、高校やその周辺で伝説となった。たった一人の生徒が校庭に乗り込んできた暴走族十五人を叩きのめしてしまったからだ。生徒も身体に数か所の打撲や擦り傷を負ったが、対する暴走族側はと言うと、ほぼ全員がその場に倒れて起き上がれず、折れた骨の数は全員分で二十三本にも及んでいたという。あまりに人間離れした戦いぶりとその結果に、実際に目撃していた者でさえ信じられず、それを伝え聞く者にとっては尚更デタラメにしか聞こえない話であった。
戸塚瑠璃は一ヶ月の停学処分となった。校内での乱闘と暴行が主な理由であるが、その内容があまりに現実離れしていたがために、教師たちも処分をどうするのか頭を悩ませた程だった。しかしこれだけの大騒ぎとなれば、普通なら退学となってもおかしくない所だったが、瑠璃の行動の背景が明らかになると、騒ぎをなるべく抑えたい学校側の思惑と、彼の行動を擁護する声によって停学処分で済んだのだった。
三年生の茅ヶ崎らは地元の暴走族と以前からつるんでおり、複数の女性に対する性的暴行や違法薬物に手を出していたことが発覚し、そのまま退学処分、刑事事件へと発展することになった。そして彼に違法薬物を流していたのが高校を襲撃した暴走族などの反社会的グループであり、そして瑠璃は彼らとも乱闘事件の前から因縁を持っていた。
「――よおモモ、また戸塚の所へノートの写し持って行くのか?」
「うん、まあね!」
放課後、帰り支度をするモモに米田が声をかけた。彼女の怪我はすっかり治り、痕も残らなかった。モモはノートのコピーを入れたファイルをカバンに詰め込むと、急ぎ気味に教室を出て行った。
「熱心だねえあいつも。まるで通い妻じゃん羨ましいなオイ!!」
一人叫ぶ米田をよそに、モモは学校を飛び出してある場所へと向かう。やがて辿り着いた場所は、古くはあるが塀に覆われ、立派な作りと広い敷地を持つ家だった。玄関のベルを鳴らすと、ドアを開けてジャージ姿の瑠璃が出て来た。
「瑠璃くん、今日もノートの写し持ってきたよ」
「いつも悪いな」
「なに言ってんの、もー。私のせいでこうなっちゃったトコもあるんだし、これくらい当然でしょ。勉強遅れて瑠璃くんが留年とかしたら嫌だもん」
瑠璃は差し出されたノートのコピーを受け取り、モモを見て頭を下げる。
「……ありがとう。助かってる」
それに満足げな笑みを浮かべ、モモは瑠璃の脇腹をバシバシと手で叩く。
「今日も一緒に勉強してっていい?」
「あ、ああ」
モモの押しの強さに負け、一緒に勉強するのもお馴染みとなっていた。木造の家に上がり、瑠璃の部屋に案内されたモモは、彼の部屋に腰を下ろし、畳の床に置かれた丸いテーブルの前で一息つく。
「それにしてもさー、驚いたよね。瑠璃くんちが拳法の道場だったなんてさ」
「まあ一般的ではないよな」
瑠璃の家には離れの稽古場があり、そこで祖父が古流武術の道場を開いている。表向きは普通の護身術といった形で門下生なども取っていたりするが、その実態は超が付く実戦武術であり、稽古には真剣も用いて極限まで技と体を鍛え、戦う時は常に殺し合いの覚悟を以て臨むという、知らない人が聞けば卒倒しそうな危険な流派であった。
「今まで聞きそびれてたんだけどさ、なんで瑠璃くんはあんなにメチャクチャ強いの?」
「なんでって、子供の頃からアホみたいに鍛えられたからとしか……」
幼い頃の瑠璃は内向的で、じっとしている事の多い子供だった。そんな彼を心配した親が、祖父のツテで紹介したのが古い中国武術を教える師匠であった。その人は激動の時代を生き抜いてきたため、その技も生きるか死ぬかの世界で磨かれたものであり、命を狙う刺客を返り討ちにしたのも一度や二度ではなかったという。しかしそうした人生のために後継者には恵まれず、練り上げた技も彼の代で失伝すると思われていた所を、瑠璃の祖父が気を利かせて孫を紹介したのである。そんな事情も知らず、瑠璃は体力づくりとか健康体操という名目で無茶な特訓をさせられ続け、気が付いた頃には常人離れした身体能力と頑丈さを持つに至ったのである。その師匠も二年前に亡くなり、瑠璃は祖父の道場にあらためて入門、稽古を続けて生活していた。
「――ふーん、そうなんだねえ。私には全然想像付かないや」
「俺も変だと思ったんだよ。でも途中で辞めさせてくれなかったしな」
「それでさー、高校二年生になって転校してきたのはなんで?」
急な話の方向転換に苦笑しつつ、瑠璃は家族以外には語らなかった事実を喋り始めた。
「一年の冬に表歩いてたら、同級生の女子がクルマで誘拐されそうな所に出くわしてな。それで攫おうとしてた連中を……まあ、反省させたんだよ。その中にこの前学校に来たバカも混じってたんだけど」
「えー、すご! 瑠璃くん前からアツい男だったんだ!」
「ただまあ、ちょっとしっかり目に注意したせいで噂が広がっちまってさ。学校に他の親とかから苦情が来たりし始めたんだよ。こんなアブない奴と一緒で大丈夫かって」
「なにそれ、ひどーい。瑠璃くんなんも悪くないじゃん! 人助けしたのに!」
「結局、クラスの奴とか教師からも腫れ物扱いみたいになって、それで転校って流れに」
「そっか、だから普通に卒業したいとか言ってたんだね」
「ああ」
モモは急に立ち上がって丸いテーブルを回り込み、瑠璃の隣に座ってその腕にしがみつく。
「……急にどうした」
「ふふーん。私はそんなハクジョーじゃないし。瑠璃くんの頼りになるとこも優しいとこもちゃんと知ってるよ」
「そ、そうか」
珍しく瑠璃は顔を赤くして目を逸らしていた。モモはそのまま瑠璃の身体にもたれかかり、少し嬉しそうな顔をして言った。
「ねえ瑠璃くん」
「なんだ?」
「正義のヒーローってさ……作り話とかじゃなくて、本当にいるんだね」
返事に窮し、しばらくそのまま黙っていた瑠璃だったが、そんな沈黙を切り裂くように部屋のドアが勢いよく開けられた。
「おにーちゃん差し入れ持ってきたよー。って、あー!」
急須と湯吞み、茶菓子のまんじゅうが乗ったお盆を持った小学生くらいの女の子が、二人の姿を見るなり大きな声を上げた。彼女はお盆を急いで机に置いた後、わなわなと震えてから廊下を走り出した。
「ねーおかーさーんっ! おにーちゃんが彼女といちゃいちゃしてるー!」
「おい待て、誰が彼女だ! 叫びながら廊下を走るな!」
走り去る妹を追いかけようとした瑠璃だったが、ジャージの背中を掴んでモモが引き留める。瑠璃が振り返ると、モモは顔を赤くしながら笑顔を見せた。
「別に構わないんだけどなー。だって瑠璃くんは、私のヒーローだもん!」
瑠璃のヒーロー おわり




