第2話
「ふぅ……」
手元にあった魔玉はすでに体内で消化されている。
胸の奥に、異質な感覚が静かに根を張る。
――調伏、完了。
視界の隅に淡い光の文字が浮かび上がった。
▶《ビッグフロッグ》使役完了
襲いかかってきた個体は、《ビッグフロッグ》。
【断界】では珍しくないが、油断すれば命を落とす――Dランクモンスターだ。
僕の魔力量はCランク相当。
理論上は格上だが、無条件降伏させられるほどの差ではない。
だから真正面から支配はしない。
数十体の《ホーンラビット》で撹乱し、
足止め役の《ストーンゴーレム》で動きを封じる。
跳躍力に優れる巨体が地面を抉り、粘液混じりの舌が空気を裂いたが、連携の前では意味をなさない。
安全圏から指示を飛ばし続け、僕が殴り飛ばし、危なげなく討伐。
そして――調伏。
戦闘は数分で終わった。
周囲に残る魔素の揺らぎが、戦いの余韻のように漂っている。
「んっふ」
また新たな戦力が増えたことに興奮しながら、僕は地面に散らばる残骸を確認し、重複しなかった魔石を回収した。
拳大のものから指先ほどの欠片まで、どれも資源として価値がある。
腰のポーチに収めながら、小さく息を吐く。
今日は上出来だ。
新戦力の確保。
魔石の回収。
消耗も最小限。
断界の空は相変わらず現実感のない灰紫色で、遠くの地平はゆらゆらと歪んで見える。
長居する場所じゃない。
「帰るか」
呟くと同時に、意識を巡らせる。
従属契約の回路が応答し、気配が背後に集まった。
角を震わせる《ホーンラビット》たち。
岩の身体を軋ませる《ストーンゴーレム》。
そして――
ぬめりを帯びた巨体が、低く喉を鳴らす。
新たに加わった《ビッグフロッグ》が、僕の背後で静かに控えていた。
その巨体は先ほどまで敵だったとは思えないほど従順だ。
だが油断はしない。
支配は絶対ではない。
気を抜けば、いつ牙を剥くか分からないのが【断界】の理だ。
僕は踵を返し、ゲートへと続く帰路を歩き出す。
湿った土の匂い。
遠くで響く咆哮。
空気に混じる魔力のざらつき。
この世界の日常。
だが――
ゲートの光が見え始めたその時。
背筋に、わずかな違和感が走った。
《ホーンラビット》の一体が耳を伏せ、警戒の姿勢を取る。
遅れて、《ビッグフロッグ》が低く唸った。
……何かいる。
僕は足を止め、静かに周囲へ視線を巡らせた。
【断界】は、帰る瞬間が一番危ない。
そして次の瞬間、背後の霧がゆっくりと揺らいだ。
霧の揺らぎの中から現れたそれは――
顔が、なかった。
あるべき位置には凹凸すらなく、のっぺりとした闇だけが広がっている。
そこから生えた八本の腕が、不自然な角度でゆらゆらと揺れていた。
右手には黒ずんだフライパン。
左手には刃渡りの長い包丁。
残りの腕は全て組んでいた。
下半身は存在せず、胴体は霞のように透け、霧と同化するように揺らめいていた。
――幽霊。
こんなモンスターは見た事がない。もしかすると〔当たり個体〕の可能性がある。
思わぬ事態に体が咄嗟に動こうとする。
だが次の瞬間、その存在から溢れ出る魔力の密度に、思考が凍りついた。
重い。
空気が粘つく。
肺が押し潰されるような圧迫感。
直感が、警鐘を鳴らす。
……まずい。
こいつは――
下手をすれば、Bランク。ということは間違いなく〔当たり個体〕——!
喉がひくりと鳴った。
《ホーンラビット》たちが一斉に後退る。
《ストーンゴーレム》が僕の前に立ち、盾のように身構える。
新たに従えた《ビッグフロッグ》でさえ、低く唸りながら動こうとしない。
格の違いを、本能が理解している。
霧の怪異は音もなく宙を滑り、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
フライパンが、かすかに揺れた。
――キン。
金属が鳴ったような錯覚。
次の瞬間、八本の腕が不規則に持ち上がる。
逃げるか。
戦うか。
それとも――調伏を狙うか。
脳裏に選択肢が浮かび、同時に計算が走る。
真正面から支配できる確率は低い。
だが、消耗させれば可能性はある。
しかし――
この圧。
一歩間違えれば、死ぬ。
僕はゆっくりと息を吸い、震えそうになる指先を押さえ込んだ。
断界で生き残る者は、恐怖に支配されない者だ。
「……総員、迎撃準備」
静かに命じる。
角兎たちが散開し、
石の巨兵が大地を踏み鳴らし、
巨蛙が低く体を沈める。
そして、顔のない怪異が――
包丁を、ゆっくりと持ち上げた。
———————————————
〔当たり個体〕
断界に出現するモンスターの中でも、
既存の種の特性や能力値から大きく逸脱した存在を指す総称。
通常個体とは明確に異なる挙動・魔力反応・能力を示すため、
各国管理機関および研究機関により危険監視対象に指定される。
〔当たり個体〕は同ランク帯の基準を超える戦闘能力を持つことが多く、
例:
•Dランク個体 → Bランク相当の脅威
•Cランク個体 → Aランク級被害事例あり
そのため、発見時は単独交戦を避け、
速やかな報告と後退が推奨されている。




