最終章 空を見上げる者
その子は、堤防の上に座っていた。
戦争が終わってから生まれた子どもだ。
爆音も、警報も、恐怖も、物語の中でしか知らない。
ただ、空が好きだった。
理由は特にない。
学校の帰り道、ふと見上げると、そこに広がっているからだ。
雲が流れ、鳥が飛び、時折、遠くを小さな飛行機が通る。
白い線を引きながら、ゆっくりと。
「ねえ」
隣に座る祖母に、子どもは聞いた。
「昔の空も、同じだった?」
祖母は、少しだけ考えたあと、頷いた。
「そうだね。色は、同じだったよ」
嘘ではない。
ただ、すべてを語ったわけでもない。
子どもは安心したように、また空を見る。
それだけで、十分だった。
堤防の下を、風が抜けていく。
草が揺れ、海がきらめく。
子どもは立ち上がり、両手を広げた。
「飛べそうな気がする」
無邪気な言葉だった。
だが祖母は、その背中から目を離せなかった。
かつて、同じように空を見上げていた者たちがいた。
飛びたいと願い、空に近づき、そして戻らなかった者たち。
彼らの名前を、この子は知らない。
知る必要もない。
それでも――
彼らが見た空が、今もここにある。
祖母は、そっと手を合わせることもせず、
ただ、静かに空を見上げた。
祈りは、もう別の形になっている。
子どもは笑いながら、堤防を駆け出す。
風に押され、転びそうになりながらも、前へ進く。
空は、何も答えない。
だが、拒みもしない。
誰かが命を懸けて辿り着いた場所は、
今、ただの空として、ここにある。
子どもは立ち止まり、もう一度、空を見上げた。
そこには、境界も、命令も、行き先もない。
ただ、広がっているだけだ。
それを見ていられる世界が、
確かに、ここに残っている。
風が吹く。
雲が流れる。
そして今日も、空は高い。
この物語では、「飛んだ者が報われる結末」を描いていません。
英雄にもならず、歴史を変えたわけでもなく、彼らはただ、空へ行き、戻らなかっただけです。
それでも、彼らが見た空が、戦後を生きる子どもたちの頭上に残っているなら
――それは、完全な無意味ではなかったのではないか。
ありがとうございました。
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