第三章 順番の来た空
名前が呼ばれた瞬間、胸の奥が静かになった。
同期の青年は、その感覚に驚いた。
もっと恐怖が込み上げてくるものだと思っていた。足がすくみ、声が出なくなるのだと。
だが、現実は違った。
「ああ、来たか」
それだけだった。
整列した仲間の中に、あの少年の姿はない。
当然だ。もう、ここにはいない。
準備は淡々と進む。
装備を受け取り、注意事項を聞き、形式的な言葉を交わす。
誰も「死ぬ」とは言わない。
誰も「生きたい」とも言わない。
言葉にした瞬間、崩れてしまうものがあると、全員が分かっていた。
機体の前に立つ。
見慣れたはずの姿なのに、今日は違って見えた。
――自分は、これに乗るのか。
触れる金属は冷たく、確かな重さがある。
それは夢ではなく、現実だという証拠だった。
ふと、出撃前夜の会話が蘇る。
あの少年は、空を見て、少しだけ笑っていた。
「怖くないのか」
そう聞いた自分に、彼は首を振った。
「分からない。でも……空を見るのは、嫌いじゃない」
それだけだった。
操縦席に座り、ベルトを締める。
視界が狭まり、世界は前方だけになる。
エンジン音が腹に響く。
この音を聞くと、不思議と余計なことを考えなくなる。
滑走が始まる。
地面が流れ、速度が上がる。
そして――空が、持ち上がった。
青年は息を呑んだ。
やはり、空は綺麗だった。
それだけは、何度見ても変わらない。
高度を上げるにつれ、基地は小さくなり、やがて見えなくなる。
戻れないという事実よりも、進んでいるという感覚の方が、強かった。
無線が入る。
短い命令。
彼は応答し、進路を修正する。
途中、ふと視界の端に動くものがあった。
鳥だ。
小さな影が、風に乗って進んでいる。
どこへ行くのかも分からず、ただ飛んでいる。
青年は、笑ってしまった。
「……あいつも、見てたかな」
聞こえるはずもない相手に、独り言を落とす。
目的地が近づくにつれ、身体がこわばる。
恐怖は、確かにある。
だが同時に、別の感情もあった。
――自分は、ここまで来た。
逃げなかった。
背を向けなかった。
それが正しいかどうかは分からない。
誰かを救うのか、何も変えないのか、それも分からない。
それでも。
空を見上げる人が、いつか増えるなら。
この空を、恐れずに済む日が来るなら。
その未来に、自分はいなくてもいい。
青年は操縦桿を握り直した。
最後に、深く息を吸う。
遠くで、朝の光が差していた。
それは、終わりの色ではなかった。
始まりとも呼べない、ただの光。
だが、確かにそこにあった。
彼は、その光に向かって進んでいった。
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