第二章 地上に残る者たち
一 母
空が騒がしい朝だった。
風の音でも、鳥の声でもない。
遠くで、何かが飛び立つような――そんな気配。
母は、干しかけの洗濯物を手にしたまま、空を見上げた。
雲は少なく、日差しは強い。良い天気だ、と誰かが言えば、きっとそうなのだろう。
息子が空へ行った日も、こんな天気だった気がする。
「……」
名を呼びかけそうになって、やめた。
今さら声をかけても、届かないことは分かっている。
赤紙が来たとき、母は泣かなかった。
泣くことが、彼の足を引き止めてしまうような気がしたからだ。
笑って送り出したわけでもない。
ただ、いつも通りに朝食を出し、いつも通りに背中を見送った。
それが、母として正しかったのかどうかは、今も分からない。
畑に出る。土は変わらず、作物は芽を出し、季節は巡る。
世界は、息子がいなくなっても、何事もなかったように続いている。
それが、どうしようもなく、腹立たしかった。
それでも母は、ふと空を見て思う。
――あの子は、空が好きだった。
もし、最後に見たものが空だったなら。
もし、怖さよりも、懐かしさを感じてくれたなら。
それだけで、いい。
母は洗濯物を干し直し、静かに手を合わせた。
二 整備兵
整備兵の男は、格納庫の床を見つめていた。
昨日まで、そこには確かに一機の機体があった。
今日、それはもうない。
工具を拭き、定位置に戻す。
何度も繰り返した作業だが、今日はやけに手が重かった。
「また、行ったか」
独り言のように呟く。
彼は、彼らを英雄だとは思っていなかった。
だが、使い捨ての部品だとも思えなかった。
出撃前夜、あの少年は不思議な目をしていた。
恐怖でも、覚悟でもない。
何かを探している目だ。
男は思う。
本当は、彼らの多くが「何のためか」を知らないまま飛んでいくのだと。
だからせめて、自分の仕事だけは丁寧にやろうと決めていた。
彼らが最後に触れる機体を、少しでもまともな状態にしてやりたかった。
意味があるかどうかは分からない。
だが、やらずにはいられなかった。
工具箱を閉じ、外に出る。
空は、驚くほど静かだった。
男は帽子を取り、短く頭を下げた。
「……よくやった」
誰に向けた言葉か、自分でも分からないまま。
三 同期
同期の青年は、寝台に腰掛けたまま動けずにいた。
空いた席が、一つ。
それだけで、何が起きたのかは理解できる。
「早すぎだろ……」
笑いながら言ったつもりだったが、声は震えていた。
彼は怖かった。
怖いことを、怖いと認めるのが、何より怖かった。
あいつは、怖がっていなかったように見えた。
いや、違う。
怖さを、別のものに置き換えていたのだ。
空を見て、少し笑っていた顔を思い出す。
「……ずるいな」
自分はまだ、地上にいる。
明日か、明後日か、順番は分からないが、いずれは行く。
それでも、今はまだ生きている。
青年は立ち上がり、外に出た。
空を見上げる。
青い。
何も知らない顔で、広がっている。
「……見てるか」
届くはずもない問いかけ。
だが、胸の奥で、何かが小さく灯った。
――空は、まだある。
――自分が見上げている限り。
それだけで、今日を耐える理由には、なった。




